ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 7340 『トカトントン』

2024-11-13 22:30:28 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7341 「一億総懺悔」

 

大東亜戦争あるいは太平洋戦争の後、日本国民は戦中と同様、洗脳され続ける。

 

<東久邇宮は8月28日の記者会見で「全国民総懺悔(ざんげ)をすることが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を呼びかけたが、これは敗戦責任、ひいては戦争責任についての議論を呼び起こした。

(『日本歴史大辞典』「東久邇宮稔彦内閣」)>

 

「一億総懺悔」は戦中のスローガンのスタイル。〔6144 威張って使へ代用品〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 6140 - ヒルネボウ

 

<死去の前後から戦争責任問題が内外で再燃したが、あいまいに終わった。

(『日本歴史大辞典』「昭和天皇」)>

 

「戦争責任」について問われた昭和天皇は〈「戦争責任」という言葉は理解できない〉という趣旨の回答をした。正しい。

「戦争責任」という言葉が「あいまい」だったから、「敗戦責任」問題さえ「あいまいに終わった」のだ。

 

<国際紛争の解決はすべて平和的手段によるものとし、一切の武力使用禁止を約した。しかし理念的・抽象的にすぎたため、1930年代以降の非常事態には対処し得なかった。

(『百科事典マイペディア』「不戦条約」)>

 

で、第二次大戦が始まり、そして、終る。

 

<その結果、1945年8月に連合国が合意したロンドン協定では国際軍事裁判によって枢軸国の戦争犯罪人を、通常の戦時国際法違反のみならず、侵略戦争を計画し実行した「平和に対する罪」や、民間人の大量虐殺を実行した「人道に対する罪」でも処罰することにした。

(『日本歴史事典』「戦争責任」)>

 

「戦争責任」は戦争の何に対する責任なのか。不明。

 

<「戦争犯罪」は定義がむずかしいが、第2次世界大戦以降、国際法に反する以下の3つのカテゴリーが一般に戦争犯罪として認知されている。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「戦争犯罪」)>

 

要するに、「むずがしい」のだ。一方、「一億総懺悔」は、わかりやすい。いや、日本人にとって、わかりやすいような気がする。だから、洗脳されてしまった。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7342 「朕は国家なり」

 

知識人は、「一億総懺悔」に参加するのでもなく、反対するのでもなく、偉ぶる。

 

<ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌(かなづち)で釘(くぎ)を打つ音が、幽(かす)かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑(つ)きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「その時」は、「終戦の詔勅」つまり玉音放送を聞いた直後だ。

語られる「私」が「白々しい気持」になったのは、昭和天皇のせいか。そうではないのか。そうではないという証拠はない。

 

<ある知識人がある特定の社会集団の政党に入党すると、その知識人は当の社会集団の有機的知識人たちと交じり合い、その社会集団に緊密に結びつくことになるのだが、このようなことは国家生活への参加をつうじてはごく凡庸なしかたでしか起こらないか、まったく起こらない。それどころか、多くの知識人が自分自身が国家であると考えるというようなことが起こるのだ。この信念は、この職業部類の途方もない巨大さからして、しばしば重大な結果をもたらし、現実に国家を体現している基本的な経済的集団にとって不愉快な事態を生みだすにいたる。

(A・グラムシ『知識人と権力 歴史的・地政学的考察』「第二章 知識人の形成と機能」)>

 

知識人は「朕は国家なり」(ルイ14世)といった妄想を抱きがちだ。

 

<もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁(ひんぱん)に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「気が狂ってしまっている」のに違いない。

〔1232 鶏と卵〕夏目漱石を読むという虚栄 1230 - ヒルネボウ・〔1243 「解釈は頭のある貴方に任せる」夏目漱石を読むという虚栄 1240 - ヒルネボウ〕・〔1420 作家ファーストで何四天王夏目漱石を読むという虚栄 1420 - ヒルネボウ〕・〔2342 『罪と罰』夏目漱石を読むという虚栄 2340 - ヒルネボウ〕・〔3252 パシリ・メロス夏目漱石を読むという虚栄 3240 3250 - ヒルネボウ〕・〔4133 「家族的生活」と父権夏目漱石を読むという虚栄 4130 - ヒルネボウ〕参照。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7343 軍楽と爆音

