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夏目漱石を読むという虚栄 1340

2021-02-08 17:59:57 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1341 「これが先生であった」

 

Sの「遺書」を読んだ後のPは、次のような感想を抱く。

 

<人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐(ふところ)に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」六)>

 

「人間」と「人」は別らしい。「人間」は〈人類〉などの類義語だろう。いわゆる人間嫌いだって、特定の誰かを「愛し得る人」だろう。「愛せずにはいられない人」は〈愛せる人〉ではない。〈愛せない人〉なのだ。愛したいという欲求はあるが、愛する能力が欠如している。そうした真相を隠蔽しつつ伝達しようとして変になった言葉だ。「手をひろげて抱き締める事」は、抱き締める対象が何であれ、誰にもできない。「これ」は雑。

Pは、〈自分を愛してくれる「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて」自分に愛されたがって「自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて」招き入れてから「抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった」〉という真意を隠蔽している。隠蔽しながら、その気分をQに伝達しようとしている。ただし、そういう文芸的表現になっているわけではない。したがって、虚偽の暗示を試みているのは作者だということになる。

Sは〈愛されたい〉という強烈な願い、被愛願望を抱いていた。ププッピドゥー。

 

<定理三 受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情でなくなる。

(スピノザ『エティカ』「第五部 知性の能力あるいは自由について」)>

 

〈甘える〉は能動で、〈好かれる〉は受動。Sは、誰かに甘えたかったのではない。好かれたかったのだ。『こころ』の作者は、「受動の感情」に関して「明瞭・判明な観念」を文芸的に表現することができず、個人的な「混乱した観念」(『エティカ』)を露呈した。

 

<傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止(よ)せという警告を与えたのである。他(ひと)の懐(なつ)かしみに応じない先生は、他(ひと)を軽蔑(けいべつ)する前に、まず自分を軽蔑していたものと見(ママ)える。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」四)>

 

「傷ましい」は、〈イタすぎる〉みたいだ。「近づこう」の実態は不明。「価値」は「近づこうとする人間」が決めることだろう。「警告を与えた」という事実はない。「警告」は勧誘の裏返しだろう。「である」は〈であろう〉が妥当。

「他(ひと)の懐(なつ)かしみに」の一文は、〈「先生」は「応じない」〉と、〈「先生」が「応じない」わけ〉と〈語り手Pには「先生」が「自分を軽蔑していたものと見える」〉の混交だ。語り手Pは、〈SはPを「軽蔑していた」のではない〉という虚偽の暗示に失敗した。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1342 常識としての美談

 

Pは、危篤の「父」を捨てて上京する。その非常識な行為を正当化するのは難しい。だが、〈親は息子が師父の傍にいることを望むものだ〉という前提があれば、どうだろう。

国定教科書に、次のような物語が載っていたそうだ。

 

<藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差し出していたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。ところが、母は、

「あなたは学問をするために生まれて来(ママ)た人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」

と、薬も受け取らず、家にもいれてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。

母に諭(さと)され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。

(渡部昇一『自分の品格』)>

 

「藤樹」は中江藤樹。

太平洋戦争中の映画『君こそ次の荒鷲だ』(保積利昌監督)では、重病の父を見舞うために帰省した少年が父に追い返される。『大空のサムライ』(坂井三郎)にも、父が危篤なのに「カエルニオヨバズ」と息子に打電する軍国の母の話が出てくる。

 

<無遠慮に云うと、第一、信用していた叔父に財産を横奪されただけで、あらゆる人間に対する信用を喪うて終(しま)うというのも極端であるし、また、自己に対する信用の喪失が、自己の愛する妻をも見棄てて終わせるほど絶望的だというのも極端である。――思うに、リアリストたる漱石先生も、未だ『心』にあっては、全然観念的な殻を破りえなかったのであろう。

(赤木桁平『夏目漱石』)>

 

「極端」とは違う。「自分が信用出来ないから、人も信用でき(ママ)ない」(上十四)というのは意味不明なのだ。意味不明だから、赤木は本文を作り変えてしまったのだろう。

 

