ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

笑うしかない友 ~本当と嘘

2021-08-12 10:25:07 | ジョーク

   笑うしかない友

     ~本当と嘘

え、まじっすか? 

マジェス、何? 

いや、あの、本当ですか。

本当って何でしょう。

今の話ですよ。

そうじゃなくて、「本当」の意味ですよ。

「本当」は本当ですよ。

困りますね。

嘘じゃないってことです。

君は、私のことを嘘吐き呼ばわりするんですか。

いや、そうじゃないんですけど。

じゃあ、私が生まれてこの方、一度も嘘をついたことがないと思うんですか。

そんな人、いませんよ。

何で知ってるんですか。

知らないけど。

じゃあ、君は、今、嘘をついたんですね。

嘘じゃなくて、あの、そう、想像ですよ。

「想像」は「本当」なんですか。

違いますよ。

じゃあ、嘘なんですね。

嘘でもないんですけどね。

今日は疲れたから、もう終わりにします。

で、さっきの話は? 

想像ですよ。

「想像」ってどういうこと? 

ご想像にお任せします。

(終)

 


夏目漱石を読むという虚栄 4340

2021-08-10 23:32:51 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4340 「着想」のみ

4341 「どこへ越しても住みにくい」

 

第二次大戦前の青年は『草枕』を好んだらしい。性的場面と軽薄才子が好みそうな屁理屈が混在しているからだろう。

 

<とかく住みにくい人の世の煩いを逃れ、芸術のための桃源郷を求めて熊本郊外の温泉を訪れた画工が、宿の美しい娘那美(なみ)の妖(あや)しい言動に驚かされるというのが発端。那美は出戻りで、不羈奔放(ふきほんぽう)な魅力に富む女性だが、彼女を画中の人にしようとする画工の苦心を通じて、人の世はものの「見様(みよう)」でどうにでもなる、俗塵(ぞくじん)を離れた心持ちになれる詩こそ真の芸術だという独自の文学観、いわゆる非人情の美学が語られる。しかし、この文学観はのちに作者によって否定された。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「草枕」三好行雄)>

 

「とかく住みにくい」は誤った引用。〈「熊本郊外」に「桃源郷」がある〉という伝説でもあったのか。私は知らない。

「出戻り」は「差別的な語」(『明鏡国語辞典』「出戻り」)だそうだ。

語り手によって「語られる」のであり、作者が語るのではない。

この「作者」は〈作家〉つまりNのことだ。Nは、どうして持論を撤回してしまったのだろう。「非人情」は、客寄せのための宣伝文句だったからだ。『草枕』は枕なのだ。つまり、前置きだ。Nのすべての小説は枕だ。『道草』は、文豪伝説にとって道草だが、N個人にとっては本道だ。『明暗』は枕が長すぎて、本道に差し掛かったところでNが死ぬ。

 

<住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ(ママ)越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯(ただ)の人である。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「安い」は、〈住み易い〉と〈心安い〉などを無理に重ねた言葉。「住みにくい」と思ったから、画工は放浪しているのだろう。「悟った」という体験があるのなら、作品はすでにできているはずだ。「出来る」は〈「出来る」のだろう〉などの誇張だ。

「人の世」の傍点は不可解。『創世記』で「神」に追われて放浪の旅に出たカインが辿りついた「ノド(さすらい)の地」は、彼にとって住みやすかったろう。「鬼」は唐突。〈渡る世間に鬼はない〉とは無関係か。

「やはり」は変。画工は、ご近所さんが「ちらちらする」だけで息苦しくなるらしい。「唯(ただ)の人」は、「神や怪物ではない普通の人」(『広辞苑』「ただびと」)のことだが、「異常な能力や性情などを持たない常人」(『広辞苑』「ただびと」)のことではないらしい。社会を「作った」人はいたろう。彼らが「専門家に対して、一般の人」(『日本国語大事典』「ただの人」)つまり素人であるはずはない。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4340 「着想」のみ

4342 「詩人という天職」

 

語り手の画工は、おかしな話を続ける。

 

