夏目漱石を読むという虚栄
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1300 あらすじすらすらすらと読めない
1350 不図系
1351 「思い出した序(ついで)に」
『こころ』に、どういうことがどういう順番で書いてあったか、なかなか思い出せない。ある出来事とその前後で語られる出来事に合理的な関係がないからだ。
記憶は、語ることによって変化する。一方、物語は、事件や事故が過去から現在に向かって数珠繋ぎに起きたように語られる。『こころ』の語り手たちは、物語の語り手とは異なり、語ることによって出来事を思い出す。記憶を偽造しているみたいだ。
<然しこれはただ思い出した序(ついで)に書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただ其所にどうでも可(よ)くない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければ御嬢さんの室(へや)で(ママ)、突然男の声が聞こえるのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>
「これ」の指すものは、不明。この前には、いくつかの物語が羅列してある。
1 静母子の家は「人出(ひとで)入(いり)の少ない家(うち)」だった。
2 静の「学校友達」が「ときたま遊びに来る事」があった。
3 静の「学校友達」は「極めて小さな声」で話した。
4 Sにとって、静の「学校友達」は「居るのだか居ないのだか分らない」ようだった。
5 静の「学校友達」は、いつの間にか「帰ってしまうのが常」だった。
6 静の「学校友達」がSに「遠慮」をしているということに、Sは気が付かなかった。
7 Sの学友が「宅(うち)の人に気兼ねをする」ことはなかった。
8 学友の態度の違いが原因で、Sは「主人(あるじ)」のように、静は「食客(いそうろう)」のようになった。
9 「突然男の声」がSに聞こえる。
ばらばら。1の情報の価値は不明。2の少女たちは登場しない。3の情報は疑わしい。「極めて小さな声」は聞こえまい。4の情報の価値は不明。「居ない」としたら、5はなかったことになる。6は変。Sは他人の「遠慮」に、いつ、どうやって、気が付いたのか。7も同じく怪しい。学友の気持ちが、Sにどうしてわかるのか。8は無茶。冗談にもならない。9になると、「突然」どころではない。
下宿では、襖を隔てた合コンが催されていた。「主人(あるじ)」は、Sでも静でもない。静の母だ。彼女がホステスとなり、若いカップルを次々に誕生させる。静とSは未来の夫婦になった。学友たちは、二人の仲を認めると同時に、黙って帰る。ところが、得体の知れない「男」が「突然」飛びこんで来て、異議を唱える。「男の声」に対して、Sは無力だ。なぜだろう。
『冬ソナ』で、ユジンとミニョンの二人きりの結婚式にサンヒョクが「突然」飛びこんで来て、いやがるユジンを連れ出す。ミニョンは抗わない。なぜだろう。
「遺書」を含む「自叙伝」は、「どうでも構わない点」と「どうでも可(よ)くない事」を「一つ」に結ぶ物語だったろう。その物語では、正体不明の「男」がSを苦しめ続けている。「突然男」は「一種の魔物」(下三十七)であり、SのDだ。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1300 あらすじすらすらすらと読めない
1350 不図系
1352 複数の〈自分の物語〉
Sの人生における最重要人物はDだったはずだ。ところが、「遺書」では、Dは「黒い影」(下五十五)のような比喩によってその存在が暗示されているのにすぎない。
「黒い影」を〈Kの亡霊〉と誤読する人がいそうだ。しかし、作中に亡霊が実在するのなら、『こころ』は怪談ということになる。勿論、『こころ』は怪談ではない。
「遺書」を語るにつれ、Sの記憶が蘇り、物語の異本が生まれる。勿論、こんなことはありふれている。だが、ありふれた呟きを〈作品〉と呼ぶことはできない。
「遺書」は「この長い自叙伝の一節」(下五十六)だ。ところが、「自叙伝」は未完だから、語り手Sが「遺書」を語ることによって、「自叙伝」が変化することになる。この場合、語り手Sは継続中の「自叙伝」の登場人物でもあり、「遺書」において語られつつあるSと区別できない。ただし、こんなことは、ありふれた混乱だ。
ありふれた混乱のないものを〈作品〉と呼ぶとすれば、作者はSの混乱を補整できていないから、『こころ』を〈作品〉と呼ぶことはできない。
「自叙伝」を一般化して〈自分の物語〉と呼ぶ。〈自分の物語〉の語り手は自分であり、主人公も自分だ。その聞き手は特定できない。〈もう一人の自分〉とでも呼ぶしかない。これがDだ。Dは、〈自分の物語〉の登場人物でもある。〈自分の物語〉は物語として不安定だからだ。自分は、語り手になったり、主人公になったり、Dになったりする。
普通、記憶は上書き保存される。つまり、書き換え前の原本は廃棄される。重要でない情報や恥ずべき体験などを、本人は都合よく忘れてしまうものだ。
