ヒルネボウ

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『冬のソナタ』を読む 「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31)4 雪の妖精

2022-02-20 23:48:52 | 評論

   『冬のソナタ』を読む

       「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31)

     4 雪の妖精

 

チェリンはユジンの恋敵だ。だから、天使だ。しかし、ではない。

 

忙しいユジンのために、来年あたりに式を挙げるつもりだとの返事を得たチェリンは、満足げな仕草でユジンに歩み寄り、ウエディングドレスは自分がデザインしてあげると言った。

(上p27)

 

チェリンはユジンの結婚を祝福している。夫が誰であれ。

チェリンの意地悪は、キューピッドの矢のように、ユジンに刺さる。

 

ジュンサンの姿を燃やしながら、二度と思い出すまいと決心したのに、実際に眼に見える人間として現われたのだ。燃える炎の中で生き残った、決して燃えることのない人間として。

(上p27-8)

 

チュンサンが燃えなければ、ミニョンは現われなかった。

ユジンが記憶の中の「ジュンサンの姿」に拘っていたら、「実際に眼に見える人間」との僅かな違いを決定的な違いと思ったことだろう。ミニョンをチュンサンと混同することはなかったろう。

なぜ、彼は「決して燃えることのない人間」なのか。雪の妖精だからだ。

 

ユジンは思い出したかのように欠片(ピース)をポケットから取り出して、空いている場所にはめこんだ。ユジンはあの日と同じ服を着ていたのだ。

ユジンが完成したパズルを眺めていると、ドアが開く音が聞こえた。

(上p31)

 

〈ミニョンの物語〉に「欠片(ピース)」が現われた。ユジンが現われた。

「あの日」には、ユジンとサンヒョクとの「婚約パーティ」(上p16)が開かれる予定だった。

「ドアが開く音」は、本当の「婚約パーティ」が開かれる合図だ。

(「記憶の欠片(ピース)」終)


夏目漱石を読むという虚栄 6240

2022-02-17 13:54:50 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6200 門外漢の『門』

6240 『門』と『道草』

6241 破れ鍋に綴じ蓋

 

『門』は、〈御米と宗助は愛しあっていながら、過去のことを気に病んで幸せになれない〉と総括できる。だが、常識的には、〈二人が幸せになれないのは愛しあっていないからで、その事実を否認するために過去のことに拘泥して無駄に苦しんで現実逃避をしている〉と推測できる。この推測を否定できる証拠は見当たらない。

 

<小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。

(夏目漱石『門』二十三)>

 

「小康」だから、「事」は処理できていない。〈「小康は」~「落ちた」〉は意味不明。

この語り手は、昔話の語り手に似ている。〈王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさ〉といった伝聞の調子が感じられるわけだ。「かくして」の真意は〈隠して〉かな。

作者は、〈御米と宗助は、破れ鍋に綴じ蓋で、それなりに幸せになりましたとさ〉と暗示するのか。逆に、〈悪い男女は死ぬまで苦しみ続けることでしょう〉と暗示するのか。

 

<若い方が、今朝始(ママ)めて鶯(うぐいす)の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。

「まだ鳴きはじめだから下手だね」

「ええ、まだ充分には舌が回りません」

(夏目漱石『門』二十三)>

 

「若い方」が悟りかけていて、「坊さん」が少し悟っている。宗助は、「若い方」と「坊さん」の間か。「小康」で満足か。「若い方」には悟る可能性がありそうだが、宗助にはなさそうだ。だったら、「宗助」という文字を〈宗教によって助かる〉と読むのは間違いだ。企画倒れか。

 

<宗助は家(うち)へ(ママ)帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子(ガラス)に映る麗(うらら)かな日影をすかして見て、

「本当に難有(ありがた)いわね。漸(ようや)くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉(まゆ)を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪(つめ)を剪(き)りながら、

「うん、然(しか)し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。

(夏目漱石『門』二十三)>

 

宗助が「この鶯の問答」を御米に聞かせたのは、「夫婦」の「小康」を暗示するためだ。しかし、彼女は、〈夫の精神状態を案じる必要がなくなった〉と解釈したはずだ。その種のことを、語り手は隠蔽している。作者の意図は不明。

「冬」つまり「事」は「又じき」やってくる。でも、どこから? 

