ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄7330

2024-11-07 22:49:30 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7331 催眠術

 

知識人たちは〈マインド・コントロールは悪い〉と訴える。宗教家や法律家などの専門家は〈マインド・コントロールの定義は困難〉として訴えを退ける。

 

<程度の差、手法の巧拙はあれ、あらゆる教育が洗脳である。

(『百科事典マイペディア』「洗脳」)>

 

洗脳と適当な教育の区別は、「程度の差、手法の巧拙」によるのか。あるいは、目的の合法性によるのか。その場合、合法性は誰がどのようしにて決定するのか。政権が変ると、区別の仕方も変わってしまうのか。だったら、安心して暮らせないよね。

〈洗脳〉は「還元的感化」(N『文芸の哲学的基礎』)の「感化」と同じか。〔4510 「還元的一致」〕参照。「還元的感化」は自己暗示。夏目漱石を読むという虚栄 4510 - ヒルネボウ ただし、そのことにNは気づいていない。

 

<ヒトラーはナチス党の党首として、街頭演説を行います。それは広場を利用して行われたのです。そして洗脳したナチス党員を聴衆の外側に配置します。聴衆は、ヒトラーの演説が始まり、佳境に達してくると「そのとおり!」と叫びます。そうして党員たちはだんだん聴衆の中に入り込んでいき、「そのとおり!」と叫びだします。すると聴衆には、何となくヒトラーの演説がもっともらしく聞こえてくるわけです。一緒になって「そのとおり!」と叫ぶ聴衆が増えてくるので、頃合いを見計らい、ヒトラーは集団催眠をかけるのです。聴衆の心は、すでに群衆効果によってヒトラーの方を向いています。ですから集団催眠をかけることは、さほど困難ではなかったでしょう。ヒトラーの演説が終わる頃には「ハイル・ヒトラー」の大合唱になっていたわけですから、ヒトラーの催眠術の利用方法が、いかに効果的であったかわかるでしょう。ヒトラーの思想自体は、いわゆるファシズムですから、ヒトラーがいくら素晴らしい演説を行ったところで、自分の首を自分で絞めるような「ファシズム思想」に、一般の市民である聴衆が賛同するはずがありません。第二次大戦前の退廃した空気を敏感に察知したうえでの行動とはいえ、催眠術や洗脳といった考え方なくしては、ヒトラーがあのような短期間でドイツ国民の気持ちをまとめていったとは考えられないわけです。

(百舌鳥伶人『催眠術のかけ方』「二章 催眠術のメカニズム」)>

 

『キャバレー』(フォッシー監督)参照。『フィスト』(ジュイソン監督)は実話だろう。『ウェーブ』(ガンゼル監督)では、集団催眠の恐ろしさを教えるために教師が生徒たちに催眠をかける。ところが、それが解けなくなり、ひどいことになる。必見。

〈自分はサタンに支配されている〉という催眠にかかった人に向って、〈サタンなんか、いない〉と言っても無駄らしい。〈サタンはいる〉ということにして、エクソシストを装い、〈サタンよ、去れ!〉と逆の催眠をかける。こうするのが有効らしい。

文豪伝説の信者には『こころ』より面白い小説を読ませたらよかろう。しかし、夏目宗徒に対してエクソシストを演じることは、私にはできない。いや、できなかった。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7332 危険な声

 

ヒトラーのような演説の達人でなくても洗脳はできる。党員がサクラを演じる必要もない。騙されたがる人は簡単に騙されてしまうのだ。

騙されたがる人は、愚者ではない。知識人だ。

 

<――近衛の演説の録音を聞いてみても正直あまり演説がうまいとは思えないのですが、なぜあれほどまでの人気があったのでしょうか。

竹山 やはり、天皇家と並ぶ藤原氏の五(ご)摂家(せっけ)の筆頭という名門で出であることや、陸軍の横暴により政局が不安定ななかで、近衛の「インテリ」性に国民は期待し好意を持ったのではないでしょうか。国民だけではなく、天皇も元老の西園寺公望も近衛を非常に買っていました。西園寺が近衛を首相に推薦したわけですから。政治家、軍人、そして国民全体も、近衛文麿という人物に好意を持っていたといっていいと思います。

