忍之閻魔帳

ゲームと映画が好きなジジィの雑記帳(不定期)。
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四十九日

2023年11月18日 | 忍之日記


9月21日午前6時に父が亡くなった。
老健からの退所が決まり、週末のみ自宅で過ごすことが決定してからの
我が家はまさに上を下への大騒ぎだった。
家の中までの導線を確保した上で車椅子が通るよう道を整備し、
父が使っていた寝室に入るサイズの介護ベッドを調達して
高齢の母の負担が極力減るようにヘルパーの力を頼りながらの受け入れ生活だったが
あれほどの労力をかけて準備したにも関わらず、わずか2ヶ月ほどでピリオドを打った。
コロナ感染からの重症化で一時は命も危ぶまれた父は、奇跡的に回復するも
肺炎により嚥下機能が著しく低下していたため誤嚥性肺炎を繰り返しては再入院し、
「急変した際の延命治療はどうしますか」とその都度医師に聞かれた。
そして3度目の再発で入院し、同じように「どうしますか」と問われた時、
半ば慣れっこになっていた私たちは「回復の希望があるならできるだけのことはやってほしいが
機械の力を借りて心臓を動かすだけの措置なら不要」と回答した。
そしてその翌日、まるで私たちの会話を盗み聞きしていたかのように父は逝った。

今年もケムコ様より東京ゲームショウにお誘いいただいていたのだが
父の容体が安定していないことからギリギリまで返事を待っていただいていた。
(快く待ってくださったケムコ様には本当に感謝しかない。ありがとうございます。)
最初から断ることも考えたが、遠出すれば気分転換になるかもという現実逃避的な思考もあり
引き延ばすだけ引き延ばした挙句に父が選んだ旅立ちの日は9月21日、東京ゲームショウの開幕初日だった。

父についてのエピソードで一番古い記憶を辿ると、幼稚園のクリスマス会になるだろうか。
園児のところにサンタがやってきて菓子を配る恒例の会で私も楽しみにしていたのだが
当日やってきたのはサンタのコスプレをした父で、特に素性を隠すでもなく
大声で私の名前を呼びながら「おおしのびん、今年はワシがサンタじゃ」と菓子を手渡した。
私は幼稚園の年少組にして「サンタは親が演っている」ことを知ってしまったのである。
生粋の目立ちたがりで役職のつくポジションが大好きだった父を見て育ったせいか
私は人一倍自分を表に出すことを避けるようになり、今もこうしてハンドルネームでブログを書いている。
母から「お父さんのようになってはダメよ」と言われて育った私は、
言ってみれば父を反面教師にして出来上がった集合体のようなもので、何から何まで合わない。
合わないのに、成長するにつれて父に似た部分が体のあちこちに、思考の節々に現れては嫌悪した。
今にして思えば、父のようになりたくない、は、父のように何事にもオープンで大らかには生きられない
内向的な自分の劣等感が生んだ、羨望からくる逆恨みだったのかもしれない。
そのことを受け入れ、父の中に幾らかの可愛らしさを見出してからの親子関係は
世間で言うところの仲の良い親子には届いていなかったかもしれないが、そう悪くもなかったと思う。

3度目の入院の知らせは突然だった。
デイサービスから「微熱があり酸素量も少ないため念のため病院に連れていきます」と連絡があり
またかと思いながら病院に駆けつけた。
前々回、前回と同じようにしばらく入院して、回復すればまた退院するのだろうとぼんやり考えていたので
入院手続きのために膨大な枚数の用紙に記入しなければならないことの方が気が重かった。
翌朝面会に行くと、父は痰を吸入してもらって楽になったのか静かに眠っていた。
夜中も1、2時間おきに吸入をしていたと聞き、頭の下がる思いがする。
とてもではないが、このケアを自宅ではできなかったろう。
父は私のことはわかっていたようで「会いにきたよ、わかる?」と聞けば小さく頷いていた。
「元気になって、また家に帰ろうな」と声をかけるとまた小さく頷いていて
「この様子なら大丈夫だろう」と少し安堵した。