 

「トカトントン」の幻聴に悩まされる自分について語る「私」は、明るい知識人だ。なぜなら、その言葉の意味はわからなくもないからだ。ただし、「憲法」や「人事」や「火事」や「伯父」や「自殺」などが話題になる理由は不明。

「私」は「某作家」に問う。

 

<教えて下さい。この音はなんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「この音」は『とことんやれ節』に始まる戦前の軍楽の虚勢と戦中の爆音の恐怖に戦後の再建の夢が入り混じったものだろう。ただし、作者にも「トカトントン」の正体は不明であるはずだ。だから、読者にもわからない。作者は何をしているのだろう。

 

<打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

(芥川龍之介『侏儒の言葉(遺稿)』「又」)>

 

「又」は「民衆」の続き。

 

<十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅(ほろぼ)し得る者をおそれよ。」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽(ふじん)。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「いかなる弁明も成立しない」の真意は〈どんな言い逃れもできない〉だろう。「醜態」がどんな態度か、不明。〈「醜態を」~「避けて」〉は〈「醜態を」演じる・晒すことを「避けて」〉のつもりか。「某作家」は〈演じる・晒す〉系の言葉の使用を「避けて」いる。ただし、その自覚はない。では、『トカトントン』の作者は、作中の作家を揶揄しているのだろうか。違う。作者も〈演じる・晒す〉系の語句の隠蔽に気づいていない。

「真の思想」は意味不明。「叡智(えいち)」は唐突。「叡智(えいち)よりも」とあるから〈「君」に「叡智(えいち)」はある〉という前提があるのか。そうではなかろう。では、〈「叡智(えいち)」を求める「よりも」〉の不当な略記か。とにかく、意味不明。

「「懼る」は「畏敬(いけい)」の意にちかいようです」は滑稽。知識人は聖典を歪曲して憚らない。

「不尽(ふじん)」で手紙が終わる。同時に作品も終わる。『トカトントン』は落ちのない『紀州』みたいなものだ。テンカントン、天下取る。

(7340終)

 


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(書評)    『新型コロナは人工物か? パンデミックとワクチンをウイルス学者が検証する』(PHP研究所)著者 宮沢孝幸

2024-11-10 01:08:34 | 評論

   (書評)

   『新型コロナは人工物か? パンデミックとワクチンをウイルス学者が検証する』(PHP研究所)

   著者 宮沢孝幸

 

 フェイク・ニュースとか陰謀論とか、そういう話の真偽について、素人には確かめようがない。

実は、私がSNSなどで本格的に発信を始めた理由は、この人工ウイルス説を唱える陰謀論者と思われる人たちを牽制する目的もありました。私は陰謀論をまったく信じていませんでした。「変ったことを言う人たちがいるものだ」程度の認識でした。「ディープステート(DS)という組織が存在しており、地球上の人口を大幅に削減することを目指している」という話も聞いたことがあります。当時の私は、なぜそんな根も葉もない話がでてくるのかさっぱりわかりませんでした。

(本書「第一章 「人工ウイルスではないだろう」と思っていた」)

「根も葉もない話」ではなかろう。〈「地球上の人口を削減すること」によって生態系のバランスを回復する〉という夢を語る人はいそうだ。〈ヒトよりクマが可愛い〉と思っているヒトはいるはずだ。

私がアメリカ在住のウイルス研究者に新型コロナウイルスの起源に関する見解を尋ねたところ、「武漢型は人工である可能性が高いと考えている。その後の変異体については配列を追ってもいないし、人工であるとは考えたこともない」、「なぜそんなものをわざわざつくる必要があるのか?」と問われました。

(本書「第五章 誰がつくったのか?」)

「なぜそんなものをわざわざつくる必要があるのか?」という質問をするのは、「ウイルス研究者」として変だ。動機について考えるのは、心理学者の仕事だろう。あるいは、軍事研究者などの仕事だろう。

