因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

笛井事務所第8回公演『冒した者』

2016-11-23 | 舞台

*三好十郎作 望月順吉(文学座)演出 公式サイトはこちら 新宿シアターモリエール 28日で終了
 寡聞にて今回の公演ではじめてその活動を知った。「笛井事務所」との名称であるが、いわゆる芸能プロダクションや芸能事務所ではない。設立から4年、「戦後日本文学を通して現代社会にも通じる人間の不変の姿を見ることをテーマに、公演毎に演出家・出演者をアレンジして活動」(公式サイトより)という高い志を掲げた硬質なカンパニーとお見受けする。自分自身、ここ数年三好十郎作品との幸せな出会いが続いており、そのご縁に導かれたのだろう。

 本作は作者の三好十郎自身を濃厚に投影した『浮漂』の続編と言われており、たしかに妻を亡くした「私」が主人公なのだが、戯曲の方向性、読む者、舞台を見る者への訴え方は大きく異なる。なので『浮漂』の後日譚という意識で臨むと、いささか躓くことになろう。まず冒頭から「私」の異様に長い独白なのである。心象の告白に始まり、いま自分が住んでいる家の住人たち、部屋の様子、そして時は夕刻。4つか5つの家族の合計9人がともに囲む夕食が始まる。

 「私」が問わず語りのように住人たちの紹介をはじめ、次々と登場する彼らは黒を基調にした洋服や和服を身に着けている。ネクタイやベルトなどに鮮やかな赤がアクセントになっているところなど、とても終戦後の日本とは思えないモダン(これは死語?)なものである。さらに彼らは顔を白く塗っている。歌舞伎俳優のように、顔ぜんたいをきれいに白塗りにするのではなく、輪郭部分はそのままの肌を残している。そしてある女性は毒々しいまでに青いアイシャドーを濃く施し、ある男性は志村のバカ殿ばりに眉毛が太い。おてもやんのように頬の赤い人物もいる。普通の服装、素顔で登場するのは、「私」とその友人の須永、そして広島で被爆したために盲目となった少女のモモちゃんの3人である。

 三好十郎作品は、登場する人々の葛藤や苦悩、衝突や決裂を息苦しいまでに生々しく描く、つまりリアリズムの演劇であると捉えていた。しかし今回の舞台において、素顔の3人と、まるでコスプレをしているかのようなそのほかの人々を同時に板に乗せて進行する芝居を見ていると、知らないあいだにできてしまった固定観念が崩れ、目の前の舞台に対して自分はどう向き合うことが適切なのかを迷いつつ、だんだんに楽しめるようになってきた。とくにおもしろいのは、物語が後半に入ると、人々はところどころメイクを崩して登場し、終盤に進むにつれてどんどん素顔を晒してゆくところである。

 本作はひとつ屋根の下に住む大勢の人々が出入りが多く、とくに須永が殺人犯ではないかと疑われはじめたあたりから、どうかするとドタバタ騒動劇の雰囲気すら持ち始める。それがこのメイクの変容によって、前半、戯画めいていささか騒々しかった人々から、生身の息づかいや肌の感触、とりつくろうことなどできなくなり、本音を吐き、暴走する様相がより強烈に伝わってきた。

 この演出には賛否があるだろう。徹底したリアリズムで人々の心の動きや関係性の変容を描く方法はもちろんあるのであり、今回のように抽象的なこしらえを加えることによって、物語の流れや人物の心の揺れをよりわかりやすい形で観客に示す方法と、どちらが正しい、まちがっているという判断は、自分にはできない。

 ただ違和感を抱いたのは、冒頭の「私」の独白が、非常に強い調子ではじまり、それが彼の造形の基調となっている点である。独白にト書きはない。だからどのような声の大きさ、速さ、高さ、色合いで発するかは演出家の解釈であり、それを体現する俳優の力量に任されていると考えられる。今回の松尾敏伸の造形が、作品ぜんたいのなかで適切であったのか、ここでも判断のできない自分がもどかしいいのである。この箇所は、まさに独り言のように静かにつぶやく演技も、じゅうぶん「あり」ではないだろうか。

 「私」は終幕においても壮絶な独白をする。ここでメイクを崩し、素顔に近くなった人々が「私」とともに舞台に並んで客席を見据える場面は圧巻だ。そしてそのあとの須永とモモちゃんのやりとりがいっそう静謐に、悲しく見えるのである。

 タイトルの「冒した者」は、「人間がみな死んでしまうかもしれない原子爆弾を、ほかならぬ人間が作り出して使った。神だけがその資格があることを、人間が冒した」という「私」の痛切極まりない独白に示されている。戦争加害者と被害者という区別ではなく、人間すべてが根源的に罪を内在しながら、それでもなお生きていくと「私」は客席をも挑発するかのように宣言するが、須永は「平和に近づこうとすると戦争に近づいてしまう。生きようとすると死ななければならない」(中略)「生きると言うことは、殺すという事ですよ」とモモちゃんの手をとり、その場から去る。

 10人の出演俳優は、新劇系劇団の養成所出身、声優やモデル、映画の撮影助手から俳優に転身した方など、多種彩々である。織子役の奥村飛鳥自身が笛井事務所の主宰であり、東京パフォーマンスドールのメンバーとしてデヴュー後、北区つかこうへい劇団、無名塾、蜷川幸雄主宰のさいたまネクストシアターを経て、アメリカ留学中に事務所を旗揚げしたという実に多彩な演劇歴の持ち主だ。多くの演劇人の指導を受け、その人生に接したのちに、安倍公房や岸田國士、今回の三好十郎など、日本文学を通して人間のすがたを見ることをテーマに活動を継続していることを、こちらも大切に受けとめたい。

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