夏目漱石を読むという虚栄
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1410 支離滅裂
1411 統合失調症あるいは精神分裂病
Sは、Pの「兄」のような普通の人に尊敬されない。だからこそ素敵らしい。〈超人だから凡人に嫌われる〉じゃなくて、〈凡人に嫌われるから超人だ〉という暗示らしい。
<天才というものはこのような異常性の上に生まれる。漱石が精神病であったことを否定して、英国へ留学して「神経衰弱」になったり、妻のヒステリーのため「神経衰弱」になったりするなら、そのへんにざらにある気の弱いいくじのない男性とちがうところはなくなってしまう。我々から見ると、そんなことをいって漱石を弁解する人の方が漱石をけなしていることになる。漱石は分裂病の傾向のある躁つう(ママ)病であったのだ。大ざっぱにいうと、むしろ躁うつ病的・循環的である。
(西丸四方『異常性格の世界』)>
Nは「そのへんにざらにある気の弱いいくじのない男性」のアイドルだろう。
<精神分裂病、そしてその他の精神病は、ただの病気にすぎない。だから侮(あなど)りの対象にも、その神秘化の対象にもするべきではない。卑しむべきでも崇めるべきでもない。これは当然のことだ。まして、この病気を扱う医者が人間の精神活動について何か特別の知識や指導性を持つかのように錯覚するのは大いなる過ちである。
(計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』)>
「統合失調症」あるいは「精神分裂病」のどちらも意味不明。
<2002年、日本精神神経学会は1937年以来使ってきた精神分裂病のことばには人格否定的なニュアンスがあるとして「統合失調症」に名称を変更した。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「統合失調症」)>
「人格否定的」は意味不明。名称の変更に関しては〈分裂が多重人格と混同されるから〉という説を読んだか聞いたかした記憶がある。「ニュアンス」のせいで「名称」を変更するのなら、「統合失調症」が差別的に使われるようになったら、また変更するの? 『精神科は今日も、やりたい放題』(内海聡)参照。〈スキゾ〉じゃ、駄目かな。
<本書には、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。しかし作品が書かれた時代背景やその文学的価値、著者が差別の助長を意図していないことを考慮し、当時の表現のまま収録いたしました。その点をご理解いただきますよう、お願い申しあげます。
(フレドリック・ブラウン著・星新一訳『さあ、気ちがいになりなさい』編集部)>
「著者」は〈訳者〉が適当。この小説を読んで、中学生だったか、私はびっくりした。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1410 支離滅裂
1412 二種の隠喩
PやSの言葉の意味は、普通のとは違う。
<「感じは言葉で説明できないんです」彼女は〈Yr(イア)〉語の隠喩(メタフオ)のことを考えながらそう言った。自分の心で考える時、また〈Yr(イア)〉の住人に望みを打明ける時はいつも〈Yr(イア)〉語の隠喩(メタフオ)でするのだった。最近はことにいろいろなできごとや考えがおこったが、それはこの地上世界の住人とはまるで関係のないことだったので、自然〈Yr(イア)〉の平原や穴や頂上は、〈Yr(イア)〉特有の苦悩と壮大さをとらえることのできる一つの言語の語彙(い)がだんだんふえていくのをこだまさせていた。
「何か言葉があるはずよ、なんとかその言葉を探してくださいな、そうすればお互いに理解しあえるわ」
「隠喩(メタフオ)だから、とてもわからないと思うけど……」
「解説してもらえないかしら?」
「一つの言葉があるの、その意味は『鍵のかかった眼』だけど、本当はもっと別の意味もあるの」
「どんな?」
「石棺をあらわしてるの」それは彼女にとって、自分の視界は石棺の蓋のところまでしか届かないことがある、という意味だった。棺の中の死体と同様、彼女にとってもその住む世界は自分自身の棺の内部のサイズだった。