――近衛や松岡洋右のラジオ放送を聞いてみると、論理や理屈などもあまり通っていないように感じます。それよりもむしろ、国民の心に訴えることが目的のような感じですね。

竹山 戦中の政府指導者たちの演説ではどういう語句が使われていたかを分析してみると、「天皇」に関するキー・シンボルが多く使われていました。この戦いは「聖旨」すなわち天皇の意思、天皇の命令によるものだと強調し、その大命に従うことが臣民の道であると国民に訴えました。そして、日本軍の連戦連勝は「御稜(みい)威(つ)」(天皇の威光)のゆえであると力説しています。こうした「天皇神話」への寄り掛かりが演説内容を空疎(くうそ)なものにしていたといえます。そして、皇軍の優勢や聖戦の正当性を強調しています。そうした箇所では一段と声を張り上げて訴えかけています。会場の聴衆はそうした大言壮語を歓迎しました。ラジオから流れてくる会場の聴衆たちの歓声や拍手を聞いて、茶の間の人たちの気持ちも高ぶってくる。戦意高揚という点からいえば、ラジオは大変に大きな役割を担ったメディアだったといっていいと思います。

(NHKスペシャル取材班『日本人はなぜ戦争へと向(む)かったのか―メディアと民衆・指導者編―』「第一章 メディアと民衆 “世論”と“国益”のための報道」竹山昭子)>

 

「インテリ」は危険なのだ。

「論理や理屈などもあまり通っていないよう」だからこそ、「智に働けば角が立つ」(N『草枕』)などを名文と思い込まされた知識人は「好感」を抱く。

「明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気」(下五十五)に確かな意味はない。だからこそ、「明治の精神」は「キー・シンボル」として機能する。

『こころ』が「空疎(くうそ)なもの」だからこそ、文豪伝説への「寄り掛かり」が生じる。

「声」は危険だ。「この漠然とした言葉が尊(たっ)とく響いた」(下十九)から、Sはしくじった。「漠然」としているからこそ「響いた」のだろう。『こころ』は「戦意高揚」に寄与した。

「ラジオ」が「大きな役割を担ったメディア」なのは、「ラジオの「熱い」衝撃」(マクルーハン『メディア論』)もさることながら、「茶の間」にラジオのある家の「「インテリ」性」が大きく関係していたろう。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7333 中村真一郎

 

宗教的あるいは政治的信条などの相違を超えた知識人たちのマナーのようなものがあるらしい。彼らは意味不明の作文を許容するばかりか、有難がりさえする。

 

<たとえば、近代最大の作家、夏目漱石を考えてみましょう。彼の初期の『吾輩は猫である』は、ドイツ・ローマン派の、E・T・A・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』からヒントを得て、真似したことは明らかですし、『虞美人草』の絢爛無比の文体と、女主人公の心理のソフィストケイトぶりは、明らかに当時の英国の流行作家、ジョージ・メレディスの『エゴイスト』を日本に移そうとしたのは間違いありません。

それが『彼岸過迄』の、伝奇趣味となると、例の『ジキル博士とハイド』などを書いたR・L・スティーブンスンの向うを張ったのでしょうし、一転して『道草』の平淡な日常の描写は、十九世紀はじめの女流作家、ジェイン・オースチンの『説得』などの細緻で、けれんのない筆致によって反省させられた結果でしょう。そして、最後の『明暗』の層々累々たる心理の構築は、ヘンリー・ジェイムズの難解さへの挑戦とも見られます。

このようにして、漱石は次つぎと、西洋近代文学の宝庫から、すぐれた手本を引き出し、日本の社会に適応して、西洋に負けない近代小説の建設につとめたのでした。

(中村真一郎『文学 この人生の愉(たの)しみ』「第12回 近代文学の世界性」)>

 

「近代」は〈日本「近代」〉の略。「最大」の証拠は? 「夏目漱石を考えて」は意味不明。

『吾輩は猫である』と『牡猫ムルの人生観』の関係は、「明らか」ではない。

 

<自分ではこれ程の見識家はまたとあるまいと思うていたが、先達てカーテル・ムルと云(ママ)う見ず知らずの同族が突然大気燄(たいきえん)を揚げたので、一寸(ちょっと)吃驚(びっくり)した。

