夏目漱石を読むという虚栄
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1510 尻切れ蜻蛉
1511 自殺の美化
『こころ』は、現実逃避の身勝手な自殺を美化したものだろう。誰のためにも、何のためにもならない自殺だ。では、なぜ、『こころ』は教科書などで推奨されてきたのだろう。日本の教育関係者は、〈「向上心がないもの」は死ね)みたいなメッセージをひそかに送り続けてきたのではないか。自殺大国と呼ばれる日本の現状と、意味不明の『こころ』が名作とされてきたことの間に、何の関係もないのだろうか。あるさ。
<自己本位主義は、たんなる自殺の副次的な要因ではなく、その発生原因である。このばあい、人びとを生にむすびつけていた絆が弛緩するのは、かれらを社会にむすびつけていた絆そのものが弛緩してしまったためである。では、直接に自殺を思いたたせる、決定的条件のようにみえる私生活上の出来事はどうかといえば、それらは、じつは偶然的な原因にすぎない。個人が環境の与えるごく軽微な打撃にも負けてしまうとすれば、それは、社会の状態が個人を自殺のまったく格好(かっこう)の餌食(えじき)に仕立てあげていたからにほかならない。
(エミール・デュルケーム『自殺論』)>
Kの受けた「勘当」(下二十一)も、静が相手の「失恋」も、Kの自殺の「偶然的な原因」だったのだろう。Kの自殺の真因は、彼が生きた「社会の状態」に求めるべきだろう。ところが、Kは「社会の状態」から目を背けて内向きになり、「精進(しょうじん)という言葉」にすがって生きていた。このように推測される。だが、作者の意図は不明。
『こころ』を和風『生ける屍』(トルストイ)つまり「偽善的な社会制度に適応できない主人公プロターソフが、潔癖さのゆえに自殺する話」(『日本国語大辞典』「生ける屍」)みたいに総括するのは無理だ。「偽善的な社会制度」について過不足なく表現されていないからだ。
Sは、「彼等が代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ」(上三十)と意味不明の啖呵を切っているが、実際には「彼等」つまり叔父一家との闘争からの逃走を美化しているだけだ。〈人間を憎む〉などという台詞は、無差別殺人などをやった経験のある人間が吐くときにしか、真実味はない。Sは、ふざけた男だ。いや、作者が軽薄なのだ。
Kの耳元で、誰かが「もっと早く死ぬべきだのに」(下四十八)と囁いた。Kはこの誰かに殺されたわけだ。その誰かは「社会の状態」を擬人化した架空の人格Dだ。Kは自分のこしらえたDに殺された。Sも、S自身のDに殺されかけている。「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿(たど)っているのだ」(下五十三)という根拠のない思いは、〈KのDがKに作用したの「と同じように」SのDがSに作用する〉といった妄想を少しだけ露呈した言葉だ。〈Sの物語〉の原典は〈Kの物語〉だ。ただし、Sの空想する〈Kの物語〉だ。この物語の主題は、Nの〈自分の物語〉の主題と同じだろう。作者はこの主題を伝達しようと足掻いた。
ただし、作者がこのように表現しているのではない。むしろ、こうした真相を隠蔽している。だから、皮肉にも、〈『こころ』は名作〉ということになっているのだ。Dの存在を隠蔽することに成功しているから、名作なのだ。めげて自殺したくなるような「社会の状態」から目を逸らし、じたばたするのを美化してくれるから、つまり、「煩悶(はんもん)や苦悩」を美化してくれるから、『こころ』は名作なのだ。だろ?
