ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 4320

2021-08-07 13:33:44 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4320 ウケ狙いの名文もどき

4321 「屁をいくつ、ひった」

 

『悪文』という本に、次のような悪文が収録されている。

 

<“文章の音感”というのは、いわゆる美文調や、伝統的五七調・七五調などを言うのではない。それに、よく言われるとおり、文章の律動感に酔って表現内容を貧弱にしてしまうことは、十分警戒しなければならない。けれども一方、文章の音感を持たない名文はない、と言っても言いすぎではないであろう。文の長短・構造の繁簡など、適宜に織りまぜたいろどりがなければ、文章という織物を、光彩あるものとすることはできにくい。一つ一つの文そのものが持っている律動と、それらの連続が生みだす文章としての律動と、その二つが、ここに言う“文章の音感”をつくり出す。例をあげよう。

(岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』「文の切りつなぎ」「歯切れのよい文章」)>

 

「文章の音感」は、勿論、意味不明。これに関する説明も意味不明。

『悪文』では、こうした「名文」の「例」として『草枕』の冒頭の部分が挙げてある。

 

<世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴(やつ)で埋(うずま)っている。元来何しに世の中へ(ママ)面(つら)を曝(さら)しているんだか、解(げ)しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以(もっ)て、さも名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀(しり)に探偵をつけて、人のひる屁(へ)の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ(ママ)出て来て、御前(おまえ)は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば猶々(なおなお)云う。よせと云えば益(ますます)云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々(にんにん)勝手である。只ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼義(ママ)だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのを以て、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。

(夏目漱石『草枕』十一)>

 

冒頭の知情意論の真意は、この程度のこと。語り手は「屁」の具体例を隠蔽している。「探偵(たんてい)」はDだ。〈D〉は〈detective〉の頭文字。「屁」は〈SのK殺し〉に相当する。

 

<ああ、だまりなさい、小人物よ。二種類のひびきがある。山の頂きをめぐる嵐のさけび声と、――あなたのおならだ。あなたはおならだ。しかしあなたはすみれのにおいがすると信じている。

(ウィルヘルム・ライヒ『きけ、小人物よ!』14)>

 

『草枕』の「音感」は、「運の尽き」ならぬ、うんこ付きの「屁」だろう。

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4320 ウケ狙いの名文もどき

4322 「探偵(たんてい)」はいない

 

次の文章は『草枕』の冒頭よりもいい出来だと、私は思う。

 

<大方の世間の人が、一生懸命、額に汗をして田を耕す、荷物を運ぶ、自動車を造る、書類を書く、上司や得意先に理不尽なことを言われ、立場上、反論はできない、きりきり痛む胃のあたりを押さえながら愛想を言う、などして働いている。将(まさ)にそのとき、エンターテイナーは、へらへら冗談を言う。腰を振って踊り狂う、高歌放吟する、酒を飲む、麻薬を吸う、などして遊んでいるのだ。彼我の差を見れば、仮に人間が百人居たとして、その百人に、君はエンターテイナイーと普通の働き奴(ど)とどっちになりたい? と訊(き)いたら、百人が百人、口を揃(そろ)えて、エンターテイナーと答えるに決まっている。エンターテイナーはそれぐらい素敵な職業であるのである。

しかしながらみんながみんなエンターテイナーになってしまっては国が立ちゆかないので、子供には家庭で学校で、アリとキリギリスの話をするなどして、ともすればエンターテイナーを目指そうとする子供に、そういう面白おかしい生活は人間としてはおろか、昆虫としても間違っているのだ、という教育を施し、一丸となって、子供のエンターテイナー化を防止してきたのだけれども、それがこのところおかしくなってきた。

(町田康『ロックの泥水』)>

 

この語り手は、「乞食歌手」と自己紹介する。だが、紹介されるまでもなく、彼の与太話が自嘲自虐の表現であることは、誰にでも察せらるはずだ。

一方、『草枕』の語り手は聞き手を翻弄している。彼は、自分の「屁」や「運」について隠蔽している。しかも、「探偵(たんてい)」が比喩でないことも隠蔽している。

 

