ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 5340

2021-10-19 23:58:59 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5300 BLぽいのが好き

5340 潜在意識の共有

5341 副次的自我

 

西洋では、「男色や獣姦・少年愛など」(『広辞苑』「ソドミー」)が一緒くたにされていた。

 

<多くの若者たちは自分たちを同性愛者だと信じています。友人という自分の副次的自我を失った深い悲しみのなかにあるとき、彼らには鏡となるような、二重唱を歌えるような相手はもう誰もいません。そして彼らは自分たちが同性愛者ではないかと考えて恐ろしくなるのです。

たとえばある男の子は、自分が女たらしの男性に夢中になっているために、自分を同性愛者と考えるようになるでしょう。若者たちはそういう恐れをあえて誰にも相談しません。しかし作用しているのは、幼年時代に端を発した同性愛の欲動にたいする羞恥心なのです。ところでこの子どもの同性愛は、「エディプス」の衰退期に、情動の面で欠くことのできないものです。それはちょうど、思春期にいたるまで理想化された異性愛が不可欠であるのと同様です。思春期になってはじめて、男の子は現実に女の子が存在することを発見するのです。女の子の場合も同じです。それまで男の子は、たとえば父親の理想化されたものを、最初の友だちに向けていました。彼が友だちのなかにあるものを見ていたことを、その友だちは示すことができるのです。そのあるものが、友だちを実際以上に見せていたわけです。もっとも、同性愛というわけではありませんが。

(フランソワーズ・ドルト『子どもの無意識』「8 思春期について」自殺のファンタスム:理想自我は消えなければならない)>

 

Kは、Sの「副次的自我」だったようだ。ちなみに、〈alter ego〉には〈代役・親友・もう一人の自分〉(『ランダムハウス英和大辞典』より)という三つの意味がある。

 

<おまえのこと 好きだった!! でも、もう おまえとは友だちには なれないんだっ!! おまえがいると、ほかの人と 友だちに なれないのだっ!! おまえは、ぼくが作ったんだっ!!

(楳図かずお『ねがい』)>

 

「おまえ」は人形。性別は不明だが、男だろう。

「ほかの人」は少女。

 

<僕は知りたいのです、自分がだれかを、なにかを、だれかが僕を知っているのを僕は知りたいのです。あなたの返事をほしいと思います。あなたからの手紙がくるまで、僕はいつまでも待とうと思います――手紙をください。

アレン・ギンズバーグ

(ウィリアム・バロウズ+アレン・ギンズバーグ『麻薬書簡』)>

 

ギンズバーグは自分をゲイだと思い込んでいたらしい。

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5300 BLぽいのが好き

5340 潜在意識の共有

5342 「あッ悟った」

 

三四郎は、広田や与次郎の稚児のような存在だった。

 

<詳しいことは他の機会にして、こうして祈禱には行者と験者とがあり、若い験者は行者と同性愛関係があって、それでないと祈禱がうまく進まぬという。女の祈禱師、つまり先生は若い男の助教を連れたがるが、これも同じく性的関係が緊密でないと、うまいこと祈禱が進まぬといい、いわゆる阿吽の息を合わせるには確かに理由もあった。

(赤松啓介『宗教と性の民俗学』「Ⅰ 民間信仰と性の民俗」)>

 

美禰子は、広田と同様、「先生」であり、三四郎は彼女の「助教」候補かもしれない。そう思うと、「禰」の字が怪しげに見えてくる。美禰子のような紅一点は、男にとっての異性として集団に参加しているのではなく、一種の男であり、男たちの同僚なのだ。『ウルトラマン』(TBS)のフジ隊員はマニッシュで、「マドンナ」のようではない。

SはKの稚児だったのだろう。見下されたSは「復讐(ふくしゅう)」の機会を伺っていたようだ。

学生時代のNは稚児だったらしい。

 

<空の澄み切った秋日和(あきびより)などには、能く二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀(へい)越(こし)に差し出た樹の枝から、黄色に染まった小さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色を能く見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。唯秋の空(くう)に動くのを美く(ママ)しいと観ずるより外に能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴として怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はその後から平生(へいぜい)のゆったりした調子で独(ひとり)言(ごと)のように説明した時も、私には一口の挨拶(あいさつ)も出来なかった。

(夏目漱石『硝子戸の中』九)> 

 

