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高倉健さんの潔い死にざまに、胸が熱くなる

2014年11月21日 06時40分53秒 | 高倉健

高倉健さんの闘病生活が、徐々にわかってきました。記録しておきましょう。

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健さん、貫いた“不器用”美学 「発表は密葬の後に」「“鉄道員”の主人公のようにひっそりと」
楽天Woman 2014/11/20 17:09

 83歳で逝った名優、高倉健さん。日本を代表する国民的大スターの訃報は、その功績と存在感の大きさを改めて感じさせるとともに、昭和の終わりを思わせる切なさも漂っている。闘病生活を悟られないよう近い関係者にさえ公にしなかった生き様が“らしさ”を印象づけた。所属事務所の書面につづられた座右の銘「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」は、健さんの遺言のように聞こえてならない。

 最期まで“不器用な男”の美学を貫いた生涯だった。プライベートは切り売りせず、神秘的な存在であり続けた銀幕の大スターは、決して飾りたてることなく、静かに旅立っていった。

 亡くなって9日目の発表は、「密葬を済ませてから」という健さんの意向だったという。「“鉄道員”の主人公のようにひっそりと死にたい」と親しい人には漏らしていたとも。

 所属事務所は、死去を伝える書面に「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という健さんの“遺言”ともいえる座右の銘を添えた。この言葉は、天台宗比叡山延暦寺の大阿闍梨(あじゃり)の酒井雄哉氏(故人)から贈られたものだった。

 当時、過酷な撮影が予想されていた「南極物語」(1983年)への出演を決意させた言葉でもあり、健さんが最期まで大切にしていた言葉だ。その言葉通り、役者道に精進し、最期は忍び終わる人生だった。

 近い関係者によると、健さんは5年ほど前、前立腺がんと診断され、都内の大学病院で手術を受けたという。しかし、その事実は伏せられていた。がんは寛解したが、すでにその体は病魔に侵されていたのだ。

 その後の定期検診で、悪性リンパ腫が見つかった。体調が悪化し、今夏に入院したが、ここでも“高倉健”というスターであり続けた。「病床の姿は見せたくない」として、入院したことを親しい友人にもほとんど伝えることなく、闘病を続けていた。

 入院から数カ月。容体が急変し、意識がなくなったのは、亡くなる数日前のこと。入院中も病院スタッフに愛されていた健さん。最期は、病院の出口に並ぶスタッフの涙に見送られての旅立ちだったという。

 自らの道を貫き続けた一徹の人。生前には、すでに墓地を2カ所準備していたという。1カ所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園で、ここには先祖の墓が立っている。もう1カ所は生まれ故郷の福岡県中間市にある小松山正覚寺。両親と兄が眠っており、関係者は「両親の墓から少し離れた場所に墓地を購入したそうです」と話している。

 新作も決まっていた。遺作となった映画「あなたへ」(2012年)の降旗康男監督(80)による「風に吹かれて」との作品だったという。

 すでにロケハンも終わっており、来春にはクランクインの予定だったが、健さんが現場に戻ってくることはなかった。

(夕刊フジ)

健さん貫いた美学 病床の姿見せたくない…見舞い許したのは2人だけ
スポーツニッポン 2014年11月21日 05:30

 「“鉄道員(ぽっぽや)”の主人公のように死にたい」と身近で世話をする人に告げ、その言葉通りにひっそりと旅立った高倉健さん。スポニチ本紙の取材では見舞いを許された関係者は2人だけ。臨終にも病院スタッフだけが立ち会った。最後まで貫いた男の美学。10日に83歳で永眠した健さんゆかりの場所には、追悼に訪れる人の列が絶えない。

 北九州市で暮らす縁戚も悲報に驚いたという。体調が悪いという情報は耳にしていたそうだが、身内にも詳しい病状は伏せられていた。

 若い頃からボクシングや相撲で鍛え、スクリーンに映える鋼のような肉体をつくった健さんが前立腺がんを患ったのは5年ほど前。手術で克服したが、それ以降、欠かさず定期検診を受けるようになった。今年初夏の検査で見つかったのが悪性リンパ腫で、入退院を繰り返すようになった。その間、8月には健康食品のCM撮影をこなし、東京都世田谷区の自宅周辺でも近所の人とあいさつを交わしている。

 しかし、それ以降、健さんの目撃証言は消える。入院期間が長くなり、小康状態のときも自宅には戻らずに信頼あつい知人宅に身を寄せていた。完治して何とかもう一本…健さんは復帰に執念を燃やした。降旗康男監督(80)と組む予定だった「風に吹かれて」だ。ところが、病魔は速度を上げて肉体をむしばんでいった。

 満州事変が起こった1931年に生を受けた健さんの身長は1メートル80。その頃の人間としては大きい。いつでも新作映画の撮影に入れるように体のケアには怠りがなかっただけに、病床の姿は見せたくなかったのだろう。「いよいよ危ない」となったときに、世話をしていた知人から映画会社2社のトップにだけ伝えられたが、2人が見舞った際には既に意識がなかったという。誰に宛て、どんな内容かは不明だが、遺書もあったそうだ。

 駅のホームで倒れ、ひっそりと最期を迎えた「鉄道員」の主人公。事務所の人間さえも臨終に立ち会うことを遠慮したという。80年公開の「動乱」以降、方向性の違いから東映と疎遠になった健さんが19年ぶりに主演した東映作品が「鉄道員」だった。

 青春時代に苦楽をともにした撮影所スタッフが定年時期を迎えていた。「最後の記念写真を撮ってほしい」という活動屋たちの熱い声に心動かされた健さんは快諾。記念写真どころか、「鉄道員」という活動写真が出来上がった。東映復帰にはこんな秘話があった。撮影終了の日、スタッフは男泣き。そっと逝った健さんはいまわの際に本当に「鉄道員」と同化していたのかもしれない。

 ≪黄色いハンカチ広場にファン430人≫臨時開館している北海道夕張市の「幸福の黄色いハンカチ想い出広場」には20日、430人のファンが追悼に訪れた。前日は210人で、倍増。関係者は「札幌などからいらした方が多く、これから週末にかけて、もっと増えるのでは」と話した。

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最後まで「映画スター高倉健」として逝かれた健さん、前立腺がんと闘っているとはまったく知りませんでした。その間、『あなたへ』に出演し、文化勲章まで受章なさっているのに、そのことをついぞ口にしませんでした。

健さんががんと闘病し、それを克服したと発表していれば、多くのがん患者の人の勇気を与えたでしょう。ですが、そうなさらなかった。きっと悩まれたのではないかと思うのです。しかし、自分のプライベートを切り売りしないという一徹な想いが、そういう行動にさせたのでしょう。

「人間嫌い」といわれようが、それが健さん。ここまで徹底されると、見事な死にざまであったと感銘を覚えます。安らかにお眠りください。合掌。


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1 コメント

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あらためてご冥福をお祈りいたします (Misa h.)
2015-03-18 12:06:22
心の籠ったご記事、ありがとうございます。
とても感動しております。胸のうちの深い深いところで・・・。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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