夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6310 「意地の強い男で、また意地の弱い男」
6311 自意識
『彼岸過迄』に関する事典の説明は、読解の役に立たないばかりか、邪魔でさえある。
自意識が強く、自我に忠実に生きようとする須永(すなが)は、煩悶(はんもん)の末、苦悩を癒(い)やしに関西に旅立つ。そして、自然を「考えずに観(み)る」ことができる調和的心境に至る。エゴイズムの問題を追究した後期3部作の第1作。
(『近現代文学事典』「彼岸過迄」)
「自意識が強く」や「自我に忠実に」は意味不明。須永の下の名は市蔵という。「苦悩を」は〈「苦悩」を味わい、それ「を」〉の不当な略だろう。
「自然」は怪しい。「「考えずに観(み)る」こと」は「心を一つの対象に集中させて雑念を止め(止)、正しい智慧によって対象を観察すること(観)」(『広辞苑』「止観」)のようだが、「対象」が「自然」だと曖昧。「調和的心境」は意味不明だが、それが穏やかな「心境」なら、「至る」は間違い。須永は「至る」ことを願っただけだ。
「エゴイズムの問題」は意味不明。「後期三部作」は伝説。
「自意識」とは何だろう。
自分自身がどうであるか、どう思われているかについての意識。
(『広辞苑』「自意識」)
「自分自身がどうであるか」は、よくわからない。「どう思われているか」は、〈自分が他人に「どう思われているか」〉の略だろう。だったら、他人に教えてもらおう。自分でわかるのなら、〈自分が他人に「どう思われている」と自分は思う「か」〉の不当な略だろう。「どう思われているか」という問題の答えは「自分自身がどうであるか」という問題に反映しそうだ。たとえば、自画像を描くとき、他人の描いた自分の肖像画を参考にするようなものだ。この説明では、「自意識が強く」は理解できない。
普通には自己の活動や体験、あるいはそれらの自我との関係の意識として現象し、さらに進んでは自己を独自の同一的存在としてとらえるが、それはむしろ自己認識の性格がつよい。自意識は内に向けられたさめた意識であり往々非活動性を招き、病的に高じると孤独感と結びつく。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「自意識」)
「普通」が普通に思えない。用いられている漢語のすべてが、よくわからない。「自我」は意味不明。「意識として現象し」は難しすぎる。「独自の同一的存在」は意味不明。〈「自己を」~「とらえる」〉は意味不明。「それ」の指す言葉が見当たらない。
「内」は意味不明。「さめた意識」は意味不明。「病的に高じる」は意味不明「孤独感」は意味不明。
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6310 「意地の強い男で、また意地の弱い男」
6312 自意識過剰
「自意識が強く」なったら〈自信過剰〉みたいだが、〈自意識過剰〉かもしれない。
意識の中で、いつも自分を中心にすえて考えないわけにいかないような性向の強いこと。特に、欲求不満が起こっている自我意識には、阻止された欲求の意識と、その欲求を阻止されている自我が意識され、さらにそのような状態の中にある自我が意識されるというように、無限に意識が増大していくこと。
(『日本国語大辞典』「自意識過剰」)
珍紛漢紛。「自我意識」について調べてみる。
〔心〕(self‐consciousness)自己について持っている意識。
(『広辞苑』「自我意識」)
「自我意識」は心理学用語らしいが、こんなのは説明になっていない。
〔哲〕(self‐consciousness)自己自身に関する意識。諸体験の統一的・恒常的・自己同一的主体としての自我の意識。自意識。自覚。
(『広辞苑』「自己意識」)
この「自己意識」は哲学用語で、『近現代文学事典』の「自意識」は文芸用語らしい。
一つの英単語が、日本語では別々の言葉になる。日本のインテリゲンチャは縦割りだ。
「自我」を、さっさと始末したい。
心理学における自我egoの概念は、かならずしも明確なものではなく、また多様な意味に使われている。一般には、いろいろなものを感じたり、考えたり、行動したりする自分というものを自覚するが、この意識したり行動したりする自分の主体を自我という。しかし、自我という概念は、このほかにも特定の意味をもつものとして使われている。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「じが self」青木豊)
「特定の意味」の一例。
フロイトの精神分析では、自我(エゴ)を、本能的衝動の充足を要求するイド(エス)と道徳的規範の厳格な遵守を要求する超自我の間に立って人格全体を統合し、現実外界に適応した思考と行動をつかさどるものとした。
(『百科事典マイペディア』「自我」)
フロイト的には、「自我に忠実に」という言葉に意味はなさそうだ。
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6310 「意地の強い男で、また意地の弱い男」
6313 「母が僕を生んでくれた事」
須永は次のように自己紹介する。
こう云っても人には通じないかも知(ママ)れないが、僕は意地の強い男で、又意地の弱い男なのである。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」十三)
「こう」は「僕は」以下を指す。「意地」は須永の自分語だろう。〈「僕は」虚栄心「の強い男で、また」自尊心「の弱い男なのである」〉と誤読できる。須永の物語は二種あり、一つの物語の主人公は「意地の強い男」で、もう一つの物語の主人公は「意地の444弱い男」だ。
僕がこんな煩瑣(くだくだ)しい事を物珍ら(ママ)しそうに報道したら、叔父さんは物(もの)数奇(ずき)だと云って定めし苦笑なさるでしょう。然しこれは旅行の御蔭(おかげ)で僕が改良した証拠なのです。僕は自由な空気と共に往来する事を始(ママ)めて覚えたのです。こんな詰らない話を一々書く面倒を厭(いと)わなくなったのも、つまりは考えずに観(み)るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います。僅(わず)かの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があまり安っぽくて恥ずかしい位です。が、僕は今より十層(じっそう)倍(ばい)も安っぽく母が僕を生んで呉れた事を切望して已(や)まないのです。
(夏目漱石『彼岸過迄』「松本の話」十二)
須永から松本へ送った手紙。この前に、旅先で見聞きした「話」が記されている。
「改良した」ことはしたが、全快したのではない。
「つまりは」の後は「改良した証拠(しょうこ)なのです」といった文言が繰り返されるべきだ。「考えずに観(み)るから」なんて飛躍。全快していない「証拠(しょうこ)」だ。
「母が僕を生んで呉れた事」は仮想。「母」は継母だ。「神経だか性癖だか」は「母」の育て方が悪かったせいに違いないのだが、作者はそっちの方へ話を進めない。
「煩瑣(くだくだ)しい話」を一刀両断すれば、〈「意地の」悪い「男」の「話」〉だろう。
「なある程、それをゴージアン、(ママ)ノットと云うんだね。そうか。その結目(ノット)ををアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
(夏目漱石『虞美人草』三)
意地っ張りの意気地なしなんか、「面倒臭いって」切っちゃう。
なにか古代に関係のあるものらしい。ギリシャ人のネクタイの締め方のことか。
(ギュスターヴ・フロベール『紋切型辞典』「ゴルディオスの結び目」)
「なある程」ね。
(6310終)