ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1430

2021-02-14 23:13:36 | 評論

    夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1431 小林秀雄

 

『こころ』は誰にとっても意味不明であるはずなのに、〈『こころ』は意味不明だ〉と公言する人は少ない。なぜだろう。理由は三つ考えられる。

第一の理由は単純なものだ。著名な評論家たちが文豪伝説を流布してくれたせいだ。

 

<鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである。彼等の洞察は最も正しく芥川龍之介によつて継承されたが、彼の肉体がこの洞察に堪へなかつた事は悲しむべき事である。

(小林秀雄『私小説論』)>

 

「鷗外と漱石と」他に誰もいないのか。二人しか並べないのは怪しい。「私小説運動」および「運動と運命をともに」は意味不明。「教養」と〈表現〉の関係はどうなっているのか。『道草』は「わが国の自然主義小説」の一種ではないのか。「洞察」は意味不明。

第二の理由は深刻なものだ。小林の文章みたいな意味不明なのが流通しているからだ。

巷には、「頗(すこぶ)る不得要領」(上七)で、「意味は朦朧(もうろう)」(上十三)とした「空(から)っぽな理窟(りくつ)」(上十六)や「感傷(センチメント)を弄(もてあそ)ぶ」(上二十)ような「感傷的な文句」(上三十六)や「囈(うわ)言(ごと)」(中十六)同然の「論理(ロジック)」(下九)や「漠然とした言葉」(下十九)や「空虚な言葉」(下二十二)や「小理窟(こりくつ)」(下三十一)や「曖昧(あいまい)な返事」(下五十四)などが大量に出回っている。これらにいちいち突っ込んでいたら、疲れる。だから、棚上げにする。

第三の理由は滑稽かつ悲惨なものだ。わかったふりをしないと恥ずかしいからだ。

童話の世界の裸の王様が着ているふりをした着物は、「だれが利口かばかか、区別する」(アンデルセン『皇帝の新しい着物』)ための小道具だった。『こころ』も同様の小道具として悪用されているようだ。〈『こころ』がわからないものは向上心のない馬鹿だ〉みたいな風潮がありはしないか。

童話の世界では、「だけど、なんにも着てやしないじゃないの!」(『皇帝の新しい着物』)という子どもの声で化けの皮が剥がれた。そんなふうに記憶している人が多そうだ。

 

<「なんにも着ていらっしゃらない!」とうとうしまいに、ひとり残らずこう叫びました。これには皇帝もお困りになりました。なぜなら、みんなの言うことがほんとうのように思われたからです。けれども、「いまさら行列をやめるわけにはいかんわい。」とお考えになりました。そこでなおさらもったいぶってお歩きになりました。そして、侍従たちは、ありもしない裳(も)裾(すそ)をささげて進みましたとさ。

(ハンス‐クリスチャン・アンデルセン『皇帝の新しい着物』)>

 

結局、「みんな」の声は無視されたのだ。王家は揺るがない。

日本でも「行列」は続くことだろう。私の仕事が成功したとしても、「侍従たち」は粛々と「ありもしない」意味を「ささげて進み」続けることだろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1432 江藤淳

 

Nの作品は、文豪伝説のスピンオフみたいなものだ。ネタの使いまわし。マンネリ。Sには完成できない「自叙伝」の異本が「遺書」であるように、Nにはうまく語れない文豪伝説の異本が『こころ』を含む全作品だ。

Nは文豪伝説の主人公になるために小説を書いたようだ。

 

<ところで夏目漱石として知られる小説家は、漱石的「作品」に自分をなぞらえることのできたほとんど例外的な存在であり、それ故にこそ「作家」と呼ばるるにふさわしい人間なのだ。この際、たまたま彼が夏目漱石の名で幾篇かの小説を書いていたという事実は、ほとんど無視するにたる些細な条件にすぎない。だから、文学的な贖罪の物語が漱石によって書かれなかったのは当然というべきだろう。物語は、彼が「作品」を模倣し反復する過程で消費されつくしてしまったのだ。その意味で、夏目漱石は、漱石的「作品」の特権的な読み手だというべきかもしれない。「作品」に似ることができるのは、小説家ではなく、読者だからである。それ故、漱石的「作品」が夏目漱石に似ていないのは、いささかも驚くべきことがらではない。「則天去私」だの「自己本位」だのがほどよく漱石に似ていたというような意味でなら、漱石的「作品」は漱石にほとんど似ていないとすらいえるだろう。だが逆に、夏目漱石は漱石的「作品」に恥しいまでに酷似しているのだ。