<越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「越す事のならぬ世」という話は、唐突。「寛容(くつろげ)て」という語は、Kの「安心」やSの「鷹揚(おうよう)」などの同義語らしい。「命」は〈生涯〉と解釈するが、「命を」の「を」は処理できない。〈人々が自分を受け入れてくれないのなら、自分を変えればいいのだが、自分を変えるのは無理〉という話が抜けている。無理である理由を隠蔽するためだ。

「ここに詩人という天職が出来て」くるのなら、そこに救世主という「天職」も出来てこないのか。「使命」を降す主体は「天」だろう。

「長閑(のどか)」と「人の心を豊かにする」と「寛容(くつろげ)て」の関係が不明。「心配のないさま」(『広辞苑』「のどか」)と「心の満ち足りているさま」(『広辞苑』「ゆたか」)と「安心する」(『広辞苑』「くつろぐ」)が、夏目語ではほぼ同じ意味になるらしい。〈慢心≒安心〉か。

 

<住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、難有(ありがた)い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは(ママ)音楽と彫刻である。こまかに云(い)えば写さないでもよい。只 まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも璆鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起る。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「音楽」の次に出てきそうな〈舞踊〉がない。総合芸術の〈演劇〉もない。

「着想」だけで、作品はない。

この後、大量の難読漢字をモザイクに用いて本音を隠し、改行。気分のことを話題にするうち、色気の話になり、それもすぐに種が尽きたか、食い気に堕して、「……」で、また改行。「余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に」と始める。

 

<ものうい眼が、諦めの甘美な風情ととけ合い、睫毛のこまかくふるえる影が、こんな風に頬にうつりもするだろう。そのとおりだ。そしてそのとおりではないのだ。何が欠けているのか。何でもないものさ。が、この何でもないものがすべてなのだ。

(オノレ=ド・バルザック『知られざる傑作』)>

 

このように語る画家は、後に不定の「すべて」を描ききったつもりになる。

一方、『草枕』の画工は「着想」を模倣するのだろう。

ちなみに『知られざる傑作』を映画化した『美しき諍い女』(リヴェット監督)は駄作。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4340 「着想」のみ

4343 「胸中の画面」

 

漂流を続けてきた『草枕』だが、結末もない。

 

<ある日、元夫と再会した那美さんの顔に「憐れ」を感じ、画を完成させる。

(『近現代文学事典』「草枕」)>

 

嘘だね。「再会した」は〈「再会した」後、別れて、その後、偶然、また再会したが、言葉を交わす暇もなく別れることになった〉などの不当な略。「完成させる」は大間違い。

 

<画家は、この貴婦人と、そが美しき装ひを草々の筆にて描き、ひたすらこの細部のために忍耐を留保せしものの如し。ここに至りて、画家の筆の微に入り細をきはめたるは、この豆人物、天眼鏡を用ゐざれば見るを得ざらしめんがためなり。こは美服をまとへる紅顔可憐の青年なり。ああ、いかばかり彼女は、いとほしく、ほれぼれと、青年の姿に見入ることぞ。

(アンリ・ド・レニエ『水都幻談』「美しき貴婦人」)>

 

那美も、去って行く「元夫」に見入ったようだ。

 

<茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな(ママ)野武士が名残(なご)り惜(おし)気(げ)に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然(ぼうぜん)として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわ)れ」が一面に浮いている。

「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」

と余は那美さんの肩を叩きながら小声に(ママ)云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就(じょうじゅ)したのである。

(夏目漱石『草枕』十三)>

 

「野武士」は比喩。〈那美の物語〉が「成就(じょうじゅ)した」のではない。

那美さんは余の手を邪険に跳ね除けた。その顔から「憐れ」はもう完全に消えている。

「せからしか! 貴様(きさん)、なんばしよっとね。こんだらが」

ぐふっ。非人情がちとすぎたようだ。ボディー・ブローはじわじわと効いてくる。那美さんの拳骨が、しゅっしゅっと余の顔面ぎりぎりで往還していた。芝居ではない。

余は痛む腹を抱えて線路へ飛び降りた。

「あの人、出歯亀よ~」と叫ぶ女の声がする。例によって、ストレス解消の芝居だ。

余が踏切まで漂流してきたときに、余の右足は突然坐りの悪い角石の端をふみ損なった。余の自慢の鼻へ山路が急接近する。そこには柔らかそうな何かがこんもりと置かれてあった。ありがたい。ぐしゃ。それは、ひり出されたばかりの馬糞の山だった。ポワ~ン。

