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宝田明さんの過酷な戦争体験に学ぶ

2015年08月14日 06時04分59秒 | 時事放談: 国内編

俳優・宝田明さんが、自らの戦争体験を語っています。戦争を起こさないために、戦争の悲惨さを記憶しておくために、記録しておきましょう。

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終戦の満州、悪夢の始まり…俳優 宝田明さん 81
読売新聞 2015年08月13日 05時20分

 12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、私も朝鮮で生まれました。

 2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。軍国少年だった私は、円谷英二さんの特撮とも知らず、映画「ハワイ・マレー沖海戦」の飛行機の雄姿、爆発シーンに熱狂、兄2人に続き関東軍に入って「日本の北の防塁たらん」と使命感に燃えていたのです。

 1945年8月9日夜、轟音ごうおんで家族全員が跳び起きました。敵の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。そして15日。玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑をえぐりとられたように、全身から力が抜けました

 日本の軍隊は武装解除し、無政府状態の街にソ連軍が侵攻してきたのです。悪夢の始まりでした。

ソ連兵略奪、暴行の限り

 ソ連兵はやりたい放題でした。略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、日本人は子ヤギのように脅おびえていました。家に押し入られ、こめかみに冷たい銃口を突きつけられるなんて、想像つきますか? 私は恐怖で歯ががたがた震え、かみ合わすことができませんでした。

 生きるために何でもやりました。靴磨きやたばこ売り。ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。そのうち強制使役の命令が下りました。父と中学生の三兄と私の3人が毎日交代で、ハルビン駅のそばから貨物列車まで石炭を運びました。列車には関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛つらいです。

腹に銃弾はさみで摘出

 出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。その時です。

 ダダダダッ。見回りのソ連兵に撃たれたのです。転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。血だらけでした。1日我慢したら、はれて悪化するばかり。元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。

 麻酔も手術道具もありません裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、傷口を切り開きました。「ジョリジョリ、ザクザク」。人の肉を切るあの音、今も耳から離れません。出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。糸も針もないので傷口はそのままでした。

 ロシアには優れた芸術家が多い。バレエも映画も音楽も素晴らしい。でも私は観みたくも聴きたくもありませんソ連兵が憎い、ロシアという国が憎い。すべてを否定してしまいます。恐らく死ぬまで変わりません。記憶は焼き付き、心のアルバムに貼られ、破ることも消すこともできない。中国などアジアの国々には、日本に対し、私と同じ感情を抱いている人もいるのではないでしょうか。

 46年11月、日本への引き揚げが決まりました。最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、半年以上戻って来なかったことです。やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

 引き揚げ船が出るのは、南満州の葫蘆(ころ)島ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、2か月半かかりました。食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、途中で中国人に託す人もいました。弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

 博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、47年冬のある日の午後、母の手伝いをしていると、軍隊の外套をまとい、顔に傷のある男の人が通り、役場の場所を聞かれました。1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だったとわかった時はもう……抱き合って、涙、涙でした。

 兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。15歳の少年にはあまりに過酷な体験自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました

 私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。

 無辜の民をも引きずり込んで一生を狂わせてしまう。それが戦争なのです。

(聞き手 編集委員・永峰好美、撮影 鈴木竜三)

 たからだ・あきら 俳優。1934年朝鮮・清津(チョンジン)生まれ。2歳の時、満州に移り、終戦をハルビンで迎える。高校卒業後の53年、東宝第6期ニューフェースに合格。54年、映画「ゴジラ」で初主演。ミュージカルなどの舞台、テレビドラマでも活躍する。

占領消えない憎しみ

 敗戦時、海外には軍人・軍属、民間人を合わせ約660万人の日本人がいた(厚生省「援護50年史」)。最も多かったのが満州で、約155万人。満州を占領したソ連は在満の日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護に目を向けなかった

 頼みの綱の関東軍も満鉄も1945年9月末までに消滅し、残された日本人は寄る辺を失う。宝田さんの苦闘は、そうした中で始まった。

 父親は古武士のように威厳のある人だった。中国人部下とも分け隔てなく付き合い、慕われていた。社宅に中国の人たちが来て酒を酌み交わす父の姿を、誇らしく思ったそうだ。

 中国語が堪能な宝田さんは映画界に入った後、台湾や香港の映画に1人で出演し、中国関係者から直接、日本軍の話を聞くことがあった。「私がロシアを許せないのと、根っこは同じ」で、中国の人の苦しみを伝えるのも自分の役目と感じているという。

 「若い時は当たり障りのないことを話して、いつもニコニコしていた」が、還暦を過ぎた頃から積極的に発言するように。「今は一人の人間として率直に意見を言います。間違ってもあのような戦争を起こしてはならない、と」。声に一段と力がこもった。

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あのころの苦労を乗り越えられた先達には、本当に頭が上がりません。しかも、その人たちが戦後日本の復興を支えてこられたのですから、なおのこと感謝です。

しかし、宝田さんがロシアを憎むように、もし中国人が日本を憎んでいるとしたら、領土拡張の野心を隠さない中国が対日侵略を始めてもおかしくはないわけです。宝田さんのような苦しみを、われわれがしないためにも、国防は何より重要です。

もちろん、その国防軍が、かつての日本軍や関東軍のようにならないように、きっちりと国民が監視することが必要なのはいうまでもありません。


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