(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)>

 

『ホフマン全集』第7巻「作品解題」参照。

「絢爛」ではなく、冗漫。知識人を誑かすための美文もどき。「無比」かな、泉鏡花と比べても? 「ソフィストケイト」は呆れるばかり。「女主人公」の出典は『ヘッダ・ガブラー』(イプセン)だろう。ただし、Nの誤読に基づく皮肉で、しかも失敗した皮肉。設定は『エゴイスト』だろうが、ヒロインはエゴイストではなくて、その被害者だ。原典における男女の関係が入れ替わっている。「『エゴイスト』を日本に移そう」は意味不明。

「伝奇趣味」に困惑。原典は『ジキル博士とハイド』じゃないんだよね。じゃあ、何? 『彼岸過迄』と『道草』の間の『こころ』が抜けている。なぜだろう。『道草』が「平淡な日常」だって? 「『説得』など」の「など」は怪しい。

「層々累々」は〈層累+死屍累々〉か。「心理の構築」は意味不明。「難解さへの挑戦」は意味不明。「とも見られます」で化けの皮が剥がれたか。お疲れ様。そこらで一服してて。

「適応して」は〈適応させて〉の間違いだろう。「負けない」というが、勝ったのか? 「負けない」は〈勝てない〉の隠蔽だろう。「つとめた」から、どうなのか? 

(7330終)


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漫画の思い出  花輪和一(27) 『護法童子・巻之(二)』(双葉社)

2024-11-06 23:46:03 | 評論

   漫画の思い出

    花輪和一(27)

   『護法童子・巻之(二)』(双葉社)

「旅之八 水子沼」

「水子」は、捨て子のこと。

かなり無理な話。

子を捨てた母親が悔いる。そんな情景が、捨てられた少女たちに見える。ある少女は「あれは 嘘の世界よ」と一蹴する。別の少女は、嘘の世界に潜り込み、「あたしだけ 幸福に なってごめん」と喜ぶ。

不幸な現実と幸福な嘘のどちらを選ぶべきか。護法童子には解決できない。苦悩そのものが解脱の契機になる。そんな淡い夢で終わる。

作者は迷っているのだろう。

 

「旅之九 流転」

貧しく愚かな醜女が、病弱で邪魔な両親を殺す。彼女の両親を介護していた美女に騙されたからだ。性悪女は、地獄のような場所に墜ちる。護法童子は彼女を救おうとするが、できない。

真の主題は親殺しだ。作者は親殺しを正当化できないで、うろうろしている。

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 7320

2024-11-03 22:33:07 | 評論

  夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7321 「そんなの常識」

 

人に騙されやすい人は、人を騙しがちな人だ。

 

<「お母さん、助けて!」

息せき切った娘の声が電話口で響いた。どこか声の響きに違和感を覚えたが、なにか異常な事態が起きたらしい。涙声である。

「ど、どうしたの!」

横浜市金沢区に住む横山敏子さん(五二)の声はうわずった。

「実はサラ金からお金を借りたの。そしたら、七万円が十四万円に膨らんじゃって、返せないと、どうなるかわからない」

(取違孝昭『騙す人ダマされる人』「第二章 電話・手紙詐欺」)>

 

騙されやすい人は「違和感」を押し殺す。自分を騙す。そうやって、善人や才人を演じる。つまり、相手を騙すわけだ。考えてもみよ。もしも、この「娘」が詐欺師ではなく、間違い電話を掛けてきた赤の他人だったら、と。

ちなみに、この本の文庫版のカバーは、Nと福沢諭吉の肖像だ。当時の紙幣だけどね。

文豪伝説の信者は、〈『こころ』は名作〉という「定説」(某教祖の決め台詞〉を疑わない。疑うと、偉い人に嘲られそうな気がするからだ。彼らは利口ぶる。そして、偉い人を騙しにかかる。こうして知識人が誕生する。夏目宗徒は『こころ』に「違和感」を抱いている。だが、反省しない。できない。逆に、「違和感」を隠蔽しにかかる。そのために偉い人を演じる。他人を騙すことで自己欺瞞の不足を補おうと頑張るわけだ。

 