<「私もまだよく判らないんですよぉー」

垂れ目メイクは完璧、香水はジル・スチュアートのオーデコロン、お洋服は不本意ながら男ウケだけを狙った、総レースの白いAラインミニワンピース(化繊)に、鞄はピンクのサマンサ。せめて自我を保つために靴下だけはアンティパスト。ファッション誌『C.C』に配属された同期の女子社員が催した本気モード合コンの場で、悦子は「モテ子コスプレ」をしている自分に対する羞恥心とひたすら戦っていた。

(宮木あや子『校閲ガール』「第二話 校閲ガールと編集ウーマン」)>

 

『草枕』の「智(ち)」などの単語は、「自我を保つために」用いられる「アンティパスト」などと同様のオシャレなのだ。違うのは、『草枕』では「自分」との戦いが表現されていない点だ。悦子の欲望は鮮明だから、その不満も鮮明だ。一方、『道草』の画工の希望は不鮮明だから、その不満や恐怖もぼんやりとしている。

画工の語りは「男ウケだけを狙った」名文もどきなのだ。『草枕』の語り手が聞き手として想定しているのは男だ。しかも、教養を鼻にかける軽薄才子だ。悩みさえ自慢の種。そうしたことを作者は隠蔽している。だから、意味不明になった。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4320 ウケ狙いの名文もどき

4323 「屁」のような「罪」

 

『草枕』の冒頭において、語り手は〈「屁」の物語〉を美化しようとして失敗した。しかし、聞き手として想定される悩める軽薄才子の男どもは、その失敗に目をつぶってやる。なぜなら、彼らも自分なりの〈「屁」の物語〉を美化したいからだ。作者は、日本人の共有する〈「屁」の物語〉をちらつかせて読者を翻弄する。「屁」を言い換えると、「自分に対する羞恥心」みたいなことになる。

画工は「探偵(たんてい)」に恥をかかされるので怒っている。〈「屁」の物語〉は、いわば狂騒的なものだが、これを陰鬱に語ると、Sの〈「罪」の物語〉になる。

 

<私はその時さぞKが軽蔑(けいべつ)している事だろうと思って、一人で顔を赧(あか)らめました。然し今更Kの前に出て、耻(はじ)を掻(か)かせられるのは、私の自尊心にとって大いなる苦痛でした。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)>

 

Kは、Sにとって「探偵」だった。Pも「探偵」だ。Sは「探偵」から逃げるために死を夢見る。Sは、〈「耻(はじ)」の物語〉を隠蔽するために〈「罪」の物語〉を捏造したわけだ。

『こころ』の読者は、Sの「罪」が〈「屁」のような「耻(はじ)」〉であることを感得しながらも、そのことを意識にのぼらせないように心掛けなければならない。

 

<私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月(まいげつ)行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭(むちう)たれたいとまで思った事もあります。こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可(べ)きだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだという考(ママ)が起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十四)>

 

「ただ」は宙に浮いている。「人間の罪というもの」は意味不明。いつの間にか、Sの犯した個別の「罪」が話題ではなくなってしまった。『草枕』の画工は、自分に特有の「屁」について、具体的に語らなかった。Sも「罪」を具体的に語っていない。Sの「罪」を〈Kの死に関わる罪悪感〉などと解釈するのは誤読だ。Sは「耻(はじ)」によって苦しんでいる。死んだKに対して雪辱を果たすことは不可能だからだ。

「その感じ」とは羞恥だが、ただし、それを言葉にするのも苦痛であるような羞恥だ。

Sは、墓参りや姑の介護や妻への労わりを喜んでやっているわけではない。通行人が鞭打ってくれたとしても、自分で鞭打つ方が痛みは軽かろう。自分を鞭打つより、「死んだ気で生きていこう」と思う方がもっと楽だろう。

「こうした階段を段々」に楽な方へ移って振出しに戻る。これが「ぐるぐる」と呼ばれる実在しえない〈悪魔の階段〉だ。エッシャーの絵のような錯覚。『インセプション』(ノーラン監督)参照。

 

(4320終)


夏目漱石を読むという虚栄 4310

2021-08-06 22:44:03 | 評論

  夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4310 ばらける知情意

4311 「智(ち)に働けば角(かど)が立つ」

 

Nに関して日本人が共有しているのは〈Nは文豪だ〉という伝説だけだろう。〈文豪〉とは「特に優れた作品を多く残した偉大な作家」(『類語例解辞典』616-49)のことで、その例として、日本人の作家では真っ先にNの名が挙がる。だから、〈Nは文豪ではない〉という文は無意味に近い。「優れた作品」の具体例は、勿論、Nの作品ということだ。堂々巡り。