専門家でも、ちょっとばかり自分が知らない話題になると、見栄を張って論点を無視することがある。つまり、知識人に成り下がる。

私はmRNAワクチンと新型コロナウイルスはセットで計画されていたのではないかと疑っています。もちろん、決定的な証拠があるわけではないのですが、あまりにも早くmRNAワクチンが世界市場に投入されたことから、事前に周到に準備していたのではないかと思ってしまいます。証拠がないことを騒ぎ立てるのはそれこそ陰謀論になってしまうので強く言えませんが、mRNAワクチンを巡る動きも私の目にはとても不可解なものに映っていました。

(同前)

素人がやるべきなのは、「陰謀論」めいた話に関する真偽の判定ではない。もっと基本的なことだ。

なお、厚労省は現在(2024年6月26日確認)でも、次のようにホームページに掲載しています。「mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンで注射するmRNAは、数分から数日といった時間の経過とともに分解されていきます。」この文章にはどの細胞、組織においていつまでにどの程度分解が進むのかは示されていませんし、あたかも数日ですべてが分解されるかのような印象を与えています。また、NHKは、「感染症データと医療・健康情報サイト」で(2024年6月26日確認)「厚生労働省は、「mRNA」は体内で数分から長くても数日で分解されるとしています」と掲載していますが、これは、厚労省の説明を読み違えたミスリードです。

(本書「第四章 超過死亡とmRNAワクチン」)

素人が注意すべきなのは、印象操作と疑われるような文章を「読み違え」ないこと。そして、勝手に作り替えた文章を発信しないこと。

要するに、misreadしてmisleadしないこと。

誤読は嘘の始まり。SF小説の始まりなら、いいんだけどね。

GOTO 『夏目漱石を読むという虚栄』7121 エビデンス夏目漱石を読むという虚栄 7120 「思想家」の駄々 - ヒルネボウ

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄7330

2024-11-07 22:49:30 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7331 催眠術

 

知識人たちは〈マインド・コントロールは悪い〉と訴える。宗教家や法律家などの専門家は〈マインド・コントロールの定義は困難〉として訴えを退ける。

 

<程度の差、手法の巧拙はあれ、あらゆる教育が洗脳である。

(『百科事典マイペディア』「洗脳」)>

 

洗脳と適当な教育の区別は、「程度の差、手法の巧拙」によるのか。あるいは、目的の合法性によるのか。その場合、合法性は誰がどのようしにて決定するのか。政権が変ると、区別の仕方も変わってしまうのか。だったら、安心して暮らせないよね。

〈洗脳〉は「還元的感化」(N『文芸の哲学的基礎』)の「感化」と同じか。〔4510 「還元的一致」〕参照。「還元的感化」は自己暗示。夏目漱石を読むという虚栄 4510 - ヒルネボウ ただし、そのことにNは気づいていない。

 

<ヒトラーはナチス党の党首として、街頭演説を行います。それは広場を利用して行われたのです。そして洗脳したナチス党員を聴衆の外側に配置します。聴衆は、ヒトラーの演説が始まり、佳境に達してくると「そのとおり!」と叫びます。そうして党員たちはだんだん聴衆の中に入り込んでいき、「そのとおり!」と叫びだします。すると聴衆には、何となくヒトラーの演説がもっともらしく聞こえてくるわけです。一緒になって「そのとおり!」と叫ぶ聴衆が増えてくるので、頃合いを見計らい、ヒトラーは集団催眠をかけるのです。聴衆の心は、すでに群衆効果によってヒトラーの方を向いています。ですから集団催眠をかけることは、さほど困難ではなかったでしょう。ヒトラーの演説が終わる頃には「ハイル・ヒトラー」の大合唱になっていたわけですから、ヒトラーの催眠術の利用方法が、いかに効果的であったかわかるでしょう。ヒトラーの思想自体は、いわゆるファシズムですから、ヒトラーがいくら素晴らしい演説を行ったところで、自分の首を自分で絞めるような「ファシズム思想」に、一般の市民である聴衆が賛同するはずがありません。第二次大戦前の退廃した空気を敏感に察知したうえでの行動とはいえ、催眠術や洗脳といった考え方なくしては、ヒトラーがあのような短期間でドイツ国民の気持ちをまとめていったとは考えられないわけです。

(百舌鳥伶人『催眠術のかけ方』「二章 催眠術のメカニズム」)>

 