「その“鍵のかかった眼”で、私が見えますか?」
「一枚の絵のようにみえるわ。本物を描いた絵のようよ」
しかしこの問答はとても彼女をこわがらせた。彼女の住む世界の壁は、まるで大きな心臓が鼓動するように、震動しはじめた。〈アンテラピー〉は〈Yr(イア)〉語で呪文を誦えはじめたが、デボラにはその意味がわからなかった。
「ひとのこと、そんなふうに詮(せん)索して、さぞうれしいでしょうね」とデボラは、だんだんうすれていく博士に言った。
(ハナ・グリーン『デボラの世界』)
Nの用いる意味不明の語句は、「鍵のかかった眼」のような「隠喩(メタフオ)」と思われる。Nは「〈Yr(イア)〉」のような「世界」を隠蔽していたはずなのだ。だから、生きているNに彼の用いた語句などの意味を質問しても「解説して」もらえなかったろう。
この件について、話し易くするために、それらが密かな見知らぬ意味を仄めかしていることから、われわれの間ではそれを埋葬語(cryptonyme)(隠す語)と呼んでいた。
(ニコラ・アブラハム/マリア・トローク『狼男の言語標本 埋葬語法の精神分析』)>
夏目語は「埋葬語」かもしれない。「埋葬語」は、ありふれた隠語とは違う。発語する本人にさえ、その意味を説明することはできない。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1410 支離滅裂
1413 「矛盾な人間」
Sは「矛盾な人間」と自己紹介する。「矛盾な」は、問題な日本語。
<思考行動に矛盾の多い人間。漱石の作品にしばしば出てくる表現で、漱石の基本的な人間観のひとつ。
(夏目漱石『こころ』ちくま文庫・解説「矛盾な人間」)>
「人間観」は意味不明。
<然し俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云(ママ)うのは明かにパラドックスである、(ママ)
(夏目漱石『吾輩は猫である』五)>
普通の意味の〈矛盾〉は「現実のうちにある両立しがたい、相互に排斥しあうような事物・傾向・力などの関係」(『広辞苑』「矛盾」)だろう。普通の人は、二者択一で判断に窮したら、思考を停止し、運を天に任せ、賭ける。どれにしようかな、天の神様の言うとおり。さらには、祈る。「矛盾な人間」は、こうした賭けができない。祈れもしない。
<アントナン・アルトーは、子どもを、身体的受動と身体的能動とい深層での二つの言葉に合わせて、極端に暴力的な二者択一に追い込む。すなわち、子どもは生まれ出ない、言いかえるなら、子どもは、両親が姦淫する場所の下にとどまり、やがて脊柱になる箱から出て来ない(逆向きの自殺)か、あるいは、子どもは、器官も両親もない、燃え上がる栄光の流動体的身体へと自己を作る(アルトーの言う、自分の生まれるべき「娘たち」)かという二者択一である。反対に、キャロルは、自分の非物体的な意味の言葉に相応しく、子どもを待ち望む。キャロルが待ち望むのは、母の身体の深層を離れて、まだ自己自身の身体の深層を発見してはいない時点と時期の子ども、また、自分自身の涙の池の中のアリスのように、水面にちらっと現われる短い時期の少女である。両者は、別の国、何の関係もない別の次元である。
(Gドゥルーズ『意味の論理学』「第13セリー 分裂病者と少女」)>
『吾輩は猫である』は、「キャロル」的な作品のように誤読されている。しかし、これは『こころ』と同様、「アルトー」的表出なのだ。
なぜ、このことに多くの日本人は思い当たらないのだろう。日本では「分裂病者」的表現が英知や雅趣の表現と区別されてこなかったからだ。支離滅裂の表出を全知全能の表現に偽装しやすい。たとえば、〈矛盾〉という言葉は、言うまでもなく、中国の故事に由来する。しかし、〈パラドックス〉の訳語としても用いられる。〈パラドックス〉は〈逆説〉が適当だが、〈逆説〉は「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説」(『広辞苑』「逆説」)でもある。
(1410終)