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高橋真梨子、人生の贈りもの 第3回

2018年07月26日 04時46分42秒 | 音楽

真梨子さんの幼少時代に涙です。

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(語る 人生の贈りもの)高橋真梨子:3 両親が離婚、歌が救ってくれた
朝日新聞 2018年7月25日05時00分

1968年ごろ、博多駅前にあったディスコ「フォーカス」で歌う本人(中央)=本人提供

 ■歌手・高橋真梨子

 脱疽(だっそ)と診断され、両足を切断した父は、広島の実家に戻って治療を続けました。博多にいると、母と私に迷惑ばかりかけると考えたようです。ときどき義足でスクーターに乗って訪ねてきました。

 でもその頃、母は不倫をしていました。ホステスとして働いていたキャバレーで知り合った男と、熱烈な恋愛をしていました。男は本妻と離婚せず、子どもが3人もいるのにうちに入り浸っていました暴力もあったし、環境はすごく悪かったですよ。

 男と母は夜、2人で酔っ払って帰ってくる。また一緒かとわかると本当に嫌だった。母は私のことなんか全く考えていなかったと思います。

 《両親は離婚。小学5年のときだった》

 私も家庭裁判所に行きました。父は私を引き取りたかったけど、病気で無理。母と暮らすのが嫌だったけど、父と一緒に生活しても食べていけないと思って諦めたんです。それでも、大好きな父に会いたくて、年に数回は1人で広島へ行きました。

 《中学で不良グループに入り、学校をさぼって喫煙もした。だがコーラス部は続け、中2からは歌を習った嫌なことを忘れられた、という》

 父と同じ音楽の道に進みたい、歌手になりたいと相談すると、父は「いいんじゃないか」と言ってくれました。

 中学3年の春、父が危篤という電報が届きました、でも広島に駆けつけると、父は実家で元気にしゃべっていました。腸捻転の発作を危篤だと間違えたそうです。

 久しぶりに会った私に、父はすごく怖い目をして、「歌手になるなら、芸能界には入っちゃいけんよ」と。自分がもうあまり長く生きられないとわかっていて、私の将来を心配したんだと思います。

 《数カ月後の夏休み、再び父が危篤との電報が届く》

 また元気になると思って行かなかったら、数日後に電報が来て。「チチシス」と記されていました。

 すぐに行けば死に目に会えたかもしれないのに。今でも後悔しています。(聞き手・坂本真子)

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真梨子さんの歌の深みは、お父上との深い関係がもたらしたものなのですね。今日も、真梨子さんの歌を聴くことにします。


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