『キャバレー』(フォッシー監督)参照。『フィスト』(ジュイソン監督)は実話だろう。『ウェーブ』(ガンゼル監督)では、集団催眠の恐ろしさを教えるために教師が生徒たちに催眠をかける。ところが、それが解けなくなり、ひどいことになる。必見。

〈自分はサタンに支配されている〉という催眠にかかった人に向って、〈サタンなんか、いない〉と言っても無駄らしい。〈サタンはいる〉ということにして、エクソシストを装い、〈サタンよ、去れ!〉と逆の催眠をかける。こうするのが有効らしい。

文豪伝説の信者には『こころ』より面白い小説を読ませたらよかろう。しかし、夏目宗徒に対してエクソシストを演じることは、私にはできない。いや、できなかった。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7332 危険な声

 

ヒトラーのような演説の達人でなくても洗脳はできる。党員がサクラを演じる必要もない。騙されたがる人は簡単に騙されてしまうのだ。

騙されたがる人は、愚者ではない。知識人だ。

 

<――近衛の演説の録音を聞いてみても正直あまり演説がうまいとは思えないのですが、なぜあれほどまでの人気があったのでしょうか。

竹山 やはり、天皇家と並ぶ藤原氏の五(ご)摂家(せっけ)の筆頭という名門で出であることや、陸軍の横暴により政局が不安定ななかで、近衛の「インテリ」性に国民は期待し好意を持ったのではないでしょうか。国民だけではなく、天皇も元老の西園寺公望も近衛を非常に買っていました。西園寺が近衛を首相に推薦したわけですから。政治家、軍人、そして国民全体も、近衛文麿という人物に好意を持っていたといっていいと思います。

――近衛や松岡洋右のラジオ放送を聞いてみると、論理や理屈などもあまり通っていないように感じます。それよりもむしろ、国民の心に訴えることが目的のような感じですね。

竹山 戦中の政府指導者たちの演説ではどういう語句が使われていたかを分析してみると、「天皇」に関するキー・シンボルが多く使われていました。この戦いは「聖旨」すなわち天皇の意思、天皇の命令によるものだと強調し、その大命に従うことが臣民の道であると国民に訴えました。そして、日本軍の連戦連勝は「御稜(みい)威(つ)」(天皇の威光)のゆえであると力説しています。こうした「天皇神話」への寄り掛かりが演説内容を空疎(くうそ)なものにしていたといえます。そして、皇軍の優勢や聖戦の正当性を強調しています。そうした箇所では一段と声を張り上げて訴えかけています。会場の聴衆はそうした大言壮語を歓迎しました。ラジオから流れてくる会場の聴衆たちの歓声や拍手を聞いて、茶の間の人たちの気持ちも高ぶってくる。戦意高揚という点からいえば、ラジオは大変に大きな役割を担ったメディアだったといっていいと思います。

(NHKスペシャル取材班『日本人はなぜ戦争へと向(む)かったのか―メディアと民衆・指導者編―』「第一章 メディアと民衆 “世論”と“国益”のための報道」竹山昭子)>

 

「インテリ」は危険なのだ。

「論理や理屈などもあまり通っていないよう」だからこそ、「智に働けば角が立つ」(N『草枕』)などを名文と思い込まされた知識人は「好感」を抱く。

「明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気」(下五十五)に確かな意味はない。だからこそ、「明治の精神」は「キー・シンボル」として機能する。

『こころ』が「空疎(くうそ)なもの」だからこそ、文豪伝説への「寄り掛かり」が生じる。

「声」は危険だ。「この漠然とした言葉が尊(たっ)とく響いた」(下十九)から、Sはしくじった。「漠然」としているからこそ「響いた」のだろう。『こころ』は「戦意高揚」に寄与した。

「ラジオ」が「大きな役割を担ったメディア」なのは、「ラジオの「熱い」衝撃」(マクルーハン『メディア論』)もさることながら、「茶の間」にラジオのある家の「「インテリ」性」が大きく関係していたろう。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7333 中村真一郎

 

宗教的あるいは政治的信条などの相違を超えた知識人たちのマナーのようなものがあるらしい。彼らは意味不明の作文を許容するばかりか、有難がりさえする。

 