(蓮實重彦『夏目漱石論』「終章 漱石的「作品」」)>

 

『こころ』を理解するには、どこにもないNの〈自分の物語〉を想像する必要がある。Nの小説は陰画であり、特定できない文豪伝説が陽画なのだ。逆ではない。夏目宗徒はNの〈自分の物語〉を捏造するためにその作品を利用する。

蓮實の論は、次の江藤の論を裏返そうとしたものだろう。

 

<ぼくらは「高慢と偏見」や「マンスフィールド・パーク」を思い浮かべることなしに、ジェイン・オーステンを考えることは出来ない。しかし、「猫」や「それから」や「明暗」は喪章をつけてうなだれた漱石の影にかくされていて、ぼくらは作品より、むしろ明治の時代を生きた代表的な日本の知識人としての彼自身に興味を感ずるのだ。漱石のような大作家をこのようにしか見ることの出来ないのは不幸なことである。しかし、ぼくらと芸術の関係はそれ程不幸なものなのだ。仮りに百年の後に漱石が残るとしても、彼は「草枕」や「坊つちやん」の作家として残るのではさらにない。彼は、作家でもあった文明批評家として残るのであって、偽物でない文学を志す日本人はこのことを肝に銘じておかなければならない。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』「第五章 漱石の深淵(しんえん)」)>

 

「作家でもあった」江藤は、〈N的でない「知識人」=「偽物」〉と宣言するために文豪伝説を利用し、自らも捏造した。「ぼくら」は「不幸」なのだそうだ。しかし、私は、Nや江藤やその仲間たちの悪文のせいで「不幸」なのだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1433 吉本隆明

 

意味不明であることを知りつつ、ありもしない意味を読み取ってくれる人がいる。

 

<『こころ』という作品は、今でもいちばん読まれているそうですが、この作品を読んだ印象を一言でいえば、何か先生という人物の罪の意識だけがまっ暗闇のなかでちょっと光っているという画像が強烈にのこります。それ以外の具象性は、あまり造形的に成功しているとはおもえないのです。それほどの具象性がある作品とはおもえないんですが、ただ人間の罪の意識みたいなものがぼー(ママ)っと闇のなかに浮かびあがっているイメージが読後の印象としてのこります。

(吉本隆明『夏目漱石を読む』「資質をめぐる漱石」)>

 

「光っている」のに「まっ暗闇」なんて変。「罪」とは、「じぶんと親友のあいだで一人の女性をめぐって葛藤を演じ、その親友を出し抜いてしまったという、まったく私的なこと」(『夏目漱石を読む』)だそうだが、吉本は自身の「私的なこと」をSのそれに重ねたらしい。〈「意識」が「光って」〉は意味不明。「具象性」云々は「抽象的な言葉」(下三十一)だらけということか。「先生という人物の罪の意識」が「人間の罪の意識みたいなもの」に変わっている。本文でも「私の罪」(下五十二)が「人間の罪というもの」(下五十四)に変わる。〈「イメージが」~「印象として」〉はナンセンス。

 

<もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬ(ママ)いて、一瞬間に私の前に横(よこた)わる全生涯を物凄(ものすご)く照らしました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)>

 

「取り返しが付かない」のは「世間体」だろう。「黒い光」は〈ブラック・ライト〉の直訳か。「暗くなる電球」(藤子・F・不二雄『ドラえもん最新ひみつ道具大事典』)の光か。「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」(シェイクスピア『マクベス』)を連想すべきか。〈「光が」~「未来を貫ぬいて」〉は意味不明。「一瞬間に」の被修飾語が不明。「私の前に横(よこた)わる全生涯」が〈「私の」「全生涯」〉なら、幽体離脱が起きている。「物凄(ものすご)く」は意味不明。

 

<神秘体験を当事者が自覚的に反省して、ことばによって表現し、解釈説明しようとする努力から「神秘思想」が形成されてくる。これはもともと言語を絶する体験であるが、これをなんとか言い表そうとするために、神秘主義に特徴的な表現形式が用いられることになる。古代インドの聖典『ウパニシャッド』の「然(しか)らず、然らず」に代表されるような否定的表現、「光り輝く闇(やみ)」「いっさいを含んだ無」などの矛盾逆説による表現、「魂の火花」「霊の水晶宮」といった詩的象徴的表現などである。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「神秘主義」脇本平也)>

 

「光輝く闇(やみ)」と「もう取り返しが付かないという黒い光」は、関係ないよな。

(1430終)


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