<なんでもかんでも みんな

おどりをおどっているよ

おなべの中から ボワッと

インチキおじさん 登場

いつだって わすれない

エジソンは えらい人

そんなの常識 タッタタラリラ

(『おどるポンポコリン』作詞・さくらももこ 作曲・織田哲郎)>

 

原典は『月光仮面』(川内康範作詞・小川寛興作曲)だろう。女の子が暗に知識人を非難している。「なんでも」の一種は言葉。「おどり」は〈おどけ〉の暗示。「おなべの中」は知識の闇汁。「インチキおじさん」は知識人。〈おじさんは悪い人〉と「いつだって わすれない」のだが、少女には本音を口にする勇気はない。「エジソン」は「おじさん」の地口。ちなみに、「そんなの常識」と皮肉に逃げたが、逃げ切れず、苦し紛れに「おどっている」しかない。「インチキおじさん」だって、本当は苦しいんだよね。でも、踊れないから、代りに言葉で「おどっている」んだよね。タッタタラリラ。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7322 正体不明の「スタイル」

 

インチキおじさん、登場。

 

<漱石の文章が今の私たちにも読みやすいのは、私たちの今の書き言葉が漱石を土台にしてできているからである。ドイツ語は、ルターとゲーテによってその後の思想・文学が花開く土台がつくられた。漱石の作品は、日本語の書き言葉の様式という次元で、決定的な影響を与えつづけてきた。漱石を読んだことがない人の文章にも、漱石のつくった日本語のスタイルは忍び込んでいるのである。

(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>

 

Nの文章は、「今の」私には読みにくい。小学生の私は『坊っちゃん』を「読みやすい」と思っていた。まったくの誤読。「土台」も、「できている」も、意味不明。

 

<文章には文語を用いてきたが、明治初期に言文一致運動が起こり、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが話し言葉に近い文章を作品に試みて、その後次第に普及、今日の口語文にいたった。

(『広辞苑』「言文一致」)>

 

〈言文一致〉について、いくつも辞書を見たが、「漱石」の名前は載っていなかった。「書き言葉」は、言文一致とは関係がないらしい。〈土台〉も調べた。無駄だった。

突然、「ドイツ語」の話になる。「思想・文学が花開く」は意味不明。こんなポエムをやってしまうのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」だろう。指摘するまでもなかろうが、この一文は〈漱石=ルター+ゲーテ〉という虚偽の暗示だ。こけおどし。

再び、突然、「漱石の作品」に話が戻る。「書き言葉の様式」は意味不明。「様式という次元」は意味不明。「決定的な影響」は意味不明。

「スタイル」と「様式」の意味は同じか。同じなら、なぜ、言い換えたか。自説に自信がないからだろう。カタカナ語に弱い日本人を誑かすためだろう。この種の誑かしは「漱石のつくった日本語のスタイル」だろう。いや、近代日本知識人の「スタイル」だ。「忍び込んで」という言葉は、以上の論述がまやかしであることの暴露。何四天王とその追随者たちの「スタイル」は自他を欺瞞するものだ。自分を賢そうに見せかけるために小難しい語句を頻用する。抽象的な語句。奇妙な比喩。唐突な断言。論点のすり替え。

Nの文体は作品ごとに異なる。だから、この「スタイル」は、いわゆる文体ではない。ところが、「漱石の―をまねる」(『明鏡国語辞典』「文体」)という用例がある。困惑。Nは他人の文体をまねるのが得意だった。

齋藤が〈文体〉という言葉を用いないのは、「文体を徹底的に分析していくことによって、作者自身さえ意識していなかった作品の内部構造や思考のさまざまな傾斜などの解明に至る」(『ニッポニカ』「文体」小田切秀雄)といった展開を回避するためだろう。虚偽の暗示をやらかすのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」なのだ。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7323 作り声

 

『声に出して読みたい日本語』というタイトルの「声に出して」は〈大声を出して〉と〈口に出して〉の混用。斎藤には「声」と〈口〉の区別が付かないらしい。「読みたい」は、〈読みたくなる〉と〈読まねばならない〉の混交。つまり、欲望と義務の混交。彼は混乱している。「日本語」は〈「日本語」の作文〉などであって……。ああ、もう、いい。面倒くさい。

 