これが本当の(ト鼻をつまんで)くっさあ枕。

 

(4340終)

 

 

 


森の御蔭

2021-08-09 13:41:41 | ジョーク

   森の御蔭

森の御蔭で ドンジャラホイ

トントン 手拍子 足拍子

太鼓叩いて 笛吹いて

今夜もお祭り 夢の国

コービッド参加 揃って賑やかに

アホイホイのドンジャラホイ

(終)

 


夏目漱石を読むという虚栄 4330

2021-08-08 14:35:09 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4330 「非人情」は非自然か

4331 漂流する思考

 

『草枕』の第一段落は次の一個の文だけでできている。

 

<山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

なぜ、「登り」か。「考えた」の主語は、「余(よ)」だ。「こう」は第二段落以下の叙述。

第二段落で知情意の悪文になる。しばらく読み進むと、次のように語られる。

 

<存分食えばあとが不愉快だ。……

余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に、余の右足(うそく)は突然坐(すわ)りのわるい角(かく)石(いし)の端(はし)を踏み損(そ)くなった。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「考えた」と「余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に」は、明らかに矛盾している。「考えた」は〈「考え」てい「た」〉などでなければならない。前の段落の最後が「……」で終わっていることからも、このことは明らかだ。なお、彼の思考は最後まで漂流し続ける。

作者は、語り手に「考(かんがえ)」を纏めさせられなかった。だから、主人公が「考(かんがえ)」を中断できるよう、その足もとに「坐(すわ)りのわるい角(かく)石(いし)」を置いてやった。過去の主人公が見事に「角(かく)石(いし)の端(はし)を踏み損(そ)くなった」ので、現在の語り手は一息つくわけだ。言葉の手品。

 

<あざやかな自然描写と東洋的な人生観、芸術観が示されている。余裕派を標榜(ひょうぼう)した漱石の初期代表作の一つ。

(『百科事典マイペイディア』「草枕」)>

 

Nの「人生観、芸術観が示されている」というのは、伝説。

語り手でもある主人公の「余」は「余裕派を標榜(ひょうぼう)した」画工と言える。だが、実際には余裕なんか、全然ない。羊頭狗肉。『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)の小林マサルと一緒。のびのび、のびのび、のびのび、のびのび……。

 

<正岡子規の写生文に始まり、高浜虚子や夏目漱石によって確立。人生に余裕ある態度で臨み、高踏的に人生を観察する低徊(ていかい)趣味(漱石の造語)の文学。

(『日本史事典』「余裕派」)>

 

「確立」は意味不明。〈「人生に」~「臨み」〉は意味不明。

この文芸用語は、「主として自然主義を中心とする文壇からやや嘲弄的に使用された」(『日本国語大辞典』「余裕派」)という。これには「反自然主義の立場」(『近現代文学事典』「余裕派」)といった程度の意味しかない。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4330 「非人情」は非自然か

4332 「神経が過敏なのかも」

 

辞書には、しばしば例文として文芸作品から引用されている。だが、不適切な場合もある。なぜなら、文芸作品に用いられた語句は、それが印象的であればあるほど、日常的な用い方と違っているものだからだ。〈自分語かも?〉と疑うべきだ。

 

  • <人情のないこと。人に冷たいこと。思いやりのないこと。
  • (「不人情」と区別して)人情から超然として、それにわずらわされないこと。夏目漱石、草枕「不人情ぢゃありません、―な惚れ方をするんです」。「―に眺める」

(『広辞苑』「非人情」)>

 

「非人情な惚れ方」という言葉が②の意味で理解できるか。私にはできない。しかも、この辞書の説明だと、②の「非人情」は〈超俗〉などが適当のように思われる。

 

<西洋の詩は無論の事、支那(シナ)の詩にも、よく万斛(ばんこく)の愁(うれい)などと云(ママ)う字がある。詩人だから万斛で素人(しろうと)なら一合(ごう)で済むかも知(ママ)れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨(ぼんこつ)の倍以上に神経が鋭敏なのかも知(ママ)れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲(かなしみ)も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「西洋」と「支那(シナ)」を並べるのはナンセンス。

