ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 3310

2021-05-28 23:59:26 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3310 逆説的勧善懲悪主義

3311 『文芸と道徳』

 

イソップの『北風と太陽』から教訓を抽出するのは容易だ。太陽政策が有効。〈北風は旅人を凍え死にさせてから着物を奪った〉という異本も可能だろう。この場合、〈先に太陽が旅人を暖かく照らしたが、旅人は着物を脱がなかった〉という話がなければならない。この話には無理がある。この寓話が有名なのは、「説得は暴力に勝る、という教訓」(『ニッポニカ』「北風と太陽」)が優れているせいではない。話としてわかりやすいからだ。

『猿蟹合戦』に、〈蟹は親の仇の猿を許す〉という異本があるらしい。本来の昔話の後半の主題は孝行だろう。異本の場合、博愛だろう。〈どちらの主題が道徳的に立派か〉ということを問題にしたら、本末転倒だ。〈どちらの物語が合理的か〉という問題を先に解かなければならない。そして、合理的な方の物語の教訓を尊ぶ。さもないと、話がいたずらに難しくなる。たとえば孝行が儒教的徳目で博愛が仏教的徳目だとすると、〈儒教と仏教のどちらが偉いか〉という問題になってしまう。

『こころ』の場合も同様だ。〈親友と争う〉という物語はないから、〈親友と争うのは悪い〉という教訓も抽出できない。〈Sと静とKの三角関係〉という物語はないのだ。この物語は、語られるSの危惧の表出でしかない。

 

<もし活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてよりほかに存在はできないものである、枯れてしまわなければならないのである。人工的にいくら声を嗄(か)らして天下に呼号してもほとんど無益かと考えます。社会が文芸を生むか、または文芸に生まれるかどっちかはしばらく措(お)いて、いやしくも社会の道徳と切っても切れない縁で結びつけられている以上、倫理面に活動するていの文芸はけっして吾人内心の欲する道徳と乖離(かいり)して栄える訳がない。

(夏目漱石『文芸と道徳』)>

 

「活社会」は意味不明。「死文芸」は意味不明。〈「死文芸」として「存在」する〉も意味不明。だから、「存在できないもの」は無意味。Nは混乱している。

「枯れてしまわなければ」というのだから、実際には「枯れて」いないのだろう。

「人工的に」は意味不明。「呼号しても」は、形式的には〈「死文芸」を「呼号しても」〉の略のようだが、常識的には〈「道徳」を「呼号しても」〉だろう。「ほとんど」は笑える。少しは利益があるみたい。だったら、確信犯は諦めまい。

「文芸に生まれる」は意味不明。因果関係が不明の「縁」を、どうやって尊重しよう。「倫理面に活動するてい」は意味不明。「活社会」の住人である「吾人」が内心では異端者である可能性はないのか。「栄える」必要はなく、発禁にならないだけで十分だろう。

Nの「欲する道徳」は、大多数の人々の「欲する道徳」とは違っていた。だからこそ、彼は虚構を利用したはずなのだ。

文芸と道徳にどのような関係があろうと、道徳には確かな意味がなければならない。〈ナンセンス文芸〉はある。だが、〈ナンセンス道徳〉は「存在できないもの」だ。意味不明の文芸作品に道徳を「結び付けられて」は困る。どんな道徳であれ、非常に困る。

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3310 逆説的勧善懲悪主義

3312 『坊っちゃん』

 

『坊っちゃん』は、ひどく誤読されてきた。

 

<田舎の中学に赴任した江戸っ子教師の若い正義感が因襲と衝突するさまを描く。

(『広辞苑』「坊っちゃん」)>

 

「田舎」は間違い。地方都市だ。「正義感」は〈正義漢〉の誤記か。「因習」は誤読。「正義派の江戸っ子教師の痛快な活躍ぶり」(『マイペディア』「坊っちゃん」)なども誤読。語り手の「五分刈り」の口調に騙されているようだ。「歯切れのよい文体と、わかりやすい筋立て」(『ブリタニカ』「坊つちやん」)なんてのも伝説。「筋立て」など、ない。

 

<些細な事柄についてのこのような神経の過敏さ、このような傷つきやすさは、アメリカでは、不良青年の記録や、神経病患者の病歴簿の中で見受けられるだけである。ところが日本では、これが美徳とされている。