<たとえば、近代最大の作家、夏目漱石を考えてみましょう。彼の初期の『吾輩は猫である』は、ドイツ・ローマン派の、E・T・A・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』からヒントを得て、真似したことは明らかですし、『虞美人草』の絢爛無比の文体と、女主人公の心理のソフィストケイトぶりは、明らかに当時の英国の流行作家、ジョージ・メレディスの『エゴイスト』を日本に移そうとしたのは間違いありません。

それが『彼岸過迄』の、伝奇趣味となると、例の『ジキル博士とハイド』などを書いたR・L・スティーブンスンの向うを張ったのでしょうし、一転して『道草』の平淡な日常の描写は、十九世紀はじめの女流作家、ジェイン・オースチンの『説得』などの細緻で、けれんのない筆致によって反省させられた結果でしょう。そして、最後の『明暗』の層々累々たる心理の構築は、ヘンリー・ジェイムズの難解さへの挑戦とも見られます。

このようにして、漱石は次つぎと、西洋近代文学の宝庫から、すぐれた手本を引き出し、日本の社会に適応して、西洋に負けない近代小説の建設につとめたのでした。

(中村真一郎『文学 この人生の愉(たの)しみ』「第12回 近代文学の世界性」)>

 

「近代」は〈日本「近代」〉の略。「最大」の証拠は? 「夏目漱石を考えて」は意味不明。

『吾輩は猫である』と『牡猫ムルの人生観』の関係は、「明らか」ではない。

 

<自分ではこれ程の見識家はまたとあるまいと思うていたが、先達てカーテル・ムルと云(ママ)う見ず知らずの同族が突然大気燄(たいきえん)を揚げたので、一寸(ちょっと)吃驚(びっくり)した。

(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)>

 

『ホフマン全集』第7巻「作品解題」参照。

「絢爛」ではなく、冗漫。知識人を誑かすための美文もどき。「無比」かな、泉鏡花と比べても? 「ソフィストケイト」は呆れるばかり。「女主人公」の出典は『ヘッダ・ガブラー』(イプセン)だろう。ただし、Nの誤読に基づく皮肉で、しかも失敗した皮肉。設定は『エゴイスト』だろうが、ヒロインはエゴイストではなくて、その被害者だ。原典における男女の関係が入れ替わっている。「『エゴイスト』を日本に移そう」は意味不明。

「伝奇趣味」に困惑。原典は『ジキル博士とハイド』じゃないんだよね。じゃあ、何? 『彼岸過迄』と『道草』の間の『こころ』が抜けている。なぜだろう。『道草』が「平淡な日常」だって? 「『説得』など」の「など」は怪しい。

「層々累々」は〈層累+死屍累々〉か。「心理の構築」は意味不明。「難解さへの挑戦」は意味不明。「とも見られます」で化けの皮が剥がれたか。お疲れ様。そこらで一服してて。

「適応して」は〈適応させて〉の間違いだろう。「負けない」というが、勝ったのか? 「負けない」は〈勝てない〉の隠蔽だろう。「つとめた」から、どうなのか? 

(7330終)


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漫画の思い出  花輪和一(27) 『護法童子・巻之(二)』(双葉社)

2024-11-06 23:46:03 | 評論

   漫画の思い出

    花輪和一(27)

   『護法童子・巻之(二)』(双葉社)

「旅之八 水子沼」

「水子」は、捨て子のこと。

かなり無理な話。

子を捨てた母親が悔いる。そんな情景が、捨てられた少女たちに見える。ある少女は「あれは 嘘の世界よ」と一蹴する。別の少女は、嘘の世界に潜り込み、「あたしだけ 幸福に なってごめん」と喜ぶ。

不幸な現実と幸福な嘘のどちらを選ぶべきか。護法童子には解決できない。苦悩そのものが解脱の契機になる。そんな淡い夢で終わる。

作者は迷っているのだろう。

 

「旅之九 流転」

貧しく愚かな醜女が、病弱で邪魔な両親を殺す。彼女の両親を介護していた美女に騙されたからだ。性悪女は、地獄のような場所に墜ちる。護法童子は彼女を救おうとするが、できない。

真の主題は親殺しだ。作者は親殺しを正当化できないで、うろうろしている。

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 7320

2024-11-03 22:33:07 | 評論

  夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7321 「そんなの常識」

 