<ここに採録したものは、どれも息の技によって魅力が増すものばかりだ。ただ詠み上げてみてもさしておもしろくはない。息の間(ま)を工夫してリズムや響きを楽しむように工夫することによって魅力が増してくる。

朗誦することによって、その文章やセリフをつくった人の身体のリズムやテンポを、私たちは自分の身体で味わうことができる。それだけでなく、こうした言葉を口ずさんで伝えてきた人々の身体をも引き継ぐことになる。世代や時代を超えた身体と身体とのあいだの文化の伝承が、こうした暗誦・朗誦を通しておこなわれる。

(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>

 

意味不明。齋藤はおかしい。この本の企画者、編集者、校閲者はおかしい。こんな本を読んで有難がる連中はおかしい。

齋藤の声はおかしい。作り声だ。それが尖った口から出てくるから、耳障り。

 

<そこで私は彼女の手から球を取り上げて、私の手の平を丸くして球の形を作り、さ、今度はこれが「かー」の声だ、これをぶつけてごらん、と彼女に手渡した。不思議そうに私を見ていた彼女が、ウンとうなずいてその想像の球を受け取り、大きく足をふみ出した。「かー!」。相手役が思わず胸の前に手を当てて、「来た!」と言う。見ていた人たちから拍手が起こった。もういっぺん。これでキチンとぶつけられるようになった。

さあ、同じように大きく腕を揺すりながら歌ってみよう。手が前へ振り出される時の音を相手にぶつけてゆく。たとえば「かー」とぶつけて退(ひ)いて、「ご」でぶつけて退く、といったふうに。彼女は初め一、二回ちょっとつまずいてやり直したりしたが、ぐんぐんと声が大きく豊かに、ばしんばしんと相手のからだにぶつかってゆくみたいに、重さと力強さが増していった。もう手を振らなくていいから、前足に体重をかけてリズムを取るだけで歌ってごらん、と私がすすめると、彼女の上体はすっとまっすぐに立ち、前後に揺れるままにすてきな輝くような声で歌い始めた。まっ正面でテレビカメラをかまえていたカメラマンが思わず呻(うな)るようにして、片手をあげ、ここへ来る、ここへ来る、とジェスチュアした。

レッスンを終えた後、彼女は、生まれて初めてこんな声で歌った、と言い、私の声ってこんなのですか、という意味の驚きを語った。

(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』「4―声とことばのレッスン」)>

 

野村萬斎の声、大嫌い。息子の声を、父親はどう思っていたのだろう。

(7320終)


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(書評)『ヒトラーとは何か』(草思社) 著者 セバスチャン・ハフナー/訳者 瀬野文教

2024-10-31 15:18:51 | 評論

   (書評)

   『ヒトラーとは何か』(草思社)

     著者 セバスチャン・ハフナー/訳者 瀬野文教

 

〈ドイツで極右が台頭している〉といった報道がなされている。極右って何? そもそも右翼って何? 右翼は左翼の反対語だ。左翼があるから、右翼がある。逆ではない。

(フランス革命後、議会で議長席から見て右方の席を占めたことから)保守派、また、国粋主義・ファシズムなどの立場。

(『広辞苑』「右翼」)

ファシズムって何? 

全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系をもたず、もっぱら感情に訴えて国粋主義的思想を宣伝する。

(『広辞苑』「ファシズム」②)

 共産主義は左翼だよね。でも、ファシズムつまり右翼に似てるよね。

今日多くの人びとは、ヒトラーといえば極右に決まっていると思いこんでいるが、それは安易な考えだ。

もちろん彼は民主主義者などではなかったが、権力の基盤をエリートにではなく、大衆に置くポピュリストであった。見方によっては、絶対権力にのぼりつめた民衆煽動者といえた。彼が用いた最大の武器は煽動であり、つくりあげた支配機構は序列化された階級制度ではなかった。混沌としてまとまりのない大衆組織を、頂点に立つ彼一人がたばねて統括したのである。どこを見ても右翼というより、左翼的性格が濃厚であった。

(同書「第3章 成功」左翼的ポピュリストとしてのヒトラー)

