夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2550 「主人(あるじ)」
2551 「父」と「叔父」とK
Sは父性に対して矛盾した思いを抱いている。
<――私は実際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れていたのです。その癖あなたが東京にいる頃には、難症だからよく注意しなくっては不可(いけな)いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。或(あるい)は私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかもしれません。
(夏目漱石『こころ』「下 先生の遺書」一)>
「あの電報」は「ちょっと会いたいが来られるか」(中十二)といったもの。
「忘れていた」のだから、普通の意味の矛盾はない。
Ⅰ Pは死にそうな父のために実家にいるべきだ。
Ⅱ Pは死にそうなSのために上京すべきだ。
矛盾めいた考えがあるとすれば、〈Ⅰの物語とⅡの物語に近縁性がある〉と考えねばならない。つまり、PにとってPの父とSが代替可能であるばかりでなく、Sにとっても代替可能だと考えねばならない。Pの父が病んでいることを聞いて、Sは「私が代られれば代って上げても好いが」(上二十一)と言った。SはPの「本当の父」になりたがっているのだ。ただし、それは〈死ぬべき父〉だ。
<この位私の父から信用されたり褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑が(ママ)う事が出来るでしょう。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四)>
「この位」がどの「位」でも構わない。異様な語気が感じられたら十分。「父から信用されたり褒められたりしていた叔父」は、おかしい。「〈兄から「信用されたり褒められたりしていた」自分〉という〈「叔父」の物語〉がないからだ。ここは、〈「父」が信用したり褒めたりしていた「叔父」〉と語るべきだ。しかし、このように語れば、「父」の責任を問うことになりかねない。「私がどうして疑う事ができるでしょう」という質問は、父へ向けられたものだ。ここで語り手Sは亡父に対して恨み言を並べている。勿論、その自覚はない。この「私」は〈成人しても「父」を「疑がう事」ができない「私」〉の略だ。「叔父」に対するSの疑いは、「父」に対する疑いの再発だ。Sが父を本当に信じていたのなら、叔父に対する自分の疑いを疑ったはずだ。不都合でも「叔父」の言いなりになったことだろう。Sが「叔父」を疑ったのは、幼少期から「父」を疑っていたからだ。「叔父」は「父」の代理だ。「父」を疑うことは不孝なので、積年の恨みを「叔父」に向けたわけだ。
Sは誰かの「本当の父」になることによって「父」に復讐しようとした。自覚できない「父」との確執が、不十分な「叔父」との確執を経て、Kとの確執として実現した。
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2550 「主人(あるじ)」
2552 倭文子と静子と静
『こころ』の作者が隠蔽した物語は、次のようなものだろう。
<相手の女性は、かれらの双方に無関心ではなかった。だが、いつまでたっても、はっきりした選択を示さないのだ。かれらはほとんど一時間ごとに、あまいうぬぼれと、胸をかきむしるような嫉妬(しっと)とを、交互に感じなければならなかった。今はもはやこの苦痛に耐えがたくなった。相手が選択しなければ、こちらで決めてしまうほかはない。どちらかが引きさがる? 思いもよらぬことだ。では、決闘だ。昔の騎士のように、いさぎよく命がけの決闘をしようではないか。と、ふたりの恋愛狂人の相談がなりたった。笑えない気違いざたである。
(江戸川乱歩『吸血鬼』)>
相手の女性の名は「倭(し)文子(ずこ)」という。
SとKは、静の前で「いさぎよく命がけ」の対決をすべきだったのだ。ただし、Sの考えでは、〈静が「どちらかを選ぶ」〉という問題は成り立たない。
<日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼ねなく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十四)>
一般論をやって何になろう。「日本人」には当然〈「日本の若い」男〉も含まれる。男であるSも、男女関係において「習慣の奴隷(どれい)」(下十七)だったはずだ。「そんな場合」がどんな場合か、不明。「日本の若い女」は、〈プロポーズをしても握手をしてくれない〉というだけではなかろう。SとKのどちらに対しても、〈ごめんなさい〉さえ言ってくれないらしい。
本文は、次のような真相を隠蔽しているはずだ。
〈「日本人、ことに日本の若い」男である私は、「そんな場合に、相手に気兼ねなく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいもの」だった「のです」〉
江戸川乱歩の最高傑作である『陰獣』の男女関係は異様だ。寒川と春泥(しゅんでい)は静子を取り合う。「しゅんでい」は、中国語の〈兄弟xiongdi〉の洒落か。
春泥は実在しないのかもしれない。春泥の正体は、静子かもしれない。そういう解釈を寒川がしたくなるように、春泥が仕組んでいるのかもしれない。『陰獣』は推理小説の枠を超え、幻想文学の趣を呈している。寒川は二重人格で、春泥は寒川の別人格かもしれない。
Sは、恋敵を必要とした。ところが、その自覚がない。Kは、実在しなかったのかもしれない。彼はSの「もう一人男」かもしれない。Kという男が実在したとしても、下宿にはやって来なかった可能性がある。勿論、そうした解釈を作者が望んでいる様子はない。