しかし、翌朝の医師の説明では、心臓の機能が大分弱っているので
肺炎が治るよりも先に心臓が持たないかもしれないと告げられた。
そして、冒頭に書いたように「無理な延命治療は本人も辛かろうし不要。
楽になるための治療なら全力でお願いします」と回答して帰宅した。
その日の深夜、病院から容体がおかしいと電話があり、孫たちも連れて慌てて深夜の病院に
大勢で押しかけると、別室に移動した室内で父はスヤスヤと眠っていた。
「みなさんが到着される直前に急に安定し始めて」とナースは申し訳なさそうに笑ったが
「人騒がせなじいじだ」と悪態をつきながらも皆笑顔だった。
その翌日、またしても深夜に病院から電話があり、同じように大勢で深夜の病院に向かった。
酸素がなかなか上がってこないと昨夜より病室内の空気に緊張感があったが
当の本人は傍目には穏やかに眠っているように見えた。
「こんなことがこれから毎晩続くのかしら」と母が疲労困憊の様子で口にするのを聞きながら
昨日医師に「まぁ、こんな感じで心臓がゆっくり止まってしまうほうが本人は楽だと思いますよ。
本当に眠るように、何も苦しまずに済むので。」と言われたことを思い出していた。
ほどなくして心電図を表示している機械から危険を知らせるアラーム音が鳴り、慌ただしくナースが入ってきた。
「まだいったらだめだよ」「起きてじいじ」「起きないと怒るよ」と孫たちがそれぞれ父に声をかけ
「家に帰ろうよ」と姉が語りかけた後に、それまで黙って見守っていた母が父の手を取って話し始めた。

「じいじ、ねえじいじ、本当に好き放題に生きたわね。
突然商売をすると言い始めて、30年間も私にその店を手伝わせている間に
他所で女を作ったり、こっそり家のお金に手をつけたり。
その人を連れてゴルフに旅行にと遊びまわり、飲み歩いてね。
子育てなんて全部私に任せっきりで、ほとんどしなかったでしょ。
でもねじいじ、私はそれでも、あなたにまだ居て欲しい」

父の左手を両手で包み込み、まるで駄々っ子を宥めるように話しかける母の言葉を聞きながら
「おいおい、こんな男にだけはなるなと刷り込み続けて今更それはないだろう」と思ったりもしたが
その言葉を聞いて、つくづく夫婦のことは夫婦にしかわからないのだと思い知らされた。
そして母が話し終えるのを待っていたかのように、9月21日午前6時に父の心臓は動きを止めた。
息を引き取る直前まで、話しかければ反応していたし、ゆっくりと腕を持ち上げたりピースサインも出せていて
「ぎゅっと握ってごらん」と言えば握り返していた父の時間は、本当に呆気なく止まったのだった。
けたたましい機械音さえなければ寝落ちを疑うほど穏やかな最期だった。
入退院を繰り返したとはいえ、何週間も昏睡状態が続いたわけでもなく、
在宅介護開始から2ヶ月、再入院から僅か2日で逝った父は
ピンピンコロリとまではいかなくとも、ほどほどコロリぐらいの称号は与えても良い気がする。
面倒を見ていた親族の誰も介護疲れに陥らせず
別れを惜しむ気持ちを十分に残した上で旅立ったことは、家庭を振り返らず仕事に恋に奔放に生きた父が
珍しく見せた父親らしい気遣いと言っていいかもしれない。
週末は自宅で皆に介護されながら、コロナ感染の入院直前に食べるはずだった念願の鰻もちゃんと食し
早朝にも関わらず親族8人が見守る中で逝けたのだから、幸せだったろう。

亡くなる前日の朝、家族がいる手前では気恥ずかしさが勝ってしまい、正直な気持ちを話せないと思った私は
ひとりで病院に面会に行き、眠っている父に向かって幼い頃から反抗的な態度を取ってきたことを詫びた。
「できの悪い息子でごめんな」と耳元で話していると、父が一瞬、私の手を握り返してきた、気がした。
あの時間がなければ、私の後悔はもっとずっと大きかったと思う。
テレビで何度も見かけた「9月21日午前6時21分、お亡くなりになりました」という医師の言葉を聞き終えて外に出ると
もう空は明るくなり始めており、電話1本で飛んできた葬儀屋と話をしているうちにすっかり陽は昇った。
秋晴れの爽やかな朝だった。