ポピュリストは、どちらかというと、左翼のようだ。

1890年代に結成された米国の第三政党。(中略)1896年以後は民主党に吸収されたが、その主張は1930年代ニューディールの基盤となり、米国における第三党運動としては最大の成果をあげた。

(『百科事典マイペディア』「ポピュリスト党」)

ハフナーは続ける。

二十世紀の独裁者たちを並べてみると、ヒトラーはどうやらムソリーニとスターリンのあいだに位置する。ややこまかくいえば、ムソリーニよりもスターリンに近い。

ヒトラーをファシストなどと呼ぶのは、まちがいもはなはだしい。ファシズムというのは上流階級による支配であり、大衆の熱狂を作為的に生みだして、自分はその上にあぐらをかくのである。

ヒトラーも大衆を熱狂させはしたが、けっして大衆を離脱して、上流階級にのし上ろうとはしなかった。彼は階級政治家ではなかったのだ。彼が唱えた国民社会主義(ナチズム)は、ファシズムとはまったくちがうものなのである。すでに前章で見たとおり、ヒトラーはが唱えた「人間の国有化」は、ソ連や東ドイツのような社会主義国にぴったりあてはまる。ファシズムの国々では、この「人間の国有化」というのはほとんど進まないか、あるいはまったく欠落しているかのどちらかである。

(同前)

ムッソリーニはファシスト。スターリンは左翼。

極左と極右は、ぐるりと回って背中合わせ。だって、地球は丸いんだもん。

理由はどうであれ、極右と極左を簡単に区別することはできない。

たとえば、世界にはさまざまな民族と、さまざまな人種が存在する、などというのは自明の理である。だが「人種」という言葉は、ヒトラーが使って以来口にしてはいけない禁句になってしまった。昔は国家・民族といった場合、一国家・一民族という考え方、つまり国民国家の考え方が支配的であり、望ましいものと思われた。また国家と戦争は切っても切り離せないものだった。こうした言葉や考え方は、ヒトラー以後疑問視されるようになった。だが人種差別や戦争をどうやって廃止すればいいか、その答えはいまだに見つかっていない。

(同書「第4章 誤謬」ヒトラーの世界観はどこから生まれたのか」

「考え方」は最近の流行語。〈考え〉が適当。

続き。

なぜこんな例をひきあいにこんなことを述べるのかというと、それはヒトラーがいったり考えたりしたことを、ただそれがヒトラーによるものだというだけの理由で、ただちに論外だと却下してしまう危険を警告したいがためである。民族や人種の実態を口にしただけで、国民国家に言及しただけで、戦争の可能性を示唆しただけで、まるで幽霊でも見たかのように「それはヒトラーだ!」と叫んで言葉をさえぎられてしまうということの危険を指摘したいがためである。

ヒトラーが計算まちがいをしたからといって、数字そのものを廃止するわけにはいかないだろう。

(同前)

ドナルド・トランプが〈ヒトラーも良いことをした〉と言ったらしい。本人は否定しているが、〈ヒトラーを肯定した〉と報道された。

話が外れる。今私の用いた〈否定〉と、報道の〈肯定〉は、反対語か? 違う。この〈肯定〉は意味不明だ。こうした意味不明の〈肯定・否定〉を、よく目にする。「私はダーウィニズムを全面的には肯定しない」の「肯定」は「agree」の訳語(『新和英大辞典』「肯定」)だ。「その計画には肯定的な意見が多い」の場合、「positive(favorite)」(『ジーニアス和英辞典』「肯定」)だ。「物事を肯定的に考える」では、「bright」(『オーレックス和英辞典』「肯定」)が用いられている。他にも、「accept , confirm,approve」などがある。私の〈肯定・否定〉は「affirmative・negative」だろう。要するに、単純な意味だ。

さて、正確ではないトランプの発言を、国際政治学者で元都知事が擁護したそうだ。すると、ドイツ人だったか、歴史か何かの専門家が〈ヒトラーに長所があるとしても、小さなことだ〉と反論したらしい。この反論は詭弁に等しい。

記録によるとヒトラーは「この点に関しても私は非情冷酷なのだが」とことわったうえで、こう打ち明けたのである。

「もしドイツ民族がひとたび精強さを失って、民族の存続のためにおのれの血を流す覚悟がなくなってしまったのならば、そのときは滅びてしまうがいい。他のより精強な民族によって滅ぼされてしまえばいいのだ。そんなドイツ民族に、私はいささかの未練もない」