人に騙されやすい人は、人を騙しがちな人だ。

 

<「お母さん、助けて!」

息せき切った娘の声が電話口で響いた。どこか声の響きに違和感を覚えたが、なにか異常な事態が起きたらしい。涙声である。

「ど、どうしたの!」

横浜市金沢区に住む横山敏子さん(五二)の声はうわずった。

「実はサラ金からお金を借りたの。そしたら、七万円が十四万円に膨らんじゃって、返せないと、どうなるかわからない」

(取違孝昭『騙す人ダマされる人』「第二章 電話・手紙詐欺」)>

 

騙されやすい人は「違和感」を押し殺す。自分を騙す。そうやって、善人や才人を演じる。つまり、相手を騙すわけだ。考えてもみよ。もしも、この「娘」が詐欺師ではなく、間違い電話を掛けてきた赤の他人だったら、と。

ちなみに、この本の文庫版のカバーは、Nと福沢諭吉の肖像だ。当時の紙幣だけどね。

文豪伝説の信者は、〈『こころ』は名作〉という「定説」(某教祖の決め台詞〉を疑わない。疑うと、偉い人に嘲られそうな気がするからだ。彼らは利口ぶる。そして、偉い人を騙しにかかる。こうして知識人が誕生する。夏目宗徒は『こころ』に「違和感」を抱いている。だが、反省しない。できない。逆に、「違和感」を隠蔽しにかかる。そのために偉い人を演じる。他人を騙すことで自己欺瞞の不足を補おうと頑張るわけだ。

 

<なんでもかんでも みんな

おどりをおどっているよ

おなべの中から ボワッと

インチキおじさん 登場

いつだって わすれない

エジソンは えらい人

そんなの常識 タッタタラリラ

(『おどるポンポコリン』作詞・さくらももこ 作曲・織田哲郎)>

 

原典は『月光仮面』(川内康範作詞・小川寛興作曲)だろう。女の子が暗に知識人を非難している。「なんでも」の一種は言葉。「おどり」は〈おどけ〉の暗示。「おなべの中」は知識の闇汁。「インチキおじさん」は知識人。〈おじさんは悪い人〉と「いつだって わすれない」のだが、少女には本音を口にする勇気はない。「エジソン」は「おじさん」の地口。ちなみに、「そんなの常識」と皮肉に逃げたが、逃げ切れず、苦し紛れに「おどっている」しかない。「インチキおじさん」だって、本当は苦しいんだよね。でも、踊れないから、代りに言葉で「おどっている」んだよね。タッタタラリラ。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7322 正体不明の「スタイル」

 

インチキおじさん、登場。

 

<漱石の文章が今の私たちにも読みやすいのは、私たちの今の書き言葉が漱石を土台にしてできているからである。ドイツ語は、ルターとゲーテによってその後の思想・文学が花開く土台がつくられた。漱石の作品は、日本語の書き言葉の様式という次元で、決定的な影響を与えつづけてきた。漱石を読んだことがない人の文章にも、漱石のつくった日本語のスタイルは忍び込んでいるのである。

(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>

 

Nの文章は、「今の」私には読みにくい。小学生の私は『坊っちゃん』を「読みやすい」と思っていた。まったくの誤読。「土台」も、「できている」も、意味不明。

 

<文章には文語を用いてきたが、明治初期に言文一致運動が起こり、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが話し言葉に近い文章を作品に試みて、その後次第に普及、今日の口語文にいたった。

(『広辞苑』「言文一致」)>

 

〈言文一致〉について、いくつも辞書を見たが、「漱石」の名前は載っていなかった。「書き言葉」は、言文一致とは関係がないらしい。〈土台〉も調べた。無駄だった。

突然、「ドイツ語」の話になる。「思想・文学が花開く」は意味不明。こんなポエムをやってしまうのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」だろう。指摘するまでもなかろうが、この一文は〈漱石=ルター+ゲーテ〉という虚偽の暗示だ。こけおどし。

