夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5220 「第二の世界」
5221 「現世を知らないから」
「第二の世界」は不透明だ。
<第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭(ひげ)を生やしている。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「第二の世界」は知識人の集団のようだ。しかし、これは〈男の「世界」〉だ。「母」の「世界」と「第三の世界」である男女交際の間にある。三四郎は、郷里で同性の友人や先輩がいなかったようだ。語り手は、この種の真相を隠蔽している。「動く」は意味不明。「影」は意味不明。「不精な髭」は〈不精髭〉のことだろうが、きちんとした「髭」でない理由は不明。蛮カラ、つまり、一種のお洒落か。
三四郎の思考あるいは『三四郎』の語り手の語り口は奇妙だ。
<このなかに入(い)るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸(さいわい)である。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気を略(ほぼ)解し得た所にいる。出れば出られる。然し折角解(げ)し掛けた趣味を思い切って捨てるのも残念だ。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「このなか」は「第二の世界」だ。「現世を」は〈「現世」の快楽「を」〉などの不当な略。「現世安穏」(『法華経』・薬草喩品)の皮肉か。「火宅」は、冗談だろうが、意味不明。「我(わ)レ永(なが)ク火宅(くわたく)ヲ離(はな)レテ人間(にんげん)ニ不来(きたら)ズト云(い)ヘドモ、孝養(けうやう)ノ為(ため)ニ強(あながち)ニ来(きたり)テ」(『今昔物語集』巻第十三陽勝修苦行成仙人語第三)と仙人が語る。「第二の世界」は、仙界などではない。なお、仙人でも「現世」に戻ることはある。
「空気」は意味不明。だから、〈「空気を」~「解(かい)し」〉も「解(かい)し得た所」も意味不明。「得た所」は〈「得」る「所」〉が適当なのではないか。「所」は、場所か、時間か。
「出れば」は〈「出」たくな「れば」〉と解釈する。欲望を曖昧にしたいらしい。
「空気」が「趣味」に変わったようだ。〈「趣味を」~「捨てる」〉は意味不明。「第二の世界」の住人は、共同研究者などではないらしい。文系と理系の区別はなく、目的を共有する様子もない。だから、「世界」を形成する意図が不明。「解(げ)し」は「解(かい)し」と同義か。「思い切って」は意味不明。「捨てる」理由は「不幸」だからか。
三四郎は、知的俗物の広田と知的技術者の野々宮と本格的な思想家などを区別することができない。彼が「第二の世界」に参入できたとしても、広田のような教師にしかなれまい。卒業後、帰郷し、「母」と同居し、お光と結婚させられる。だが、作者は、三四郎の将来について、未定と暗示するのだろう。
広田は、苦沙弥の後裔である白井道也のそのまた後裔だ。Sと同様、知識人として成功していないし、成功する見込みもない。一言居士の教師風情に魅力を感じるようでは、三四郎も学者になれまい。そのことに、作者は気づいていないらしい。野々宮は寒月の後裔で、与次郎は迷亭の、美禰子は富子の後裔。ネタの使い廻し。飽き飽きだ。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5220 「第二の世界」
5222 広田式「翻訳」
広田は「第二の世界」の成員らしいが、Sと同様、怪しい人物だ。
<すると、
「君、不二山(ふじさん)を翻訳してみた事がありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄(ママ)壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「すると」は機能していない。これは不図系の言葉だろう。
「不二山(ふじさん)」は、三四郎の内言では「富士山」(『三四郎』四)と表記されている。「質問」をしたのは広田だ。彼の台詞でも、前は「富士山」(『三四郎』四)と表記されていた。不気味。「意外な」は意味不明。これも不図系らしい。「翻訳」は夏目語だろう。
<「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本は矢っ張り人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
(夏目漱石『虞美人草』五)>
「肝胆相照らす」は言葉遊び。「還元的感化」を含め、類語なら、いろいろ、ある。共感。共鳴。同調。同情。以心伝心。つうと言えばかあ。感情移入。気韻生動。テレパシー。類は友を呼ぶ。付和雷同。胸中を察する。意気投合。伝染。気が合う。似た者同士。馬が合う。馬は馬連れ。阿吽の呼吸。相呼応。シンクロニシティ。憑依。一心同体。一体感。
「翻訳とは」の後が不明。広田は、三四郎の質問を無視したようだ。
「人間に化けて」や「面白い」は意味不明。「富士山」と「不二山(ふじさん)」は、「翻訳」しても同じ言葉になるのか。三四郎は、「富士山」について「崇高」(『三四郎』四)という印象を抱いていた。
富士山は霊峰であり、「日本の山岳信仰の代表的なもの」(『日本歴史大辞典』「富士山信仰」)だから、「人間に化けて」はおかしい。〈神「に化けて」〉などが妥当のはず。
<森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表す言葉。
(『百科事典マイぺディア』「八百万の神」)>
広田と三四郎は、富士山という具体的な物に関して、「古代日本」の文化とは異なる「共通の基盤」に立ち、「肝胆相照らす」ような仲になりかけているらしい。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5220 「第二の世界」
5223 「婦人席」
明治三十九年、新渡戸稲造が第一高等学校の校長に就任する。
<どのような人かと講堂に集まった学生たちを前に、新渡戸は語った。
「……いままでの教育はメンタリティすなわち知、モラリティすなわち徳、バイタリティすなわち体、この三つに重点を置いてきたが、それだけでは個としての人間しかできない。これに加えてソシアリティすなわち社交的観念がなくては、全体としての人間は完成しない。いかにすぐれた知徳体を有していても、実社会に適用するものでなければ、価値がない。口先のうまい人になれというのではない。実社会で円満な活動のできる人間に、なってもらいたいのである……」
(星新一『明治の人物誌』「新渡戸稲造」)>
「第二の世界」の成員が新渡戸の方針に沿うのなら、広田など不要だろう。
<籠城(ろうじょう)主義、独善主義の傾向のあった一高に、新風を吹き込んだ。彼はつとめて講演をし、寛大さ、謙虚さ、心のふれあいの必要を説いた。学生たちも大言壮語(たいげんそうご)がへり、禁酒とか思索を重んじるのがふえていった。
(星新一『明治の人物誌』「新渡戸稲造」)>
広田は学生の「籠城(ろうじょう)主義、独善主義の傾向」を諫めるのだろう。また、SはKの「籠城(ろうじょう)主義、独善主義の傾向」を諫めたかったのだろう。話としては簡単なのだ。Nは無理に話を難しくしている。新渡戸の功績を横取りしたかったからか。
<しかし、これを質実剛健の伝統を崩すものと受け取る学生もあり、校長への信、不信をめぐって学内で討論会が開かれた。反対派はこう論じた。
「某新聞は先生を、八方美人と評している。それがソシアリティの本質では困るのだ。運動会の時、婦人のための見物席を作るなど、なにごとであるか……」
(星新一『明治の人物誌』「新渡戸稲造」)>
広田に師事する若者たちの性格は判然としない。
<三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れない事であった。
(夏目漱石『三四郎』六)>
「婦人席」の象徴的意味が不明。戦後の常識だと女性差別の象徴みたいだが、当時としては男女平等の象徴だったろう。「普通の人間」は〈偉くない男〉のこと。
婦人席に近寄る資格を得るために、SやKは「偉くなる積り」だったのかもしれない。
(5220終)