(同書「第5章 失敗」ヒトラーはなぜアメリカと戦ったのか)

この宣言は、単なる強がりではなかった。

「戦争に敗れたということは、国民も敗れたということだ。ドイツ国民が生きてゆくのに最低限必要な生活基盤など心配してやる必要はない。逆に生活の基盤など破壊してしまったほうがいい。この民族は弱かったのだ。東方の強い民族にこそ未来はある。戦いが終わって生き残るのは、どうせだめなやつらばかりだ。優秀な人間は死んでしまったのだから」

(同書「第7章 背信」「この民族は弱かったのだ」)

同胞などに対する怨念を想像できない人に、ヒトラーの特性は究明できまい。

怨念を自覚したくない人は、怨念を表現するヒトラーのような人を憎むのだろう。

ある種の頑固者を毛嫌いする人は、別種の頑固者だ。

ミイラ取りがミイラになるかもしれない。だが、そんな覚悟をせずに批判など、やるべきではない。

〈強権主義と民主主義の対立〉などという見出しに、確かな意味はない。〈闇の世界政府〉などに確かな意味がないのと一緒だ。実在するかどうか、ではない。明確な意味がないのだ

意味がなければ、真偽も正邪も判定できない。

たとえば、神が実在しなくても、神の物語はあるから、神という言葉に意味はある。極右の物語がなければ、極右という言葉に意味はない

〈意味〉の意味が共有されていないのなら、いくら書いても無駄だ。

ところで、『わが友ヒットラー』(三島由紀夫)は読んだ? 

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(終)


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(書評) 『考え方の論理』(講談社)著者 沢田允茂

2024-10-20 23:44:55 | 評論

  (書評)

   『考え方の論理』(講談社)

  著者 沢田允茂

「講談社学術文庫ジャンル別フェア いま読みたい100冊」の一冊だが、私はお奨めしない。腑に落ちないからだ。そのわけに気づいたのは、解説を読んでからだ。

<沢田さんの、これらの書物は、記号論理の本質をよく説明していますが、記号論理の教科書ではありません。もっともっと、人間くささに満ちた書物です。それが、これらの書物が「心して読める」ゆえんだと、私は思っています。

(林四郎「解説」)>

「もっともっと」は意味不明。

私の場合、「安心して読める」部分は多くなかった。「人間くささ」が災いしたのだろう。オッサンの体臭は嫌い。

<「みなさん、進歩的知識人などという人びとは、ぜんぶ共産主義者であると、わたしはいいきってもいいと思います。なぜなら、共産主義者たちは、すべて国旗掲揚にたいして反対していますが、進歩的知識人といわれる人びとも、同じようにすべて国旗掲揚に反対しているからであります」

(同書「7 意味のあいまいさ」)>

著者は、この発言について、「論理的なまちがいがある」と指摘する。

だが、ない。これは下手な嘘なのだ。「国旗掲揚」について、ソ連、中国、北朝鮮などの映像を見たら、まるで逆だと知れる。だから、「共産主義者」は〈日本の「共産主義者」〉などでないと、嘘になる。「国旗」は〈日の丸の旗〉限定だ。

本当の問題は「ぜんぶ」というのが正しいか、どうかだが、この問題は誰にも解けまい。つまり、真偽を確かめられない。「ぜんぶ」は〈私の知る限り「ぜんぶ」〉の略と見なそう。すると、問題は消える。

さて、「共産主義者」の定義は何か。「国旗掲揚に反対している」ことか。そうだとすれば、この発言に「論理的なまちがい」はなかろう。

続き。

<同じように、「みなさん、A氏はまさに極右の危険思想家であるといわねばなりません。なぜなら極右の危険思想家たちはすべて国旗掲揚に賛成していますが、A氏もまた国旗掲揚に賛成してからであります」という反対の意見もでてくるでしょう。

(同前)>

この「意見」についても、前と「同じように」考えられる。つまり、これにも「論理的なまちがい」はない。二つの「意見」に足りないのは、論理ではなく、知識だ。

「極右」って何? 