<潔癖家のアルセストが世間から嘲笑(ちょうしょう)され、訴訟事件にも敗れ、人間嫌いとなり、砂漠へのがれようとするまでの話に、社交界の花形セリメーヌ、処世術にたけたフィラントらがからむ。

(『百科事典マイペディア』「人間嫌い」)>

 

〈「遺書」の物語〉は『人間嫌い』のパクリだろう。ただし、原典は喜劇だ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1343 「自叙伝」の真相

 

『こころ』の作者は、次のような真相を隠蔽しているのかもしれない。

変な両親によって変な育てられ方をしたSは、変な少年に育った。両親の死後、同居した普通の叔父一家に甘え過ぎて、もてあまされ、故郷から追放される。

Sの叔父一家に対する失望は、両親によるネグレクトの体験の反復だろう。だが、Sにその自覚はない。あるいは、ネグレクトされたことを自分の恥のように錯覚していて、自他に対してその奇妙な羞恥心を隠蔽しようとしているのかもしれない。Sは、他の親戚にも疎まれる。なぜだろう。Sの父は精神を病んでおり、〈精神病は遺伝する〉と信じられていたからかもしれない。あるいは、病弱な父に子種がなく、Sが養子だったからかもしれない。

東京のSは、ルーム・シェアをしていて同じ大学に通う同郷の変なKをそそのかし、Kの普通の養親らに反抗させる。Kは復籍した実家からも嫌われて、孤立無援になる。仕送りは途絶え、苦学生になり、心身の健康を損なう。Sは金銭的援助を申し出ようと考えるが、どうせ断られるものと思って、何もしない。SにはKを孤立させた責任があるのだが、どうにも対処のしようがない。Kを避けるために、Sは下宿を移る。

下宿先の主は未亡人で、娘に良縁は望めない。世間知らずで一流大学の学生であるSが現れたから、いいカモだ。Sは彼女の魂胆に気づいていながら、婿になりたがる。仲人の心当たりがないので、Kを仲介役に仕立てようと企む。この企みは、S自身の女性恐怖を克服するための儀式でもあった。KはSのダミーだった。ところが、Sは、〈自分がやりたいこと〉と〈Kがやりそうなこと〉の区別ができなくなる。

静とSは婚約したのも同然の間柄だった。ところが、KYのKは、Sの友人である自分に対する静の親切を自分に対する恋慕と誤解し、舞い上がる。Sによって軟化させられていたせいもあろう。このままだと、Kは静の母から静を略奪するかもしれない。男性的魅力において、SはKに負けている。Sが唯一Kに勝っているのは財産だ。

普通に計算高い静の母は、貧乏なKを婿にしたくない。その点で彼女とSの利害は一致し、静とSの婚約が成立する。ただし、SあるいはKに対する静の思いは不明。静とSの婚約を知った後、KはSを辱めるために自殺する。「不満の意思表示としての無念腹」(千葉徳爾『切腹の話』)の変形だ。ただし、Sが無念腹的動機を推量したわけではない。作者が文芸的に暗示しているのでもない。ところが、日本人なら、何となく察せられることだ。罪は贖えても、死者を相手に恥を雪ぐことはできない。Sの自殺の動機も、何者かに対する無念腹だ。

Kの死後、静とSは結婚する。やがて、二人の結婚にまつわる真相を知る母が死ぬ。

暇そうなSに暇なPが寄りつき、ティーチャーズ・ペットになる。〈P〉は〈pet〉の頭文字。Sは誰かにオルタ―・ファクトの「自叙伝」を聞いてもらいたいと願っていたので、Pを都合のいい生徒として教育する。教育が終わり、「適当の時機」(上三十一)が来たので、「遺書」を書いた。この「時機」は、乃木の死と直接の関係はない。

推理小説なら、〈Kは子供のころからSを「馬鹿」(上三十)と呼んでいた。静はKを「馬鹿」と呼ぶ。Kは静を強姦する。SはKを殺し、自殺に見せかける。学生探偵Pは挙動不審のSの「過去を訐(あば)いて」(上三十一)みたくなる。SはPを欺くために不備な「遺書」を記し、自殺に見せかけて隠れる〉となる。『アクロイド殺人事件』(クリスティ)参照。

(1340終)

 


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