「神経が鋭敏」は怪しい。語り手の「余」は、〈語られる「余」は「神経が鋭敏」ではない〉と暗示している。〈「神経」過敏ではない〉という虚偽の暗示をしているのだ。

「超俗の喜び」について、語り手は経験済みだろうか。「超俗の喜び」とは、〈躁鬱〉の〈躁〉のことだろう。「無量の悲(かなしみ)」は、躁の反動として味わう〈鬱〉のことだろう。語り手は語られる自分の精神状態を隠蔽している。

〈人情〉は「自然」(『広辞苑』「人情」)だ。では、「非人情」は〈非自然〉か。

 

<あの女は家のなかで、常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。

(夏目漱石『草枕』十二)>

 

「あの女」は那美。同棲していないのに「常住」とわかるわけがない。

読心術者でもないのに「気がつかん」とわかるわけがない。

「自然天然に芝居をしている」はどういう冗談だろう。「芝居」をしないのが〈非「自然」〉で、つまり「非人情」か。〈テクニカラー〉を〈天然色〉と訳すような感じか。

少し後で、「あの女の所作(しょさ)を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日も居たたまれん」(『草枕』十二)と修正。「芝居」が「薄気味がわるく」感じられるのなら、那美は尼神インターの誠子が演じるかわいそうな女たちの同類だろう。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4330 「非人情」は非自然か

4333 「芝居」と「技巧」

 

那美の「芝居」は、三千子や静の「技巧」の同義語だろう。だが、それは男の誤解かもしれない。女は、幼時期から他人を誘うような態度を示すものだ。

 

<過度な情緒性と人の注意を引こうとすることが特徴で、具体的には注目の的でないと楽しくないとか、過度なほど性的に誘惑的、挑戦的な対人交流などが挙げられる。

(『精神科ポケット事典[新訂版]』「演技性パーソナリティ障害〔演技性人格障害〕」)>

 

那美の意味不明の言動が「芝居」なら、画工の「非人情」論も「芝居」だろう。

 

<わたしは、虚栄心の強い者たちがすべて、よい俳優であるのを見いだした。虚栄心の強い者たちは演技し、そして、自分たちが人々から喜んで見物されることを欲する、――彼らの全精神がこの意欲にこめられているのだ。

(フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』「第二部〔21〕人間と交わるための賢さについて」)>

 

主人公の画工には、那美が実際に「芝居」をしているのか、どうか、わからない。いや、わかりたくない。なぜなら、彼自身がのびのびキャラを演じているからだ。他人の演技を認めることは、同時に自分の演技をも認めることになりかねない。作者も文学者を演じている。

『天使のはらわた』(石井隆)の土屋名美は、名美を演じている。名美を演じない名美は、名美ではない。名美を演じきれなくなったとき、名美は男の前から消える。

 

<名美か? 名美だな? 今どこなんだ 話し合おうじゃないか? どこなの? ヤケになって バカな事 やってんじゃないだろうな? 女と男は違うんだからね バカしちゃ モシモシ! 名美! モシモシ! 名美! どこなの!? 

(石井隆『シングルベッド』)>

 

男たちは名美を探し続けている。その間だけ、男たちはやっと生きていられる。名美は、男たちのために名美を演じてくれる。名美とは、そういう女だ。名美を演じきれなくなったとき、彼女は男の前から消える。『グラディーヴァ あるポンペイの幻想小説』(イェンゼン)参照。

男が女を愛するとき、女の嘘をも愛する。『昼下がりの情事』(ワイルダー監督)参照。

 

<だれかうまい嘘のつける相手 探すのよ

(千家和也作詞・浜圭介作曲『そして神戸』)>

 

Nの小説に出てくる男たちは、自分の被愛願望を自覚できず、それを女性に擦り付けて非難する。女たちは何者でもない。つまり、いないのも同然なのだ。彼女たちに性的魅力はない。女装した男たちだからだ。那美は女装した「余」だ。

*GO TO ミットソン『漫画の思い出』石井隆 志村太郎の「ミットソン」- 漫画の思い出:著者別「い」 (wakwak.com)

 

(4330終)