悲しみに浸る暇もなく、数々の段取りが始まった。
実を言うと、2年ぐらい前から「親が亡くなった時にするべきこと」という
ハウツーのページをブックマークしていて、折に触れて読み返すのを癖づけていた。
10年以上前の別れでは狼狽してしまい、何もかも人任せにしてしまった反省から
いざという時にあたふたせず、冷静に適切な行動とれるための予習をしていたのだ。
親族と親しい方々への連絡、役所への届け出、葬儀の手配など
まるで流れ作業のように進んでいって、翌日には通夜、翌々日の葬儀がすんなり決まった。

通夜の翌日、親族の集まった部屋に入ると、皆が見守る中で父が風呂に入れられていた。
旅立ちの前に全身を綺麗にするオプションサービスで、母が頼んでいたらしい。
髪も丁寧に洗い、顔もパック&化粧までしてほとんど韓流スターのようなフルコース。
一部始終を近くで見ていた姉が「私がやって欲しいぐらいのサービスだったわ」と感心していた通り
仕上がった父はこざっぱりして生気を取り戻したように見えた。

昼時になり孫たちが腹が減ったと言うのでGoogleMapで調べてみると
田舎のため近くにはコンビニぐらいしか引き当たらない。
「仕方ないから適当におにぎりでも買ってこようか」と義兄は言ったのだが
騒がしく葬るのが我が家のスタイルだからと、私の提案でデリバリーを頼むことにした。
幸い、配達圏内にカレー屋とピザ屋が引き当たったため
Uberと出前館に一軒ずつ注文を出し、数十分後には親族控室はカレーとピザの匂いで充満した。
父の想い出話を肴にワイワイと盛り上がり、「こんなに騒がしい親族の控室はないんじゃないか」と
誰かが口にするほど賑やかな昼食になった。
年を取ってもジャンクフードが大好きだった父は、すぐ横で羨ましく見ていたに違いない。

皆で盛り上がっているところに葬儀屋が入ってきて、一枚の紙を置いていった。
折り鶴の形をした形状記憶用紙で、皆で一言ずつ別れの言葉を書いてお棺に入れるのだという。
「お疲れ様でした」「あちらでは偉そうな振る舞いをしないように」(←私)など各自が書き込み、
最後に全員のメッセージを読んでいると、看護学生をしている姪が書いたと思しき一文が目に留まった。
「きちんと面倒をみてあげられなくてごめんなさい。立派な看護師になってみせます。」
淡々と皆の様子を俯瞰で眺めてきた私は、その一文を読んで初めて涙腺が緩んだ。
父親としては赤点だったが、祖父としては孫達に慕われる良きじいじだったのだ。

父の顔の広さもあって、葬儀場には置き場所に困るほどの花が届き、弔問客で溢れ返った。
コロナ禍ではとても実現できなかったであろうし、やはり父はツイている。

「いよいよお別れの時です。
生前お付き合いのあった方は、どうか前に出てきてお顔を見て差し上げてください。
仏様は亡くなっても私達に多くのことを教えてくださいます。
命の儚さ、尊さ、多くの教えを私達の心に遺して旅立たれるのです。」

お棺を閉じる前のお坊さんの言葉に誘われるように棺の前に立ち、眠っている父の顔を覗き込んでみた。
次々と収められる花に囲まれた父は、加工アプリで装飾し過ぎた写真のようなビジュアルで少しだけ滑稽だった。
そしてその姿を見てフフッと少し笑った後に、訳もわからず涙が流れた。
時間にしてほんの1分ぐらいだったと思うが、どこかの栓が抜けたようにドバドバと流れて自分でも驚いた。
「最後ぐらい泣いてくれ」と、父が私の涙腺(栓)を抜きにきたのかも知れない。
こんな機会でもなければ会うことの無かったであろう、数十年振りの知人や親戚と再会し
様々な思い出話をしていると、この時間も父の置き土産なのだと感じる。
簡略化の進む現代風の葬り方にも良い点はあるが、昔ながらの葬式も、その煩わしさも込みでなかなか良い。

親族用にチャーターした火葬場までの送迎バスに乗り込む際、
片手で骨壷を持ち、片手でスマホを持って自撮りをした。父とのツーショットである。
山の中腹にある火葬場は薄曇りで少し肌寒かったが、待ち時間中はやはり四方山話で盛り上がった。
火葬を終え、小さな骨壷に収まった父と帰宅してから
四十九日までの予定を親族で確認し、それぞれが日常に戻っていった。