Nの名文として最も有名なのは、『草枕』の冒頭だろう。だが、意味不明。

 

<智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

(夏目漱石『草枕』一)>

 

「智(ち)に働けば角(かど)が立つ」というのは重複。「角が立つ」自体に、「智に働けば」といった意味が含まれているからだ。

 

<理屈っぽい言い方や堅苦しい態度をして、物事がおだやかでなくなる。

(『日本国語大辞典』「かどが立つ」)>

 

「智(ち)」の文に関する辞書の説明は、少しずつ違う。しかも、意味不明。

 

<「理知だけで割り切っていると他人と衝突する」(『大辞泉』)>

<「理知的に動こうとすれば人間関係がぎすぎすして穏やかに暮らしづらくなる」(『明鏡 ことわざ成句使い方辞典』)>

<「理知的に動けば他人との間に角が立って穏やかに暮らせなくなる」(『故事ことわざ・慣用句辞典』)>

<「世の中というものは、理知的な判断だけで動こうとすると他人と摩擦を起こすことになる」(『成語林』)>

<「あまり理知的に対応すると、人間関係はぎくしゃくしてしまうものだ」(『会話・スピーチで使える! 場面別ことわざ・名言・四字熟語』「智(ち)に働(はたら)けば角(かど)が立(た)つ」)>

 

『大辞泉』は処置なし。

『明鏡ことわざ』の「理知的に動こう」は意味不明。また、「動こうとすれば」だから、まだ動いていないわけで、その段階では何も起こりようがない。無意味だ。

『故事ことわざ』の「角が立って」は禁じ手を使っている。

『成語林』も「動こう」としている段階だから、無意味。

『会話・スピーチで』の「あまり」は「働けば」の先取りか。

「智(ち)に」について、これらの辞典は全部、〈「智(ち)」が〉と誤読している。『草枕』の語り手は〈「智(ち)」が〉のつもりかもしれないが、その場合、この文は悪文と判定すべきだ。

Nは悪文家なのだ。

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4310 ばらける知情意

4312 「情(じょう)に棹(さお)させば流される」

 

「情(じょう)」の文の「掉させば」は、わかりにくい。

 

<「掉さす」という語が本来は〈舟を流れと同じ方向に進める〉という意味であったのが、いまは〈流れに逆行ことわする〉という意味に使われていることは広く知られていて、国語辞典も『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』はいちおう「誤って」とはしながらも記載している。『新潮現代国語辞典』では「誤って」とも書かず、単に「(近時の用法)流れに逆らう」となっている。この意味では漱石の『草枕』の冒頭の「情に棹させば流される」が正しく読めないではないかと息巻いてみても、時代の流れに抗するのは難しい。

(国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典』「第一部 意味の誤用」「棹さす」)>

 

『草枕』が「正しく読めない」から「時代の流れ」が生じたのではないか。

 

<「他人の感情を気遣っていると、自分の足元をすくわれる」(『大辞泉』)>

<「人情に従えばその場の状況に流されて足もとをすくわれる」(『明鏡 ことわざ成句使い方辞典』)>

<「感情に走って世間を渡れば思わぬところに行ってしまう」(『故事ことわざ・慣用句辞典』)>

<「人情だけを大切に考えると他人の気持ちに引きずられてしまう」(『成語林』)>

<「感情に身をゆだねると物事が流されてしまう」(『会話・スピーチで使える! 場面別ことわざ・名言・四字熟語』「智(ち)に働(はたら)けば角(かど)が立(た)つ」)>

 

『大辞泉』の「他人」は、どこから現れたのか。「足元をすくわれる」は、よくある間違い。〈「気遣っていると」~「すくわれる」〉は無意味。ひどい辞書だ。

『明鏡ことわざ』は日本語になっていない。

『故事ことわざ』の「感情に走って」が正しい。ただし、「思わぬところ」は曖昧。「思わぬ良い結果となった」(『自然科学系和英大辞典』「思わぬ」)という例がある。

『成語林』の「人情だけ」の「だけ」は変。この「他人」も、『大辞泉』と同様の誤り。

『会話・スピーチで』の「身をゆだねる」はいいが、「物事が流されしまう」が意味不明。

『故事ことわざ』と『会話・スピーチで』以外の辞書は、まったくの見当違いだ。なぜなら、「情(じょう)」は、「智(ち)」や「意地」と同じく、当人のものと解釈すべきだからだ。

