*青山真治脚本・監督
平日最終回の上演に駆け込んだが、観客があまりに少なく唖然。それでも上演直前には二十人くらいにはなっただろうか。ここまで少ないといっそ清々しく、周囲の反応も気にならず映画に集中できる。
2015年、「レミング病」という原因不明のウィルスが世界に蔓延している。それに感染すると自殺してしまう恐ろしい病である。年老いた富豪(筒井康隆)が病に感染した孫娘ハナ(宮崎あおい)を救おうと二人の男のもとを訪れる。彼らが演奏する音を聞けば発病を抑制できるというのである。
その男とはミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)で、彼らは自然の中の様々な音を採集し、廃物を再利用しながら音を作り出し、静かな暮らしを送っている。しかしミズイはかつて同じ病で恋人を亡くしており、アスハラ自身もレミング病に感染しており、発病の危険を抱えているのだった。
ところが、二人の演奏する音楽というのが優しい癒しの調べなどではなく、すさまじい爆音なのだ。
メロディも意味もつかめず、いったいこれがいつ終わるのかまったくわからない。そういう音を聞かされていると、これほど大音量であるにも関わらず眠気に襲われてしまうのである。
題名の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』とは、十字架につけられたイエス・キリストが叫んだ言葉である。「わが神、わが神。なぜに我を見捨て給うや」のヘブライ語から取ったもの。キリスト教徒は勿論、キリスト教、聖書の心得がある人ならば誰でも知っており、この映画の内容とタイトルはすぐに結びつく。すなわち神に見捨てられて絶望の叫びをあげている多くの人々がいること、そしてそれを救おうとしている人がいること。どんな状況になっても神は決して人間を見捨てはしない
ことを描かんをしているだろうと、たちどころに理解して(多少のずれはあっても)しまうだろう。
この暗号のようでもあり、祈りの言葉のようでもあり、なじみのない人にはまことにわかりにくく覚えにくい言葉をタイトルにした青山監督の意図は深く、安易な解釈を拒否しているようにも思える。だから終盤、大富豪がペンションの女主人(岡田茉莉子)との会話の中でこの言葉を口にし、「今まで神なんか信じたことはなかったのに」と言わせているのは、非常に説明的な(というか解説風、注釈のような)感じを受ける。
浅野忠信という俳優は表情から内面がとても読みにくい人である。恋人と音楽パートナーをなくし、どんな気持ちで演奏に臨んでいるのか、一人になったのちどんな魂を抱えて生きていこうとしているのか、ほとんどわからない。
大音響から解放されて、正直ほっとした気分は確かにあるものの、この作品から希望や癒しを感じ取るというよりは茫然自失状態で映画館をあとにした。しかしその感覚は決して不愉快ではない。
癒しや救いという言葉の安易な使われ方をぶった切るかような爆音は、とうぶん忘れられそうにない。
平日最終回の上演に駆け込んだが、観客があまりに少なく唖然。それでも上演直前には二十人くらいにはなっただろうか。ここまで少ないといっそ清々しく、周囲の反応も気にならず映画に集中できる。
2015年、「レミング病」という原因不明のウィルスが世界に蔓延している。それに感染すると自殺してしまう恐ろしい病である。年老いた富豪(筒井康隆)が病に感染した孫娘ハナ(宮崎あおい)を救おうと二人の男のもとを訪れる。彼らが演奏する音を聞けば発病を抑制できるというのである。
その男とはミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)で、彼らは自然の中の様々な音を採集し、廃物を再利用しながら音を作り出し、静かな暮らしを送っている。しかしミズイはかつて同じ病で恋人を亡くしており、アスハラ自身もレミング病に感染しており、発病の危険を抱えているのだった。
ところが、二人の演奏する音楽というのが優しい癒しの調べなどではなく、すさまじい爆音なのだ。
メロディも意味もつかめず、いったいこれがいつ終わるのかまったくわからない。そういう音を聞かされていると、これほど大音量であるにも関わらず眠気に襲われてしまうのである。
題名の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』とは、十字架につけられたイエス・キリストが叫んだ言葉である。「わが神、わが神。なぜに我を見捨て給うや」のヘブライ語から取ったもの。キリスト教徒は勿論、キリスト教、聖書の心得がある人ならば誰でも知っており、この映画の内容とタイトルはすぐに結びつく。すなわち神に見捨てられて絶望の叫びをあげている多くの人々がいること、そしてそれを救おうとしている人がいること。どんな状況になっても神は決して人間を見捨てはしない
ことを描かんをしているだろうと、たちどころに理解して(多少のずれはあっても)しまうだろう。
この暗号のようでもあり、祈りの言葉のようでもあり、なじみのない人にはまことにわかりにくく覚えにくい言葉をタイトルにした青山監督の意図は深く、安易な解釈を拒否しているようにも思える。だから終盤、大富豪がペンションの女主人(岡田茉莉子)との会話の中でこの言葉を口にし、「今まで神なんか信じたことはなかったのに」と言わせているのは、非常に説明的な(というか解説風、注釈のような)感じを受ける。
浅野忠信という俳優は表情から内面がとても読みにくい人である。恋人と音楽パートナーをなくし、どんな気持ちで演奏に臨んでいるのか、一人になったのちどんな魂を抱えて生きていこうとしているのか、ほとんどわからない。
大音響から解放されて、正直ほっとした気分は確かにあるものの、この作品から希望や癒しを感じ取るというよりは茫然自失状態で映画館をあとにした。しかしその感覚は決して不愉快ではない。
癒しや救いという言葉の安易な使われ方をぶった切るかような爆音は、とうぶん忘れられそうにない。
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