数日して何気なくiPhoneの写真フォルダを見ていると、入院時に父と撮った写真が出てきた。
亡くなった9月21日は金曜日、その写真は2日前の19日だったので
写真の上にはまだ『水曜日』と表示されている。
iPhoneの写真は1週間以内なら曜日で表記され、1週間以上が経つと○月○日の表記に変わる。
水曜日という表示に、まだ数日前まで父はこの世にいたのだと気づかされた。
老健に長く入っていたし、それほど頻繁に会っていたわけでもないのに
「もういない」ことが日毎に実感となって、音もなく雪が降り積もるように静かに寂しさが募っていく。

あっという間に四十九日を迎え、近しい親族だけで法要を済ませた。
葬儀の時と同じお坊さんがやってきて、最後にまたひとつ話をしていった。

「四十九日が経ちましたね。
毎日元気にお過ごしでしょうか。
今日はひとつ、時間と命について皆さんに考えていただきたいと思います。
私たちは皆、等しく流れる時間の中で生きています。
亡くなった方の時間はそこで止まり、しかし私達の時間は動き続けます。
時間の止まった方との距離は日々遠くなり、日常で思い出す機会が減ってきたり
悲しみが薄れたりしますが、そんな時こそ、生きていることを自覚していただいたいのです。
今日この場で皆さんと過ごした時間が二度と戻らないのと同じように
時間は先にしか流れないと自覚しながら、1日1日を大切に過ごして下さい。」

私にとって父が良い父でなかったように、父にとって私も良い息子ではなかったろう。
生きているうちにもう少し何とか出来たかもと思わないでもないが、全ては後の祭り。
是枝裕和監督の映画「歩いても歩いても」に出てくる
『人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。』を、まんまと私も体験してしまった。
先人からの教訓を受け取っていたのに、実践を怠って同じ後悔をして
その気持ちをこうして文章に残し、誰かが悔いを残さないようにと祈る。
そうやって、人は生きていくのだ。



怒涛の2ヶ月が過ぎて、朝晩はすっかり冷え込むようになった。
父の好きな色に合わせて買った赤い線香の独特の香りにも慣れた。
毎日焚く生活は四十九日で終えても良かったのだが、名残惜しくて少し延長中。
いつか再会する日が来たら、改めて伝えたい。

ありがとう。

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4 コメント

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Kさん ()
2023-11-20 21:38:14
こんばんは。

私は人生を楽しみ尽くせているのかなと
この歳になってふと考えることがあります。
足腰の丈夫なうちに、見たい景色、行ってみたい場所に
もっと足を運ぶべきなのかなと。
私自身の体調が万全ではないこともあって
余計にそう考えてしまうのかもしれないですね。

Kさんもどうぞご両親との時間を大切になさってくださいね。
返信する
Unknown (K)
2023-11-19 09:19:56
こんにちは。

お父様とのお話を読ませていただきありがとうございました。
私の両親も80歳を超えてきたので、、、そういうことですよね。

いつもさまざまなエンタメで盛りだくさんのブログの忍さん、
ベクトルの違いはあっても、人生を楽しみつくすバイタリティの強さはお父様ゆずりかもしれないですね。
返信する
ni.oさん ()
2023-11-18 19:47:23
こんばんは。

さすが、かれこれ20年のお付き合いだけあって勘が鋭いですね(笑)
ni.oさんはまだまだお若いですから
この日記もどこか遠い話のように聞こえる部分もあるかと思います。
恥ずかしながら、私ですら身を以て体験するまで
わからない気持ちや心の揺れがたくさんあった2ヶ月でしたから。

諸々のことをこうして記しておくことが
誰かの支えや助けになればと、そんな気持ちで書きました。
ですから、そう言っていただけるととても嬉しいです。

今後ともよろしくお付き合い下さい。
返信する
Unknown (ni.o)
2023-11-18 19:12:28
コメント失礼します。

ここ最近の文章から
何かあったのは薄々
感じてましたが
そういう事があったんですね‥

僕自身は学生の頃に
祖母を見送ってからは
まだ両親や身近な親族を
見送る経験はしてないのですが
そう遠くないうちに自分も
その役割を担う立場では
あるので今回の文章は
凄く自分事として深く
感銘を受けました。

一読者のコメントでは
ありますが
どうかご無理をなさらず
お体ご自愛ください。
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