再び、突然、「漱石の作品」に話が戻る。「書き言葉の様式」は意味不明。「様式という次元」は意味不明。「決定的な影響」は意味不明。

「スタイル」と「様式」の意味は同じか。同じなら、なぜ、言い換えたか。自説に自信がないからだろう。カタカナ語に弱い日本人を誑かすためだろう。この種の誑かしは「漱石のつくった日本語のスタイル」だろう。いや、近代日本知識人の「スタイル」だ。「忍び込んで」という言葉は、以上の論述がまやかしであることの暴露。何四天王とその追随者たちの「スタイル」は自他を欺瞞するものだ。自分を賢そうに見せかけるために小難しい語句を頻用する。抽象的な語句。奇妙な比喩。唐突な断言。論点のすり替え。

Nの文体は作品ごとに異なる。だから、この「スタイル」は、いわゆる文体ではない。ところが、「漱石の―をまねる」(『明鏡国語辞典』「文体」)という用例がある。困惑。Nは他人の文体をまねるのが得意だった。

齋藤が〈文体〉という言葉を用いないのは、「文体を徹底的に分析していくことによって、作者自身さえ意識していなかった作品の内部構造や思考のさまざまな傾斜などの解明に至る」(『ニッポニカ』「文体」小田切秀雄)といった展開を回避するためだろう。虚偽の暗示をやらかすのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」なのだ。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7320 「インチキおじさん」

7323 作り声

 

『声に出して読みたい日本語』というタイトルの「声に出して」は〈大声を出して〉と〈口に出して〉の混用。斎藤には「声」と〈口〉の区別が付かないらしい。「読みたい」は、〈読みたくなる〉と〈読まねばならない〉の混交。つまり、欲望と義務の混交。彼は混乱している。「日本語」は〈「日本語」の作文〉などであって……。ああ、もう、いい。面倒くさい。

 

<ここに採録したものは、どれも息の技によって魅力が増すものばかりだ。ただ詠み上げてみてもさしておもしろくはない。息の間(ま)を工夫してリズムや響きを楽しむように工夫することによって魅力が増してくる。

朗誦することによって、その文章やセリフをつくった人の身体のリズムやテンポを、私たちは自分の身体で味わうことができる。それだけでなく、こうした言葉を口ずさんで伝えてきた人々の身体をも引き継ぐことになる。世代や時代を超えた身体と身体とのあいだの文化の伝承が、こうした暗誦・朗誦を通しておこなわれる。

(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>

 

意味不明。齋藤はおかしい。この本の企画者、編集者、校閲者はおかしい。こんな本を読んで有難がる連中はおかしい。

齋藤の声はおかしい。作り声だ。それが尖った口から出てくるから、耳障り。

 

<そこで私は彼女の手から球を取り上げて、私の手の平を丸くして球の形を作り、さ、今度はこれが「かー」の声だ、これをぶつけてごらん、と彼女に手渡した。不思議そうに私を見ていた彼女が、ウンとうなずいてその想像の球を受け取り、大きく足をふみ出した。「かー!」。相手役が思わず胸の前に手を当てて、「来た!」と言う。見ていた人たちから拍手が起こった。もういっぺん。これでキチンとぶつけられるようになった。

さあ、同じように大きく腕を揺すりながら歌ってみよう。手が前へ振り出される時の音を相手にぶつけてゆく。たとえば「かー」とぶつけて退(ひ)いて、「ご」でぶつけて退く、といったふうに。彼女は初め一、二回ちょっとつまずいてやり直したりしたが、ぐんぐんと声が大きく豊かに、ばしんばしんと相手のからだにぶつかってゆくみたいに、重さと力強さが増していった。もう手を振らなくていいから、前足に体重をかけてリズムを取るだけで歌ってごらん、と私がすすめると、彼女の上体はすっとまっすぐに立ち、前後に揺れるままにすてきな輝くような声で歌い始めた。まっ正面でテレビカメラをかまえていたカメラマンが思わず呻(うな)るようにして、片手をあげ、ここへ来る、ここへ来る、とジェスチュアした。

レッスンを終えた後、彼女は、生まれて初めてこんな声で歌った、と言い、私の声ってこんなのですか、という意味の驚きを語った。

(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』「4―声とことばのレッスン」)>

 

野村萬斎の声、大嫌い。息子の声を、父親はどう思っていたのだろう。

(7320終)


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