『吸血鬼』と『陰獣』は『こころ』の異本みたいだ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2550 「主人(あるじ)」
2553 ナオミズム
Sは三角関係を必要とした。だが、同時に、忌避した。だから、Sは「矛盾な人間」を自認するわけだ。「矛盾」の真意は〈不純〉だろう。
彼は、自分自身の不純な「罪悪」としての欲望を自他に対して隠蔽し、〈「神聖な」「本当の愛」の物語〉を捏造し、その主人公演じようとした。そして、失敗し続けた。
Kを排除せずに「恋」を継続すれば、次のような物語になる。
<主人公河合譲治は(かわいじょうじ)は美少女ナオミを自分の思い通りに教育しようとするが、ナオミは毒々しいまでの美女に変身し、譲治を振り回す。「美しき強者」としての女性とその前に屈する男性という関係を描いた悪魔主義の代表作。大正期のモダニズムがふんだんに取り入れられており、ナオミはモダン・ガールの典型と見なされ「ナオミズム」という流行語まで生まれた。
(『近現代文学事典』「痴人の愛」)>
「ナオミズム」が〈大正の精神〉なら、「明治の精神」は〈マゾヒズムに憧れつつ恐れる「矛盾な人間」の異様な精神〉などと総括できよう。
<女と一所に草の上を歩いて行くと、急に絶壁(きりぎし)の天辺(てっぺん)へ(ママ)出た、その時女が庄太郎に、此(こ)処(こ)から飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗(のぞ)いて見ると、切(きり)岸(ぎし)は見えるが底は見えない。庄太郎は又パナマの帽子を脱(ぬ)いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐(な)められますが好(よ)う御座んすかと聞いた。
(夏目漱石『夢十夜』「第十夜」)>
〈昭和の精神〉だと、エロ・グロ・ナンセンスかな。
<二人の男性からされて、真美はすごく感じちゃった。それから、主人に体をもたれ(ママ)かかりながら、Kの手をピシャッと叩いてはずさせたの。そうするとKが真美のアソコを舐めるにはおすわりして舌だけうんと伸ばすしかないでしょ。奴隷にはその方がふさわしいと思ったのよ。その代り舐めやすいようにもっと股を開いてあげたわ……
(下川耿史『レター・セックスの快楽』)>
Sは、Kを排除するのではなく、「奴隷」にしたかった。自分が「主人(あるじ)」(下十六)になるために、Sは「奴隷」を従属させる必要があった。なぜなら、Sは自分自身をおぞましい「奴隷」として空想していたからだ。静の義務は、Sが「奴隷」ではないことを証明することだった。この仕事に静は失敗した。Kが死んだら元も子もない。
「明治の精神」に確かな意味はない。それは、複数の矛盾した〈自分の物語〉の主人公を演じようとしてしくじり続けながら、しかもそのしくじり具合を明示できない精神状態を、必死で隠蔽しつつも、ちょっとだけ露呈してしまった造語だ。夏目語。
(2550終)
(2500終)
(2000終)

夏目漱石を読むという虚栄
第二章 目次
2000 不純な「矛盾な人間」
寺村輝夫『王さまきえたゆびわ』
2100 冒頭から意味不明
1 「私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた」
「私(わたくし)」は意味不明/「その人」と「常に」/「呼んで」は二股
2 「先生」は意味不明
「先生先生と呼び掛けるので」/「若々しい書生」/「先生先生というのは一体誰の事だい」
3 夏目宗
若者宿/「見付出したのである」/最上級の尊称
4 「此所(ここ)」はどこ?
「ただ先生と書くだけで」/「受け入れる事」/「自分で自分の心臓を破って」
5 「本名は打ち明けない」
「先生」はあだ名/「名もない人」/P的人間
2200 不自然な「自然」
1 第一段落を読む
「世間を憚(はば)かる遠慮」/「筆を執っても心持は同じ事」/「呼び起すごとに」
2 不確かな「記憶」
「記憶のうちから抽(ひ)き抜いて」/夢のような「記憶」/「ところがその晩に」
3 「良心」
「私の自然を損なったのか」/「良心の命令」/「自然」と混乱
4 「私の自然」
「平生」と「自然」/意志系/自然派と写生文
5 「記憶して下さい」
複数の「その人の記憶」/「こんな風に生きて来たのです」/見捨てられそう
2300 「恋は罪悪ですよ」
1 姦通罪
『厭世詩家と女性』/不義はご法度/『みだれ髪』
2 「先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)として」
「冷評(ひやかし)」/「恋の満足」/「黒い長い髪で縛られた時の心持」
3 「恋」
「たとい慾を離れた恋そのものでも」/『ロミオとジュリエット』/『男組』
4 被愛願望
女性崇拝/『罪と罰』/被愛妄想的気分
5 「本当の愛」
「罪悪」かつ「神聖」/『近代の恋愛観』/「信仰に近い愛」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
1 文豪は悪文家
「向上心が」「精神的に」「ない」/立身出世/「精神的に」しか「向上心のないもの」
2 「馬鹿」の含意
「さも軽薄もののように」/「恋の行く手」/「単なる利己心の発現」
3 「馬鹿」と「軽薄」
「人間のどうする事も出来ない持って生れた軽薄」/死刑宣告/文豪は「馬鹿」だった
4 「ぐるぐる」
不合理な二者択一/ドラマティック・アイロニー/「子供扱い」
5 継子いじめ
『弱法師』/母性喪失症候群/『摂州合邦辻』
2500 明示できない精神
1 謎めいた『こころ』
「自由と独立と己れ」と「明治の精神」/「家庭の事情」と「オタンチン、パレオロガス」/『ペ』
2 明治はまだ終わっていない
「天皇に始まり天皇に終わったような気」/死ねば? /ボッチの夢
3 和魂洋才
言文二途/分裂病的/造語
4 「継続中」の「精神」
「どうかこうか生きている」/「外発的」/「不安」
5 「主人(あるじ)」
「父」と「叔父」とK/倭文子と静子と静/ナオミズム
