夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5230 「第三の世界」
5231 「囚(とら)われちゃいけませんよ」
三四郎にとって、「第二の世界」は「恋に上(のぼ)る階段」かもしれない。
<自分は田舎から出て大学へ(ママ)這入ったばかりである。学問という学問もなければ、見識と云う見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。そう云えば何だか、あの女から馬鹿にされている様でもある。先刻(さっき)、運動会はつまらないから、此処にいると、丘の上で答えた時に、美禰子は真面目な顔をして、この丘には何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかったが、今解釈してみると、故意に自分を愚弄(ぐろう)した言葉かもしれない。――三四郎は気が付いて、今日まで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味が付けられる。三四郎は往来の真中で真赤になって俯(うつ)向(む)いた。不図、顔を上げると向うから、与次郎と昨夕(ゆうべ)の会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪(たて)に振ったぎり黙っている。学生は帽子を脱(と)って礼をしながら、
「昨夜(さくや)は。どうですか。囚(とら)われちゃ不可(いけ)ませんよ」と笑って行き過ぎた。
(夏目漱石『三四郎』六)>
「田舎から出て」に対応するのは〈都会に来た「ばかり」〉だ。「大学へ這入ったばかり」に対応するのは、〈高校か何か「から出て」〉だ。三四郎の〈自分の物語〉の素材は二種あり、一つは「田舎」で、もう一つは「大学」だ。彼は、この二種の物語を混同している。語り手は、混同に気づいてない。作者も気づいていないのだろう。読みづらい。
「学問という学問」や「見識と云う見識」は意味不明。
「尊敬」と〈偏愛〉を三四郎は混同している。
「馬鹿にされている」のは間違いない。だが、「馬鹿」だから好かれないとは限らない。
「運動会はつまらない」と思ったのは、「婦人席」に近づけないからだ。野々宮は「婦人席」に近づけた。ただし、彼は「掛員」(『三四郎』六)で、しかも、「婦人席」に妹がいたせいだろう。三四郎は、「掛員」になるために「学問」や「見識」を必要とするのか。
「愚弄(ぐろう)した」のなら「故意」に決まっているようだが、違うのだ。ややこしい。
「意味が付けられ」は意味不明。
「不図」の後は、三四郎の幻覚みたいだ。この与次郎は三四郎に一瞥も与えなかったようだからだ。「――」のあたりから、三四郎は徐々に正気を失いつつあったらしい。勿論、そういう文芸的表現が試みられているのではない。
この与次郎は、〈君の「演説」に賛同する〉などと言いながら「首」を振っているのだろう。「昨夕(ゆうべ)の会」の「演説の意味」(『三四郎』六)は、私には理解できないのだが、「席に在った学生は悉(ことごと)く喝采(かっさい)した」(『三四郎』六)と語られている。
〈演説をした「学生」は「運動会」でも活躍する〉と、三四郎は思っている。その「学生」と思しき男は「婦人席の方を向いて立って」(『三四郎』六)いた。「学問」や「知識」でなく、体育で秀でるのでも、女に好かれるわけだ。文武両道。
何に「囚(とら)われちゃ」なのか、わからない。『三四郎』を読み終えても、わからない。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5230 「第三の世界」
5232 「主人公であるべき資格」
「三つの世界」は、三題噺のように、偶然に出現したのではない。
<第三の世界は燦(さん)として春の如く盪(うご)いている。電燈がある。銀(ぎん)匙(さじ)がある。歓声がある。笑(しょう)語(ご)がある。泡立つ三(シャン)鞭(パン)の盃がある。そうして凡ての上に冠として美しい女性(にょしょう)がある。三四郎はその女性の一人に口を利いた。一人を二遍見た。この世界は三四郎に取(ママ)って最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点に於(おい)て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへ(ママ)這入らなければ、その世界のどこかに欠陥が出来る様な気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにも拘(かか)わらず、円満の発達を冀(こいねが)うべき筈のこの世界が却って自らを束縛して、自分が自由に出入(しゅつにゅう)すべき通路を塞(ふさ)いでいる。三四郎にはこれが不思議であった。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「第三の世界」は〈男女交際の「世界」〉らしいが、不明。「盪(うご)いて」は意味不明。