どうでもいいが、「極右の危険思想家」と対置すべきなのは「共産主義者」ではなく、〈極左の「危険思想家」〉だろう。

この「反対の意見」は何に対する「反対の意見」なのだろう。〈「反対」の立場の人の「意見」〉などの不当な略らしい。しっかりしてね。

続き。

<このような調子の高い演説を力いっぱいぶたれると、ふだんからそれぞれの立場が大きらいな人たちは、おおいに心を動かされ、賛成してしまうかもしれません。しかし、これらの演説の中には論理的なまちがいがあるのです。

わかりますか? それではこれと同じ考えかたをしているほかの例をもってきてお話してみましょう。

「みなさん、すべての人間はウマであります。なぜなら、ウマは生物でありますし、人間もまたすべて生物だからであります」

と、だれかがいったとしますと、みなさんのうち、ほとんどの人が、「これはおかしい、へんなことをいう」と頭をひねることでしょう。けれども前の演説ですと、すっかりごまかされてしまいます。

(同前)>

 「ほとんどの人」には参ったよ。論理は輿論か? 多数決で真偽を判別できるのなら、論理は不要だろう。

「ほとんどの人」が真実だとしても、少数派は存在しうる。彼らは、「ウマ」が大好きなんだな。人馬一体なんちゃって、人間同士で〈馬が合う〉という。

〈みなさん、すべての人間はサルであります。なぜなら、サルは霊長目でありますし、人間もまたすべて霊長目だからです〉

「ずるく、模倣の小才ある者」(『広辞苑』「猿」)という解釈もできる。

『猿の惑星』に「合理的なまちがい」があるか? 

<じつはこの二つの語り方は論理の型としてはまったく同じで、両方とも論理としては成り立ちません。そのような点からみますと、これら二つの論理はどちらも非論理的な考えかたなのです。しかし、だれもあとのばあいのようなバカなことは言わないのに、なぜ、前のばあいには、それが非論理的であると気づかないのでしょうが。それはだれも人間とウマとが同じであることをのぞんでいないのですけれど、世の中のある種の人たちは、きらいな進歩的知識人と共産主義者とを気持ちの上からどうしても結びつけたがったり、また反対に、A氏をきらいな右翼的思想の持ち主といっしょにしてしまいたいという感情をもっているのです。そして感情的なものが、正しい論理的思考をゆがめてしまい、非論理的なものをおおいかくしてしまうからだといえます。

(同前)>

「二つ」って? 〈三つ〉じゃないの? 

「まったく同じ」ではない。なぜなら、「共産主義者」や「極右の思想家」の意味は「あいまい」だが、「ウマ」の意味は「あいまい」ではないからだ。ただし、「ウマ」に関する科学的な定義を「ほとんどの人」は知らないはずだ。私は知らない。

「ほとんどの人」が「だれも」に変わったぞ。怪しい人だなあ。

「気づかないのでしょうか?」って、答えはもう出ているよね。「バカ」だからだよ。

 また、「だれも」だ。本当に困った人だね。

「結びつけたがったり」の「たり」が一個しかないよ。ワードの校正が青い波線を引いてくれているよ。「たり」が一個は「非論理的」じゃないのかな。

<同様のことが他にあるのを暗示しつつ、例示する。「泣い―たりしては駄目」

(『広辞苑』「たり」②)>

著者は何を暗示しているのか。何も暗示していない。「いっしょにしてしまいたい」に「たり」を付けられなかっただけだ。日本語が下手ってこと。

 「感情」は、ありきたりの逃げ口上。

<たしかに人間というものは、理性の働きだけで生きているものではありません。感情的なものや、パッと頭にうかんだものは、理性の働きではどうにもならない力となって人間を動かしていきます。しかしこのような行動を、人間がそれぞれ持っている目的を実現させるために役立つような行動に変えていくには、目的とそれをなしとげる手だてとの間のつながりを冷静に判断して、より広く正しい行動をするための案内図をつくりあげていくために、考えかたが論理的にきちんと働くことが必要です。

(同前)>

 オッサンのお説教だぜ。「バカ」みたい。「論理的なまちがい」が「もっともっと」ありそう。お暇なら検討してね。

 公理主義者が功利主義者に変身かな。 

(終)

 


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