夏目漱石を読むという虚栄
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7320 「インチキおじさん」
7321 「そんなの常識」
人に騙されやすい人は、人を騙しがちな人だ。
<「お母さん、助けて!」
息せき切った娘の声が電話口で響いた。どこか声の響きに違和感を覚えたが、なにか異常な事態が起きたらしい。涙声である。
「ど、どうしたの!」
横浜市金沢区に住む横山敏子さん(五二)の声はうわずった。
「実はサラ金からお金を借りたの。そしたら、七万円が十四万円に膨らんじゃって、返せないと、どうなるかわからない」
(取違孝昭『騙す人ダマされる人』「第二章 電話・手紙詐欺」)>
騙されやすい人は「違和感」を押し殺す。自分を騙す。そうやって、善人や才人を演じる。つまり、相手を騙すわけだ。考えてもみよ。もしも、この「娘」が詐欺師ではなく、間違い電話を掛けてきた赤の他人だったら、と。
ちなみに、この本の文庫版のカバーは、Nと福沢諭吉の肖像だ。当時の紙幣だけどね。
文豪伝説の信者は、〈『こころ』は名作〉という「定説」(某教祖の決め台詞〉を疑わない。疑うと、偉い人に嘲られそうな気がするからだ。彼らは利口ぶる。そして、偉い人を騙しにかかる。こうして知識人が誕生する。夏目宗徒は『こころ』に「違和感」を抱いている。だが、反省しない。できない。逆に、「違和感」を隠蔽しにかかる。そのために偉い人を演じる。他人を騙すことで自己欺瞞の不足を補おうと頑張るわけだ。
<なんでもかんでも みんな
おどりをおどっているよ
おなべの中から ボワッと
インチキおじさん 登場
いつだって わすれない
エジソンは えらい人
そんなの常識 タッタタラリラ
(『おどるポンポコリン』作詞・さくらももこ 作曲・織田哲郎)>
原典は『月光仮面』(川内康範作詞・小川寛興作曲)だろう。女の子が暗に知識人を非難している。「なんでも」の一種は言葉。「おどり」は〈おどけ〉の暗示。「おなべの中」は知識の闇汁。「インチキおじさん」は知識人。〈おじさんは悪い人〉と「いつだって わすれない」のだが、少女には本音を口にする勇気はない。「エジソン」は「おじさん」の地口。ちなみに、「そんなの常識」と皮肉に逃げたが、逃げ切れず、苦し紛れに「おどっている」しかない。「インチキおじさん」だって、本当は苦しいんだよね。でも、踊れないから、代りに言葉で「おどっている」んだよね。タッタタラリラ。
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7320 「インチキおじさん」
7322 正体不明の「スタイル」
インチキおじさん、登場。
<漱石の文章が今の私たちにも読みやすいのは、私たちの今の書き言葉が漱石を土台にしてできているからである。ドイツ語は、ルターとゲーテによってその後の思想・文学が花開く土台がつくられた。漱石の作品は、日本語の書き言葉の様式という次元で、決定的な影響を与えつづけてきた。漱石を読んだことがない人の文章にも、漱石のつくった日本語のスタイルは忍び込んでいるのである。
(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>
Nの文章は、「今の」私には読みにくい。小学生の私は『坊っちゃん』を「読みやすい」と思っていた。まったくの誤読。「土台」も、「できている」も、意味不明。
<文章には文語を用いてきたが、明治初期に言文一致運動が起こり、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが話し言葉に近い文章を作品に試みて、その後次第に普及、今日の口語文にいたった。
(『広辞苑』「言文一致」)>
〈言文一致〉について、いくつも辞書を見たが、「漱石」の名前は載っていなかった。「書き言葉」は、言文一致とは関係がないらしい。〈土台〉も調べた。無駄だった。
突然、「ドイツ語」の話になる。「思想・文学が花開く」は意味不明。こんなポエムをやってしまうのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」だろう。指摘するまでもなかろうが、この一文は〈漱石=ルター+ゲーテ〉という虚偽の暗示だ。こけおどし。