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1510 尻切れ蜻蛉
1512 小説のような夢
Nの小説は、どれも尻切れ蜻蛉だ。物語として終わっていない。このことに気づかない人は、小説に限らず、どんな文章を読んでも、結論や結末があるのかないのか、あるとしたらどんな結論や結末なのか、こうした問題に自信をもって答えることができないはずだ。
『吾輩は猫である』や『草枕』の終わり方は唐突だ。『坊っちゃん』は、〈「五分刈り」と清の物語〉と〈「うらなり」と「マドンナ」の物語〉に分裂していて、そのどちらにも結末がない。『三四郎』の終わり方もおかしい。次作の『それから』は、三四郎のそれからを描いたものではない。また、『それから』の次作の『門』は、代助のそれからを描いたものではない。この三作は〈前期三部作〉と呼ばれているが、『門』も終わっていない。終わり方が『門』に似た『道草』も終わっていない。『門』と『道草』の間に発表された『彼岸過迄』と『行人』と『こころ』は〈後期三部作〉と呼ばれているが、それぞれが終わっていない。、『こころ』は『道草』と密接な関係がある。後者は前者の真相を暴露したものだ。つまり、『こころ』の夫婦の実態が『道草』で描かれることになる。『明暗』は〈Nの死による中絶〉ということになっているが、長生きしてもNには完成させられなかったろう。
『こころ』が現在の形で終わっているのは、新聞社との契約が主な原因だろう。〈『こころ』の続きを書け〉と命じられたら、Nは平然としてP文書を再開したろう。
Nの作品は夢のようだ。夢のような小説ではない。〈小説のような夢〉の叙述だ。
物語としての終わりと、作品としての終わりは違う。落語など、ほとんどが物語として終わっていない。だが、落ちはある。むしろ、物語が終わっていない方が落語らしい。『芝浜』(三遊亭円朝)などは物語が終わっているので、落ちが利かない。
小説や映画などで、わざと尻切れ蜻蛉になっているものはある。その典型が『女か虎か』(ストックトン)だ。『タバコ・ロード』(フォード監督)や『モダンタイムズ』(チャップリン監督)や『アパートの鍵貸します』(ワイルダー監督)や『卒業』(ニコラス監督)なども同様。『四月の雪』(ホ監督)の劇場公開版も曖昧な終わり方をしていた。ディレクターズ・カットには結末がある。こっちはつまらない。『13日の金曜日』(カニンガム監督)は終わり切っていない。続編を期待させるような終わり方をしていて、当然のように続編が次々に作られるが、どうにも終り切れず、凄いことになる。『ローマの休日』(ワイラー監督)にだって続編があってよさそうなものだが、誰がそれを期待しよう。『蒼のピアニスト』(SBS)は、重要な出来事が隠されたまま、終わる。それは、韓ドラでしばしば描かれてきたような出来事だろう。『5時から7時までのクレオ』(ヴェルタ監督)や『ロシュフォールの恋人たち』(ドゥミ監督)にも結末がない。ただし、結末は自明だろう。『硝子の微笑』(バーホベン監督)の劇場公開版は、謎が解けていない。そのことは、ディレクターズ・カットを観ると、はっきりする。
『ロンバケ』の終わり方やそれに似た『冬ソナ』の終わり方もおかしい。結婚式の場面がないからだ、どちらの作品でも結婚式が重んじられているのに。総集編の『ロンバケ』だと、結婚式が始まりそうなところで作品が終わってしまう。でも、いい。
『たけくらべ』(樋口一葉)のあの二人は再会すべきだ。『言の葉の庭』(新海誠監督)のあの二人は再会すべきだ。『小説 言の葉の庭』(新海誠)の二人は再会する。ほっ。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1510 尻切れ蜻蛉
1513 『壷坂霊験記』
『こころ』には結末がない。結末とは、Sの死の有様とその後のPと静の物語だ。
<「然しもしおれの方が先へ(ママ)行くとするね。そうしたら御前どうする」
「どうするって……」
奥さんは其所(そこ)で口籠(くちごも)った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(ふじょう)っていう位だから」
奥さんはことさらに私の方を見て笑談(じょうだん)らしくこう云った。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三十四)>
こんな話は夫婦だけでするものだ。しかし、Pという観客がいるからこそ上演できた仮面夫婦の芝居だろう。ただし、作者の企画ではない。だから、読者は芝居と疑ってはいけない。
「笑談(じょうだん)らしく」は〈本音を「笑談(じょうだん)らしく」装って〉と解釈できる。困ったことだ。
Sは「もしあなたが生きてゐなけりやあ、わたくしも生きてはゐないわ」(シュニッツラー『みれん』)と妻に言われたかったらしい。ただし、この甘い台詞はドラマティック・アイロニーだ。つまり、彼女自身には自覚できない嘘だ。
<元来、夫は死んだのに死におくれている意の自称の語であったが、後、他人からいう語となった。
(『日本国語大辞典』「びぼうじん【未亡人】」)>
「寡婦殉死。語義は「貞節な妻」」(『山川 世界史小辞典』「サティー」)という習俗を、作者は暗示しているらしい。いや、Sが静に暗示し損ねているのだろう。
乃木夫妻は心中した。
<私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装(なり)をしたその夫人の姿を忘れる事が出来なかった。
(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十二)>
Sの空想する「殉死」の物語の原典は『壷坂霊験記』だろう。
<盲人の沢市は、女房お里が夫の目が見えるようにと壷坂寺観世音へ夜参りしているのを知ってふびんがり、谷底に投身する。お里もあとを追うが、霊験によって二人とも生き返り沢市の目も開くという筋。
(『百科事典マイペディア』「壷坂霊験記」)>
これは「明治期新作浄瑠璃の代表作」(『ブリタニカ』「壷坂霊験記」)とされる。
(1510終)