(ルース・ベネディクト『菊と刀―日本文化の型―』「第五章 過去と世間に負目を負う者」)>

 

これは「五分刈り」に対する評価だが、まったく正当なものだ。「五分刈り」自身も、「おれは到底(とうてい)人に好かれる性(たち)でない」(『坊っちゃん』一)と認めている。「五分刈り」は嫌われ者なので、変人の清にすがるしかなかった。東京を出て、そのことを思い知るわけだ。

 

<人生観と云(い)ったとて、そんなむずかしいものじゃない。手近な話が、『坊ち(ママ)ゃん』の中の坊ちゃんという人物は或(ある)点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様(よう)な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云うてよいのです。

(夏目漱石『文学談』)>

 

Nは、彼の聞き手に「合点し」てもらいたくて、「生存しにくい人だな」で切っている。正しくは、〈「坊ちやんといふ人物は」「単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人」「であるが、」「或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物」「だな」〉でなければならない。「それ」の指すものはない。

 

<然(しか)もその人生観が間違って居らぬと作者の見識で判断し得たとき、作者は幾分でも文学を以(もっ)て世道(せどう)人心(じんしん)に裨(ひ)益(えき)したのである。勧善懲悪主義を文学上に発揮し得たのである。

(夏目漱石『文学談』)>

 

N的「勧善懲悪主義」とは、〈「社会」で「悪」とされる言動も見方を変えれば「善」になるという「主義」〉のことで、逆説だ。〈勧偽悪・懲偽善〉か。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3310 逆説的勧善懲悪主義

3313 ゲゼルシャフトとゲマインシャフト

 

平成にドラマ化された『坊っちゃん』(フジテレビ)では、「天に代って誅戮(ちゅうりく)を加える夜遊び」(『坊っちゃん』十一)が完全にカットされていた。他にも作り替えは多々あった。

 

<さて小説『坊つちやん』の世界は、この狸校長に胡麻をすって自己の立身出世をはかる、赤シャツやノダが、利益社会の主要なメンバーである。これに対して人格社会には、坊っちゃんと山嵐がある。この二人には利害の打算はない。開放された自由な心魂の交流があるばかりだ。

(宮井一郎『『猫』の周辺』)>

 

「利益社会」は〈ゲゼルシャフト〉の訳語だろう。「誅戮(ちゅうりく)」は、ここでの仕事だ。

 

<成員が各自の利益的関心に基づいてその人格の一部分をもって結合する社会。成員間の関係は表面的には親密に見えても、本質的には疎遠である。大都市・会社・国家など。

(『広辞苑』「ゲゼルシャフト」)>

 

「人格社会」は〈ゲマインシャフト〉の訳語だろう。「夜遊び」は、ここでの仕事だ。

 

<共同社会とも訳す。成員が互いに感情的に融合し、全人格をもって結合する社会。血縁に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市など。

(『広辞苑』「ゲマインシャフト」)>

 

「五分刈り」と「山嵐」の「友愛」は継続したか。不明。

 

<注意すべきは表面的には、そして常識からすれば、校長に善があり、坊っちゃんに悪があるにもかかわらず読者は、その内面の真実を読み透して校長を悪玉、坊っちゃんを善玉と、全く逆な認識をして、しかもそのことにすこしも疑問をもたないことである。つまり読者もいつの間にか作者と共に、利益社会に対峙する人格社会をその魂に溶融しているからである。この微妙な倫理感(ママ)の転換に、やくざの任侠に喝采する活劇などとは、全く異質の近代小説の作用があるのだ。

(宮井一郎『『猫』の周辺』)>

 

「読み透して」は意味不明。「認識」は〈判断〉が適当か。『坊っちゃん』では、〈「誅戮(ちゅうりく)」の物語〉も〈「夜遊び」の物語〉も終わっていない。だから、「五分刈り」はどちらの社会にも属していない。「そのことにすこしも疑問をもたない」のは読み落としなのだ。

「その魂に溶融して」は〈「利益社会」と「人格社会」に二股をかけて〉が適当。「微妙な」は〈奇妙な〉が適当。「倫理感」は意味不明。「弱きをたすけ強きをくじく気性」(『広辞苑』「任侠」)ですらないのなら、正気のサタデー・ナイト・フィーバーだ。

 

(3310終)