「電燈」などはハイカラな小道具で、「田舎」になかったのだろう。
お光は「笑(しょう)語(ご)」が言えなかったか。
「凡ての上に冠として」は意味不明。「美しい女性(にょうしょう)」も小道具の一種らしい。
「その女性の一人」は美禰子だろう。彼女は正体不明だ。最後まで正体不明。
「一人を」は〈その「一人を」〉の略か。
「深厚な世界」は意味不明。
「鼻の先にある」のなら、すでに近付いているはずだから、「近づき難い」というのは無意味。
「天外」には、近付きたくても近付けない。「稲妻」には 近付けても近付きたくない。「近づき難い」が意味不明だから、「一般」は無意味。ただし、「天外」は〈奇想「天外」〉の不当な略で、真意は〈奇想〉なのかもしれない。だったら、悪文。
「遠くから」だって? 「鼻の先にある」のではなかったのか。
「第三の世界」というホテルがあるとしよう。「この世界のどこか」は、ホテルの中にある特別室のようなものだ。その特別室に三四郎が「這入らなければ」ホテル「第三の世界」に「欠陥」が生じる。つまり、特別室がなくなるわけだ。そういうことはある。
「この世界のどこかの主人公」は、言うまでもなく、〈「この世界」の「主人公」〉ではない。特別室の「主人公」だ。三四郎は〈「主人公」の特別室に入る「資格」〉と書かれたチケットを持ってホテルの前に立っている。ところが、ホテルの前には〈三四郎は立入禁止〉という看板が出ている。そのチケットは、三四郎のものではない。
ホテルが「自らを束縛して」いるのではない。「出入(しゅつにゅう)すべき通路」は〈特別室に「出入(しゅつにゅう)すべき通路」〉の不当な略。ホテルの宴会場に、三四郎は紛れ込んだ。だが、特別室にしけこむことはできない。相手がいないからだ。
何の「不思議」もない。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5230 「第三の世界」
5233 白抜きの「主人公」
「第三の世界」は、ありきたりの青年の性的夢想の産物ではない。つまり、この場面の三四郎が顔のない女体をカキノタネにしているわけではない。
<恋慕(れんぼ)の情がはじめて胸に影を落とした。ついに時がめぐって来て、彼女も恋をしたのである。まるで大地にこぼれた種(たね)が、春のぬくもりに芽ぐむように。以前から彼女の想像は、安逸と哀愁にめらめらと燃えあがりながら、運命の糧(かて)に飢えていた。以前から心の悩みが、ういういしい胸を締めつけていた。魂が……誰かしらを待ち受けていた。
今こそ待ったかいがあった。眼は豁然(かつぜん)と開かれた。「これこそ、その人なのだ!」思わず彼女はこう叫んだ。ああ、今や昼も夜も、独り寝の熱い眠りの間(ま)も、たえず彼の面影がみなぎっていた。何もかもが絶え間なく魔法の力で彼のことを、可愛いおとめにささやいていた。
(アレクサンドル=セルゲービチ・プーシキン『オネーギン』「第3章 令嬢」)>
「彼女」はタチヤーナで、「彼」はオネーギン。
三四郎の「第三の世界」は、タチヤーナと三四郎を取り換えただけではできない。「その人」が三四郎だからだ。「あらゆる小説の主人公が、夢見るおとめの眼にはただ一つの姿と映り、ただひとりのオネーギンの姿に溶け入った」(『オネーギン』)とされるオネーギンが「第三の世界」の三四郎に相当する。タチヤーナの思い描くロマンスの世界の「主人公」と三四郎の思い描く「第三の世界」の「主人公」は同類であり、〈女に恋される男〉だ。
タチヤーナの恋愛妄想的ロマンスは単純で、次のように進行する。
〈「おとめ」は「主人公」を愛する。タチヤーナは「主人公」を愛する。「主人公」はオネーギンだ。よって、タチヤーナはオネーギンを愛する〉
三四郎は、女にとっての客体である「主人公」になりたいのだ。ややこしい。
<外は朧の春の宵である。室内は昼を欺く空気ランプの光(ひかり)花(はな)模様(もやう)のカアペットに照り榮(は)えて、純陽(じゅんよう)夏野の如き鮮かな輝(かゞやき)に満たされた中に、テエブルの上の鉢植の匂(にほひ)菫(すみれ)は、ビイルの香(か)や、莨(たばこ)の煙や、嬌(なまめか)しい香水の匂と相蒸(い)熱(き)れて、ストオブの活気に輕(かる)く瞑眩(めんけん)を覺ゆるばかり暖い西洋間。若い才有る女性(によしやう)等(ら)が崇拝の瞳に仰がれながら、我と我が詩想の麗しい幻想を追って空(うつ)とりと夢見るやうな欽哉は飲半(のみさ)しのコップを握つたまゝ、アームチエーァの肘掛に身を靠(もた)せて暫くは辭(ことば)も無い。彼(か)の暁の夢にと唱つた、常世(とこよ)の其の浄楽界を憧れて居るのでもあらうか。
(小栗風葉『靑春』「春之卷」一)>
三四郎の空想する「アームチエーァは空席だ。「若い才有る女性(によしやう)等(ら)」が彼を拒むのではない。合コンの主催者が彼を拒むらしい。その主催者は「母」だろう。 ただし、そうした文芸的表現にはなっていない。作者は混乱している。
野々宮一家と美禰子、三四郎の関係は、『青春』からいただいたものらしい。
(4230終)