横田ご夫妻のおつらさを想うと、同じ人の子の親として涙があふれます。
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「めぐみちゃんに会いたい」横田さん夫妻、時間とも闘い
朝日新聞 2017年11月3日20時35分
10月末の午後。川崎市内のマンションにワゴン車が止まった。横田早紀江さん(81)は、黒い杖を手にドアが開くのを待った。
車中から顔を見せたのは、夫の滋さん(84)。早紀江さんの姿を確かめると表情が明るくなった。滋さんはいま、週に数日、デイサービスに通っており、その帰りだ。早紀江さんは滋さんの右手に杖を握らせ、左手を支えて、二人でゆっくり自宅へと歩いた。
この日、早紀江さんに心境を聞いた。6日に予定されているトランプ米大統領との面会について、「まだ混乱しています。何を話したらいいのか……」。
早紀江さんは2006年4月にホワイトハウスでブッシュ大統領(当時)と面会した。「必ずめぐみは生きています」と訴えた。
「あのころはほかの被害者家族もみんな若かった。そして、希望もあった」
当時の夫妻は年に100回近い講演をこなした。だが、数年前から滋さんは参加が難しくなった。大好きなビールも飲めない。「野菜を口にしないのが心配で」。介護する早紀江さんも講演や集会の数を減らした。息子の拓也さん(49)が行くことが増えた。
トランプ氏との面会に、早紀江さんは家族写真を何枚か持っていくという。1977年11月15日。「本当に楽しい時代が、ばちーんと切られる」までの13年間に、滋さんが撮りためたものだ。
北朝鮮による拉致からの40年は、「暗黒の中を一生懸命泳いでいるようでした」。トランプ氏にも訴えたい。「めぐみちゃんに会いたい」
■「私たちがいなくなる前に」
海を隔てたすぐそこに娘がいる。それなのに、40年間なぜ会うことすらかなわないのか。
10月5日。横田早紀江さん(81)は滋さん(84)と川崎市の自宅でめぐみさんの53歳の誕生日を祝った。
部屋には40年前のお正月に滋さんが撮った写真が飾られていた。雪の中、早紀江さんの着物に袖を通すめぐみさんが写る。テーブルには滋さんの好きなモンブランのケーキが三つ。「ハッピーバースデートゥーユー……」。早紀江さんが口ずさんだ。
めぐみさんも歌が好きだった。新潟市内の小学校ではコーラス部に所属した。1977年、卒業式を迎え、謝恩会でシューマンの「流浪の民」の一節を独唱した。
なれし故郷を放たれて/夢に楽土求めたり
拉致されたのはその年の11月15日。中学生になり、バドミントンの部活帰りに友達と別れた直後だった。
早紀江さんは毎日のように、近くの海岸などを捜した。家でこらえられない時、めぐみさんの弟の双子に気づかれないよう押し入れの布団に顔をうずめた。
一緒に書いていた習字はやめた。墨のにおいを嗅ぐのがつらくなったためだ。雑誌に似ている女性を見つければ、確かめに出かけた。親しい人の招きでも、結婚式には行けなかった。
97年、めぐみさんの拉致疑惑が報道と国会質問で表面化し、拉致被害者家族会が結成された。滋さんは代表に就いた。
そして02年9月。日朝首脳会談で北朝鮮はめぐみさんの「死亡」を伝える。04年には「遺骨」を示された。14年には、モンゴルでめぐみさんの娘キム・ウンギョンさんに会った。26歳の孫は明るく、若いときのめぐみさんによく似ていた。ひ孫にあたる女の子も一緒だった。にこにこと歩くしぐさも、幼いころの娘にそっくりだった。
帰国後の記者会見で滋さんは、めぐみさんの安否について「知っていても話せないだろうから、あまり触れなかった」と説明した。
このころから、滋さんは講演に参加できなくなっていった。いつも、持ち歩いていた「くし」。拉致の前日、45歳になった滋さんがめぐみさんからプレゼントされたものだ。今はタンスの中にしまってある。
めぐみさんの洋服や文房具も、すべて大切に残してある。「覚えてる?」と見せてあげたい。あの日、夕飯に用意していたシチューを食べさせてあげたい。ディズニーランドに連れて行きたい。野原で寝転がって自由を味わわせたい――。
でも今、早紀江さんは思う。「帰ってきてくれたらいい。何にもしなくていいから、ひとこと話ができればいいです。めぐみちゃんに会いたい。私たちがいなくなる前に」(清水大輔、斎藤博美)
■弟の拓也さんが先頭に
横田めぐみさんの弟、拓也さん(49)は昨春、拉致被害者家族会の事務局長に就任した。「親の世代は高齢となり、国内外の長距離移動も難しい。無理はさせられないが、当事者の声を絶やすわけにもいかない」と先頭に立つことにした。
9月には国会議員らと訪米。ワシントンで政権幹部に訴えた。「大統領が家族や娘さんを愛しているように、私の父や母も姉を愛している。でも40年間、会えない状況が続く。再会できるよう力を貸してほしい」
トランプ大統領は1週間後、国連総会で「日本の13歳の少女が自国の海岸から誘拐され、北朝鮮スパイに語学を教えることを強いられた」と、めぐみさんの拉致に触れた。拓也さんは「我々の思いが大統領に伝わった」と感じたという。
拉致が報道で表面化する直前の1997年1月。実名を出すかどうかで、家族の意見は割れた。拓也さんは双子の弟哲也さん(49)や母早紀江さん(81)とともに「姉の身に危険が及ぶのではないか」と反対した。しかし父滋さん(84)が「『新潟市のYさん』では人々の関心を呼べない。実名を出すべきだ」と主張。悩みながら同意した。
それから20年。「私たちは外交交渉もできないし、武器を持って戦うわけにもいかない。でも、家族としての心からの叫びは、多くの人の心に響いていると肌で感じます。両親が元気なうちに再会させてあげたい。それだけです」(編集委員・北野隆一)
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ならず者国家・北朝鮮に翻弄された40年です。われわれには理解できない大変な時間だったとおもいます。拉致問題を解決できなかった歴代の日本政府と政治家、そして北朝鮮を甘やかした朝日新聞をはじめとするマスコミに怒りを覚えます。
安倍政権やトランプ政権に対しても、大きな期待はできません。ですが、安倍首相とトランプ大統領が強い発言をすることで、少なくとも北朝鮮の非道さが世界に強く印象づけられ、あの国の解体とそれに伴う拉致被害者の全員奪還につなげる可能性はあります。
6日の面会で、横田ご夫妻の気持ちが大統領に通じることを心から祈ります。
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