再び、突然、「漱石の作品」に話が戻る。「書き言葉の様式」は意味不明。「様式という次元」は意味不明。「決定的な影響」は意味不明。
「スタイル」と「様式」の意味は同じか。同じなら、なぜ、言い換えたか。自説に自信がないからだろう。カタカナ語に弱い日本人を誑かすためだろう。この種の誑かしは「漱石のつくった日本語のスタイル」だろう。いや、近代日本知識人の「スタイル」だ。「忍び込んで」という言葉は、以上の論述がまやかしであることの暴露。何四天王とその追随者たちの「スタイル」は自他を欺瞞するものだ。自分を賢そうに見せかけるために小難しい語句を頻用する。抽象的な語句。奇妙な比喩。唐突な断言。論点のすり替え。
Nの文体は作品ごとに異なる。だから、この「スタイル」は、いわゆる文体ではない。ところが、「漱石の―をまねる」(『明鏡国語辞典』「文体」)という用例がある。困惑。Nは他人の文体をまねるのが得意だった。
齋藤が〈文体〉という言葉を用いないのは、「文体を徹底的に分析していくことによって、作者自身さえ意識していなかった作品の内部構造や思考のさまざまな傾斜などの解明に至る」(『ニッポニカ』「文体」小田切秀雄)といった展開を回避するためだろう。虚偽の暗示をやらかすのも、齋藤の「書き言葉が漱石を土台にしてできているから」なのだ。
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7320 「インチキおじさん」
7323 作り声
『声に出して読みたい日本語』というタイトルの「声に出して」は〈大声を出して〉と〈口に出して〉の混用。斎藤には「声」と〈口〉の区別が付かないらしい。「読みたい」は、〈読みたくなる〉と〈読まねばならない〉の混交。つまり、欲望と義務の混交。彼は混乱している。「日本語」は〈「日本語」の作文〉などであって……。ああ、もう、いい。面倒くさい。
<ここに採録したものは、どれも息の技によって魅力が増すものばかりだ。ただ詠み上げてみてもさしておもしろくはない。息の間(ま)を工夫してリズムや響きを楽しむように工夫することによって魅力が増してくる。
朗誦することによって、その文章やセリフをつくった人の身体のリズムやテンポを、私たちは自分の身体で味わうことができる。それだけでなく、こうした言葉を口ずさんで伝えてきた人々の身体をも引き継ぐことになる。世代や時代を超えた身体と身体とのあいだの文化の伝承が、こうした暗誦・朗誦を通しておこなわれる。
(齋藤孝『声に出して読みたい日本語』)>
意味不明。齋藤はおかしい。この本の企画者、編集者、校閲者はおかしい。こんな本を読んで有難がる連中はおかしい。
齋藤の声はおかしい。作り声だ。それが尖った口から出てくるから、耳障り。
<そこで私は彼女の手から球を取り上げて、私の手の平を丸くして球の形を作り、さ、今度はこれが「かー」の声だ、これをぶつけてごらん、と彼女に手渡した。不思議そうに私を見ていた彼女が、ウンとうなずいてその想像の球を受け取り、大きく足をふみ出した。「かー!」。相手役が思わず胸の前に手を当てて、「来た!」と言う。見ていた人たちから拍手が起こった。もういっぺん。これでキチンとぶつけられるようになった。
さあ、同じように大きく腕を揺すりながら歌ってみよう。手が前へ振り出される時の音を相手にぶつけてゆく。たとえば「かー」とぶつけて退(ひ)いて、「ご」でぶつけて退く、といったふうに。彼女は初め一、二回ちょっとつまずいてやり直したりしたが、ぐんぐんと声が大きく豊かに、ばしんばしんと相手のからだにぶつかってゆくみたいに、重さと力強さが増していった。もう手を振らなくていいから、前足に体重をかけてリズムを取るだけで歌ってごらん、と私がすすめると、彼女の上体はすっとまっすぐに立ち、前後に揺れるままにすてきな輝くような声で歌い始めた。まっ正面でテレビカメラをかまえていたカメラマンが思わず呻(うな)るようにして、片手をあげ、ここへ来る、ここへ来る、とジェスチュアした。
レッスンを終えた後、彼女は、生まれて初めてこんな声で歌った、と言い、私の声ってこんなのですか、という意味の驚きを語った。
(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』「4―声とことばのレッスン」)>
野村萬斎の声、大嫌い。息子の声を、父親はどう思っていたのだろう。
(7320終)