*シャーロット・ジョーンズ作 小田島恒志・則子翻訳 高橋正徳(文学座)演出 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 12日まで
舞台上手1階にキッチンとダイニング、2階に寝室とベビーベッド、中央部にはパソコンのある部屋と玄関ドア。下手はテレビとソファのあるリビング、その中二階に寝室がある。こういう作りの家を「テラスハウス」というらしい。ある町の一角、同じ間取りの3軒の家に、3つの家族が暮らす。ビデオショップを経営しているジョン(中山裕一朗)は、幼児性愛者と誤解され、近所の悪ガキから暴力をふるわれており、神経を病んでいるらしい母のエルジー(山本道子)との暮らしに辟易している。バーナビー(小林タカ鹿)とルイーザ(ハマカワフミエ)夫婦には、女の子が生まれたばかり。泣き止まない赤ん坊に妻はいらだち、産後の肥立ちも良くない。夫の気遣いもことごとく裏目に出る。元トラックの運転手だったブライアン(福士恵二)とジャネット(松本紀保)夫婦の間は冷え切っており、ジャネットは自分が癌だと思い込んでいる。15歳の一人息子ジョシュ(碓井将大)は引きこもりで、パソコンのチャットをして過ごす。
彼らはご近所同士で、顔くらいは知っているが行き来はない。赤ん坊の泣き声や夫婦喧嘩の物音などを聞きながらさまざまな憶測をし、表でばか騒ぎをする若者たちに怯えるうち、突然、通り一帯が停電した。様子を見に通りへ出たり、蝋燭やガスのヒーターなどを借りに訪れたり、人々は暗闇の中で右往左往する。観客は安全な地域にいるご近所のように、その様相を覗き見る感覚である。
どの家庭も一筋縄ではいかない問題を抱えている。たとえば赤ちゃんの夜泣きが収まり、母親の体調が回復すればこの夫婦のぎくしゃくした関係は改善に向かうのか?息子の幼児性愛者の誤解が解けて恋人でもできれば、母親はここまで息子を攻撃しないのか、癌の疑いがきっぱりと否定されれば、妻は朗らかになるのかと想像するが、若夫婦はともかく、あとのふた家族の確執は数年にわたって形成されたのであろう、心がねじくれ、凝り固まっている。
べつべつの建物にいながら、一つ屋根の下で展開する3つの家族の時間は、いかにも演劇らしい作りであり、人々の台詞の発語や動きなども綿密に構成され、飽きさせない。2004年にロンドンで初演され、ウェストエンドの話題をさらったとの評判もうなづける。作者のシャーロット・ジョーンズは俳優でもある由、自分でも台詞を発し、動きながら劇作したのでは?初演されたのはロンドンのコヴェントガーデンにある倉庫を改築したDonmar Warehouseという劇場であったそうで、「ベニサン・ピットのようなところかな」などと、あれこれ想像が膨らむ。
興味深く刺激的なのは、3つの家族の帰着点がほとんど読めない点である。物語終盤近くになって、彼らはようやく他の家へ助けを求めるアクションを起こす。「蝋燭を貸してほしい」とやってきたバーナビーに対し、ジャネットはまことに親切に優しく振る舞う。しかしその後彼女がとった行動は、それこそお互いの連れ合いには死ぬまで秘密にしておかなくてはならないほどのもので、だがほんの些細な、どうでもいいことと言ってしまうこともできる。引きこもりのジョシュはジョンとエルジーの家に押し入り、ガスバーナーを向ける。だが母親に押されっぱなしだったジョンが意外な落ち着きと貫禄を見せ、この騒ぎを何となく納めてしまう。これもお互いの親には言わぬほうがよいだろう。
彼らの心の扉を開け、心情を溢れさせたのは、停電の暗闇のせいだけではないだろうが、目が見えず、思うように動けないことで神経が研ぎ澄まされ、日ごろとはちがう行動をさせたのかもしれない。孤立していた人々が停電によって心を通わせ、なごやかな夜になった。これからはこの界隈も少しは明るくなるのでは…ということならごく安手のテレビドラマである。終幕、思いもよらなかった妻への強い愛情(恋慕といってもよい)をあらわにしたブライアンの最期は、観客の安易な想像を無情にはねのける。
客席最前列での観劇は、俳優の表情の変化をつぶさに見ることができた半面、どうしても見上げる形になるために、舞台ぜんたいを掴むことがむずかしかったのが残念だ。しかしながら翻訳、演出、演技ともに容易ではなかったであろう作品を、日本に居ながらにして味わう幸福を与えられたことが嬉しい一夜であった。
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