「それが」何か、不明。「偶然」かどうか、Nにわかるわけがない。「偶然」から語られる時間が変わる。変だ。「彼」は「O」(『硝子戸の中』九)と呼ばれている。

「黄色に染まった小さい葉」から、Kの墓のある「大きな銀杏(いちょう)」(上五)が連想される。

「空(くう)に動く」は意味不明。〈Oに「能」がある〉という証拠はない。誰が「封じ込め」るのか。「秘密の符徴」は意味不明。〈「符徴として」~「伝える」〉は意味不明。「怪しい」は意味不明。「響」系の言葉は夏目語らしい。

「悟りというものは妙なものだな」で、何かを「説明した」ことになるのだろうか。「妙な」は意味不明。「悟り」も「勝手な話」の一種だろう。「時も」の「も」は唐突。〈「説明した」ことに対して「挨拶(あいさつ)」をする〉というのは意味不明。「挨拶(あいさつ)」は禅語か。

Oは、後にNを訪ねる。『こころ』のKのモデルが自分だと思ったのではないか。Nは、ことあるごとに彼を笑いものにする。親しみの表れのように語るが、「挨拶(あいさつ)」つまり〈仕返し〉だろう。彼の死をさえ願っているようだ。彼を「雪と氷に鎖ざされた北の果に」(『硝子戸の中』十)封じ込めた。Nは自己欺瞞をしている。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5300 BLぽいのが好き

5340 潜在意識の共有

5343 『エンジェル・ウォーズ』

 

青年Nは、友人Oが口にした「悟り」系の言葉の「怪しい響」に魅せられた。Nが弟分だったからだ。「悟り」はOの自分語だったはずだが、それがある程度の効果を上げたのは、Nが弟分だったからだ。このとき、Oの自分語は睦言として成功している。

意味ありげなだけの自分語は、本来、母子関係や性的関係などで、睦言として容認されるものでしかない。ところが、男色文化では、肉体関係のない男同士でも、自分語が睦言として通じる。いや、通じたような錯覚が起きる。このとき、自分語は暴力として働いている。言葉によるイジメだ。言葉の暴力に喜んで屈服するマゾ男が弟分になる。その結果、おかしなことに、兄分までが気分を通じさせたように錯覚してしまうわけだ。

性的関係では、言葉によるやりとりに先立ち、〈二人の世界〉が生じる。言葉はその世界でのみ意味があるように用いられる。また、その世界を維持するために用いられる。

『乙女の祈り』(ジャクソン監督)では、レズビアンの少女が二人きりでいると、風景が変質し、彼女たちにとって都合のいい空間が広がる。綺麗。

『ダイアナの選択』(パールマン監督)は、災害などの生存者が死者に対して抱く後ろめたさ、サバイバーズ・ギルトを主題としている。邦題は『ソフィーの選択』(パクラ監督)を思わせてネタバレと思われているが、もともとは続きがあったのにそれがカットされたみたいだ。偽悪的な少女は、友人の偽善的な行為によって自分が救われたことを悟る。そして、偽善をも善と認める。その瞬間、イエスの犠牲の死を追体験する。

『エンジェル・ウォーズ』(スナイダー監督)では、二人の少女の潜在意識が重なる。スイートピーという少女は〈自分たちは精神病院で役割演技法の治療を受けている〉と思っている。ベイビードールという少女は〈自分たちは妓楼でダンスを習っている〉と思っている。二人は、互いが異なる現実認識をしていることに気づかない。ところが、二人は他の少女たちをも巻き込み、生きのびるために共闘する。

共闘の世界は、彼女たちの〈自分の物語〉のどちらの世界でもない。彼女たちの潜在意識が重なる異次元の戦場だ。

 

  物語         場所 役割

Ⅰ スイートピーの物語  病院 患者

Ⅱ ベイビードールの物語 妓楼 遊女

Ⅲ 少女たちの共闘の物語 戦場 戦士

 

最初、Ⅰの世界が現実のように思える。だが、次第に怪しくなる。たとえば、ここに、Ⅱの世界に属するはずの奇妙な人物が登場するからだ。この人物が実在するのなら、『エンジェル・ウォーズ』はファンタジーだろう。

Ⅱの世界のヒロインであるベイビードールは、ダンサーだ。彼女が踊り出すと、少女たち全員がⅢの世界にワープする。

Ⅲの世界の出来事は、ⅠとⅡに反映する。たとえば、Ⅲにおける戦死者は、ⅠでもⅡでも、その物語の世界にふさわしい死に方をする。

(5340終)


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