夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5300 BLぽいのが好き
5330 硬派と稚児
5331 ゲイ・バー
1954年、チューリングは「同性愛の「治療」を強いられて服毒自殺をとげた」(『ブリタニカ』「テューリング」)という。『エニグマ』(アプテッド監督)参照。
欧米の映画で仲のいい男二人が出てくると、〈二人はゲイではない〉という暗示がなされる。『最高の人生の見つけ方』(ライナー監督)参照。日本では、男組の成員は「義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい男の世界」(矢野亮・水城一狼作詞・水城一狼作曲『唐獅子牡丹』または水城一狼・佐伯清作詞・菊池俊輔作曲))と、偉そうに歌う。
<日本にゲイバーがどのくらいあるのか、残念ながら、はっきりわからない。東京都内で二百軒ぐらいだろうか。ホモ人口の増加、それになまじっかなバーよりもずっときれいでやさしい女性がいるので、そのテの趣味のない人たちにも好かれて、どの店も盛況のようである。
もともとホモは日本では珍しいことではなく、長い間、けっこう明るくたのしんできたことである。これがヘンタイの最たるもののように白眼視されたのは、明治時代になってからである。ホモたちはネクラにならざるをえなかった。そして今日、ようやく復権しつつある。ケッコウなことである。
(淡野史良『江戸あへあへ草紙』「尻でつかむ一生の安楽 江戸のホモ」)>
ちなみに、〈ジェンダー〉という言葉を用いて文芸作品などについて論じる人がいる。私は、そんな人を私の読者として想定しない。
- <「セックス」と「ジェンダー」の厳密な区別は難しい
しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスとの境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的なものではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法が広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。
(加藤秀一・石田仁・海老原暁子『ジェンダー』)>
この説明そのものが「難しい」のだ。意味不明。
<もっとたくさんの女性がエステやネイルサロン感覚でレズ風俗を利用するようになったらきっと楽しい社会になるはず!
(レズっ娘クラブ代表 御坊*)>
性別を問わず、「風俗」のサービスを性感マッサージとして認めてはどうか。
*『レズ風俗アンソロジー』(秋葉悠司・梅澤佳奈子編)帯紙より。
5000 一も二もない『三四郎』
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5330 硬派と稚児
5332 『稚児之草子』
日本の封建時代の武士や僧侶の間では、ゲイが主流だった。
<詞書で見る限り、別に秘伝書でも指南書でもなく、当時の寺院での稚児と僧侶との交情のありさまを、それも小咄風に五話綴ったものである。その最初の書出しは、「仁和寺の開田の程にや、世おぼえいみじく聞え給(たまう)貴僧おはしましけり。御歳長(たけ)らるまゝに、三蜜の行法の薫修積(つも)りて、験徳ならびなくおはしけれども、なをもこの事をすて給はざりけり」とて、修行を積んだ高僧にしてもこの事(若衆道、男色)ばかりは捨てられないといっている。
この仁和寺の僧と稚児との関係は、当時評判であったらしく、『徒然草』(元徳二年、一三三〇以降)の五十四段にも「(仁和寺の)御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘(さそ)ひ出(いだ)して遊(あそ)ばんと企(たら)む法師どもありて」などと書かれている。それより以前、『古今(ここん)著聞集(ちょもんじゅう)』(建長六年、一二五四)には、鳥羽院の第五皇子で、母が待賢門院であった覚性(かくしょう)法(ほっ)親王(しんのう)(一一二九~一一六九=仁和寺入道)に、千手という寵童がいたことを伝えている。「みめよく心ざまゆふなりけり。笛をふき、今様(いまよう)などうたひければ、御いとをしみ甚しかりける」ゆえ、「たへかねさせ給て(ママ)、千手をいだかせ給て御寝所(ごしんじょ)に入(じゅ)御(ぎょ)ありけり」とのことである。
こうした時代背景のもとで、『稚児之草子』も生まれたわけで、その後の稚児物・男色物の文章や図樣やらの著しい流行のさきがけとなった。
