大したものです。
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50代で悲願のムエタイ世界王者に 兵庫・高砂の男性キックボクサー
54歳の現役プロキックボクサー、田中信一さん=兵庫県高砂市=が3月、タイで開かれたムエタイの大会で世界チャンピオンに輝いた。23歳でプロボクシングの日本王者になったが、引退後も「世界」を諦めきれず、競技を変えながら挫折と挑戦を繰り返した。50歳を過ぎてつかんだ夢。「チャンピオンベルトは生きてきた証し。同世代の多くの人に、希望を与えられる」と喜ぶ。(本田純一)
3月9日、タイのバンコク近郊であった「ムエタイ・ワールド・アソシエーション(MWA)」スーパーバンタム級タイトルマッチで、タイ人選手に3ラウンドでTKO勝ち。前半は劣勢だったが、持ち味の左フックと肘打ちで逆転した。
キックボクシングとムエタイは似た格闘技だが、細かなルールが異なる。田中さんが所属する「ヒーローズキック&ボクシングジム」(姫路市)の福本博章代表(49)は「MWAは新しい組織で、初代王者決定戦。若い頃から培われた田中さんの実力が示された」と評価する。
18歳でプロボクサーになり、戦国時代の武士にちなみ「田中小兵太」のリングネームで戦った。変則的な攻めで知られ、1988年にバンタム級の日本王者になり、世界ボクシング評議会(WBC)世界バンタム級24位になった。日本王者の2度目の防衛戦で負け23歳で引退。戦績は21戦12勝7敗2分だった。「ボクシングのセンスが足りなかった」と振り返る。
その後は会社勤めをしたが30歳でキックボクシングを始めた。「キックが格好よく、興味があった。『世界』に挑戦できるかもしれないと思った」。2001年、4度目の挑戦で日本王者になった。
その直後にC型肝炎と判明し、リングを降りて治療。40歳で復帰したものの負けや引き分けが続いた。さらに総合格闘技に転向したが、一度も勝てなかった。
だが夢を捨てきれない。昨年5月にキックボクシングに復帰し、7月の試合で勝利した。「自信がよみがえった。もう一度、世界に挑もうと誓った」。ボクシング時代の知人を通じ、日本王者2冠の経歴によってムエタイのタイトルマッチの挑戦権を獲得した。
「ぼくにとって格闘技は人生の全て。勝った瞬間のうれしさは何物にも代えがたい。総合格闘技にも再挑戦しようかな」。田中さんの挑戦が続く。
3月9日、タイのバンコク近郊であった「ムエタイ・ワールド・アソシエーション(MWA)」スーパーバンタム級タイトルマッチで、タイ人選手に3ラウンドでTKO勝ち。前半は劣勢だったが、持ち味の左フックと肘打ちで逆転した。
キックボクシングとムエタイは似た格闘技だが、細かなルールが異なる。田中さんが所属する「ヒーローズキック&ボクシングジム」(姫路市)の福本博章代表(49)は「MWAは新しい組織で、初代王者決定戦。若い頃から培われた田中さんの実力が示された」と評価する。
18歳でプロボクサーになり、戦国時代の武士にちなみ「田中小兵太」のリングネームで戦った。変則的な攻めで知られ、1988年にバンタム級の日本王者になり、世界ボクシング評議会(WBC)世界バンタム級24位になった。日本王者の2度目の防衛戦で負け23歳で引退。戦績は21戦12勝7敗2分だった。「ボクシングのセンスが足りなかった」と振り返る。
その後は会社勤めをしたが30歳でキックボクシングを始めた。「キックが格好よく、興味があった。『世界』に挑戦できるかもしれないと思った」。2001年、4度目の挑戦で日本王者になった。
その直後にC型肝炎と判明し、リングを降りて治療。40歳で復帰したものの負けや引き分けが続いた。さらに総合格闘技に転向したが、一度も勝てなかった。
だが夢を捨てきれない。昨年5月にキックボクシングに復帰し、7月の試合で勝利した。「自信がよみがえった。もう一度、世界に挑もうと誓った」。ボクシング時代の知人を通じ、日本王者2冠の経歴によってムエタイのタイトルマッチの挑戦権を獲得した。
「ぼくにとって格闘技は人生の全て。勝った瞬間のうれしさは何物にも代えがたい。総合格闘技にも再挑戦しようかな」。田中さんの挑戦が続く。
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夢をあきらめない田中さんのような人を見ると、勇気がもらえます。これからもがんばってもらいたいものです。脱帽。
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