ちなみに、『風雲! 大歴史実験!』(NHKBS)の「源平壇ノ浦の戦い」や『歴史科学捜査班』(BSイレブン)の「壇ノ浦の戦い」などで、〈「門司((も)じ)・赤間(あかま)・壇(だん)の浦(うら)はたぎ(ッ)ておつる塩(しほ)なれば、源氏(げんじ)の舟(ふね)は塩(しほ)にむかふて、心(こゝろ)ならずを((押))しお((落)と())さる。平家(へいけ)の船(ふね)は塩(しほ)にお((逢))うてぞい((出))でき((来))たる」(『平家物語』巻第十一)というのは嘘でした〉みたいな実験をやっていた。操船とは無関係の実験だ。海戦は、競艇ではない。〈流れに棹さすのは損でも得でもない〉というのなら、「逆櫓(さかろ)」(『平家物語』巻第十一)の工夫も無駄だったわけだ。「熟(ニキ)田津(タツ)に船乗(フナノリ)せむと月待てば 潮(シホ)も適(カナ)ひぬ今は漕(コ)ぎ出(イ)でな」(『万葉集』1・8)も空想の産物か。

*付記 参考 『歴史探偵』(NHK)「源平合戦 檀の浦の戦い」

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4300 臭い『草枕』

4310 ばらける知情意

4313 「意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ」

 

「意地」という言葉は突然出てくる。ここは〈意〉であるべきだ。語り手は怪しい。

「意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ」を「自分の意地を通せば何かと不自由する」(『故事ことわざ』)と言い換えて、どうにかなるのだろうか。ならない。ちなみに、「かたくなに自分の思いを押し通そうとする」(『明鏡国語辞典』「意地を通す」)というのは変。「通す」を「通そうとする」にすり替えている。〈意地〉は「その気持ちを潔しとして使われることが多い」(『明鏡ことわざ』「意地を通す」)という。「自分の信念を曲げまいと意地を通せば、がんじがらめになる」(『会話・スピーチで』)は意味不明。なお、「「意地を張る」はしばしばマイナスの評価が伴う」(『明鏡ことわざ』「意地を通す」)という。

 

<祖母は、九十を過ぎても人の世話にはならないと意地を通して一人暮らしを続けた。

(『故事ことわざ・慣用句辞典』「意地を通す」)>

 

好きでやっているのに、「窮屈(きゅうくつ)」とはどういうことか。

 

<狭かったり、堅苦しかったりして、思うように動けないこと。心身の自由を束縛されること。また、気づまりに感じること。また、そのさま。

(『日本国語大辞典』「窮屈」)>

 

この説明の例として『草枕』の三文が引用されている。だが、この説明で「意地」の文は理解できない。「束縛されること」だと、本文の場合、束縛する主体が不明。

 

<周囲や相手に気がねをして、心がのびのびしないこと。窮屈に感じること。

(『日本国語大辞典』「気詰」)>

 

〈「意地を通せば」「気がね」する〉なんて、無意味だろう。

「とかくに」は、〈と、このように〉という意味ではなく、「何にせよ」(『広辞苑』「とかく」)という意味だろう。前の三文は「人の世は住みにくい」という感慨の原因を語るのではない。

 

自画自賛 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。 「私の論理(ロジック)」(下九) 〈屁理屈〉

自暴自棄 情(じょう)に棹(さお)させば流される。 「強烈な一念」(下三十二) 〈やけくそ〉

自縄自縛 意地を通せば窮屈だ。 「精神的に癇性」(上三十二) 〈やせ我慢〉

自業自得 とかくに人の世は住みにくい。 「ぐたり」(下五十五) 〈いじけ〉

 

四つに共通するのは自作自演だろう。足りないのは、自問自答と自由自在だろう。

知情意は心を三分割したものだ。ばらけたままなら、しくじるのは当然。「「智(ち)・情・意」の三者が各々権衡(けんこう)を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろう」(渋沢栄一『論語と算盤』「常識と習慣」「常識とは如何なるものか」)という。「智(ち)」が作者には働かないようだ。

(4310終)