(白倉敬彦「日本最古の男色絵巻 稚児之(ちごの)草子(そうし)」*)>
明治の硬派にとって、稚児や若衆などは自分よりも一段低い存在だったらしい。
<私が中学生だった頃、未だ明治初年頃に地方の上京学生によってもたらされた少年趣味が残っていた。その時分、耳にしたのは、その大旨が伝説か、受け売りを出なかったようである。南方翁も、「攻玉塾のエピソード」として紹介しているが、それは学生が余所の寮か寄宿舎へ遊びに行って「何をごちそうしようか。焼芋がいいか、少年がいいか」と尋ねられ、「少年を」と所望すると、早速、運動場から適当な下級生が引張ってこられて、客といっしょに布団蒸しにされる。暫く布団の下(ママ)でごそごそがあって、客は「どうもごちそう様」と挨拶して帰る例だと云うのだが、少年側に下地がない限り、そんな早業が出来たかどうか甚だ疑問である。しかしこの種の話は何処の中学校でも語り伝えられていたのである。「キミとボクとはやっこらやのや、硯の墨よ喃(ああ)稚児さん、為(す)れば為るほど濃ゆくなる」だの、「好いた二世さんに謎かけられて脱がにゃなるまい半ズボン」だの、これらの例に洩れない。
(稲垣足穂『男色考余談』)>
マゾの「下地」も必要だろう。
こういう話をもっと知りたい人は、〈ストーム〉や〈ジンジロゲ〉で検索しなさい。
*白倉敬彦編『別冊太陽 肉筆春画』所収。
5000 一も二もない『三四郎』
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5330 硬派と稚児
5333 『幸せのポートレート』
軽薄才子は、差別者の烙印を捺されるのが恐ろしいからか、弱者に同情してみせる。だが、そんな偽善的な態度は事態をかえって混乱させてしまう。
『幸せのポートレート』(ベズーチャ監督)では、〈息子をゲイに育てた〉と自慢する母親が登場する。息子を差別から守るための冗談のようだが、実は母親としての責任を問われまいとするための防衛だ。彼女のたちの悪い冗談のせいで、同性愛者ではない子どもたちは自分の生き方を選べなくなった。当のゲイの息子さえ、自信が持てないで育った。この母には、息子とは関係なく、虚勢を張らねばならない理由が別にあった。この一家は、ゲイ不信のコミュ症の女性をいじめる。〈多様性〉という言葉は表現の自由を奪うために用いられる。
<異性愛が「正常」で、同性愛が「異常」だなどというのは、近代以降の社会が作り上げた考え方にすぎないのです。しかも、稚児の場合、単純に同性愛とはいいきれない複雑な問題を抱えているのです。「愛は平等」という近代的な恋愛観に縛られていた人は、「愛のかたち」がさまざまあること、しかしそれは常に対等なものではなく、時には搾取者と被搾取者の関係になりうるということを、心の片隅に刻んでおいて頂きたいと思います。
(田中貴子『性愛の日本中世』「第一章 中世の性愛と稲荷信仰」)>
「近代以降」は〈日本の「近代以降」〉のこと。
<十九世紀のイギリスにおいても、同時期のフランスと同様、そしてまたこれは古今東西、こんにちでもなお変わらないことであるが、同性愛とは社会的混合が現出するきわめつけの場なのである。同性愛者の小世界では、被抑圧少数者の場合にしばしばみられるのとおなじように、階級の違いは殆ど考慮されない。各人は相手の身分を気にかけることなく、快楽を求めるのである。そこで、金持ちの実業家がカフェのボーイとつきあったり、売れっ子の大作家が地位の低い電報配達人と食事をしたり、大学教授が場末の不良少年と寝たり、枢要の地位にある大臣が新聞売り子と関係したりすることになるわけだ。
(モーリス・ルヴェ『オスカー・ワイルド裁判』*)>
『オスカー・ワイルド』(ギルバート監督)参照。
<或(あ)る人問ふ。弥治郎兵衛・喜多八は、原(もと)何者ぞや。答へて曰(いわ)く、何でもなし。弥治唯(ただ)の親仁(おやじ)なり、喜多八これも駿州(すんしゅう)江尻(えじり)の産、尻食(しりくらい)観音(かんのん)の地(じ)尻(じり)にて、生まれたる因縁によりてか、旅役者、花水多羅(はなみずたら)四郎が弟子として、串(かげ)童(ま)となる。されど尻癖(しりくせ)わるく、其所に尻すはらず、尻の仕廻(しまい)は、尻に帆をかけて、弥治に随(したが)ひ出奔(しゅっぽん)し、倶(とも)に戯(たわ)気(け)を尽(つく)す而已(のみ)。
(十返舎一九『東海道中膝栗毛』「累解」)>
どこまでが本気か、作者の意図はよくわからない。だが、弥治喜多を、笑いものにはしても、悪人扱いしている様子はない。
*ジョルジュ・デュビー他『愛とセクシュアリテの歴史』所収。
(5330終)