ところが、Sは、「自叙伝」の語り手として限界を感じると、上書きされていない過去の原本を「突然」呼び出してしまうらしい。そして、そこから語句を引用する。原本における自分の考えを、正体不明の「男の声」として引用してしまうわけだ。
自分の考えであっても、過去の考えは、現在の自分が置かれている状況では有効に機能しない。たとえば、ある文書における「虚栄」という言葉の意味は、別の文書では意味が違ってしまう。ずれが生じる。ただし、そうしたずれを、普通は自覚しない。自覚したら、言い換える。ところが、Sは言い換えない。「意味は、普通のとは少し違います」と押し切ってしまう。実際に違っているのは、「意味」ではなく、文脈なのだ。
<ある単語や句や文に対して、その前後の単語や句や文が及ぼす意味的規定力。「チョウをこわして入院した」と「チョウが飛んで行く」とを聞いたとき、腸と蝶とがまちがいなく理解されるのは文脈の力による。具体的レファレントをもたない単語ほど、その意味が決る(ママ)ために文脈に依存する度合いが大きい。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「文脈」)>
「レファレント」は「指示物」(『ブリタニカ』「レファレント」)と訳される。
Sの言葉の意味を規定する文脈つまり〈自分の物語〉は複数ある。それらのどれも作品として完成していない。だから、Sの頭の中では、不十分な複数の文脈が錯綜してしまう。たとえば、語られるSは、Dを他人のように感じたり、他人をDのように感じたりする。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1300 あらすじすらすらすらと読めない
1350 不図系
1353 「不図(ふと)した機会(はずみ)」
普通の小説なら、「突然」何かが起きたとしても、後から〈実は~〉と理由付けなどがなされるものだ。ところが、『こころ』ではそうした展開にならない。問答無用という感じだ。
<私は不図(ふと)した機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣れていた。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
Nは、「不図(ふと)した機会(はずみ)」に「慣れて」いたようだ。
<私は時折、私の友達やら色々の知人から、私の父に就いての感想を聞かれる事があるが、私はそんな時、よく妙に淋しい気のする事がある。それは恐らく、私が父に対して殆ど愛情らしい愛情も抱いていなかった――今も同様依然として抱いていない――そうした気持から来る感情かも知(ママ)れない。
(夏目伸六『父夏目漱石』)>
伸六がNを疎んだのは、Nの「不図(ふと)した機会(はずみ)」に対応できなかったからだろう。
<この純一君と話をしてゐるうちに、漱石の話が度々出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがひじみた男としてしか記憶してゐなかつた。いくら私が、さうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であつたと説明しても、純一君は承知しなかつた。子供の頃、まるで理由なしになぐられたり、怒鳴られたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであつた。そこにはむしろ父親に対する憎悪さへも感じられた。そこで私ははつと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起るわけが解る筈はない。創作家でなくとも父親は、しば〳〵子供に折檻を加へる。子供のしつけの上で折檻は必要だと考へてゐる人さへある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植ゑつける筈のものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、さういふ折檻が癇癪の爆発の形で現はれ易いであらう。しかしその欠点は母親が適当に補ふことが出来る。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽つたのではなからうか。そのために、年と共に消えて行く筈の折檻の記憶が、逆に固まつて、憎悪の形をとるに至つたのではなかろうか。
(和辻哲郎『漱石の人物』)>
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(ミラー)参照。特に「闇教育」関連。
和辻は、父親から精神的に遺棄されて育ったのだろう。彼は見捨てられた自分を恥じて、〈自分は父親に愛されていた〉という記憶を偽造して生きてきたようだ。だから、純一にも、記憶を偽造するよう、勧めた。ところが、無礼にも純一は拒んだ。和辻は、むっとする。思考が途切れる。「はつと」は、不図系の言葉だ。和辻の妄想が始まる。
むっとして、はっとして、ぺらぺらとまくしたてる人には要注意!
(1350終)
(1300終)