で、おしまい。やれやれ。

 

6000 『それから』から『道草』まで

6200 門外漢の『門』

6240 『門』と『道草』

6242 『道草』の原型

 

『門』の終わりと『道草』の終わりは似ている。

 

<「まあ好かった。あの人だけはこれで片が付いて」

細君は安心したと云わぬばりの表情を見せた。

「何が片付いたって」

「でも、ああして証文を取って置(ママ)けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」

「だけど、ああして書いたものを此方(こっち)の手に入れて置(ママ)くと大変違いますわ」

「安心するかね」

「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」

「まだ中々片付きやしないよ」

「どうして」

「片付いたのは上部(うわべ)だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」

細君の顔には不審と反抗の色が見えた。

「じゃどうすれば本当に片付くんです」

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

健三の口調は吐き出す様に苦々(にがにが)しかった。細君は黙って赤ん坊を抱上げた。

「おお好い子だ好い子だ。御父(おとう)さまの仰(おっし)ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」

細君はこう云い云い、幾度(いくたび)か赤い頬(ほお)に接吻(せっぷん)した。

(夏目漱石『道草』百二)>

 

「あの人」は健三の元養父。

「証文」は、健三に金をせびっていた元養父が健三と「向後一切の関係を断つ」(『道草』百二)という約束。有効性は疑わしい。

「殆んど」は笑える。

すぐ後で、ある「形に変わる」が、そのことに健三が気づいているかどうか、不明。

『道草』は『門』の原典のようなものだ。あるいは、両者の原典は語られたことのないNの〈自分の物語〉であり、『道草』は『門』よりも原典に近づいたとも考えられる。

『門』では、妻の元夫のイメージによって宗助は苦しむ。そのことを妻は知らない。妻は養子を疎んじる。夫の精神は小康を得る。妻もそのことを察して和むらしい。

『道草』の健三は、元養父によって実際に苦しめられる。そのことを妻は知っている。妻は実子を溺愛する。彼女は夫の不安を察さない。

宗助は加害者だが、健三は被害者だ。宗助は、自分が罪を犯したと思っている。一方、健三は、元養父に虐待されながらも彼に執着している。『道草』から逆算すると、〈宗助は何者かによる虐待を罰と思いこみ、罪を捏造した〉と解釈できる。

 

6000 『それから』から『道草』まで

6200 門外漢の『門』

6240 『門』と『道草』

6243 『現代人は愛しうるか』

 

何四天王は被愛願望を隠蔽するために言葉を並べる。

 

<彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合うものは苦しめ合うのかを考えたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

(芥川龍之介『或阿呆の一生』「三 家」)>

 

「互に愛し合うもの」の真相は、〈互いに愛されたがるもの〉だ。

 

<個人は愛することができない。これを現代の公理とするがいい。近代の男女は個人として以外に自分自身のことを考ええないのだ。ゆえに、彼等のうちにある個性は、ついにおなじく自分たちのうちの愛し手を殺さねばやまぬ宿命にある。というのは、自分の愛する対象を殺すというのではない。おのおのが自己の個性を主張することによって、自己のうちなる愛し手を殺すということなのだ。男も女もおなじである。クリスト教徒はついに愛しえない。愛はクリスト者的なもの、民主主義者、近代的なものを、要するに個人を殺してしまう。個人は愛することができない。個人がひとたび愛するならば、もはや彼は純粋な個人ではなくなってしまう。そこで彼はふたたび自己をとりもどし、かくして愛することをやめねばならないのだ。これこそ現代の教えるもっとも驚愕すべき教訓でなくしてなんであろう。個人、クリスト教徒、民主主義者は愛しえぬというのだ。いや、愛してみるがいい、そのとき人は一度さしだしたものをとりもどさねばならぬ、撤回せねばならぬのだ。

(D・H・ロレンス『現代人は愛しうるか』)>

 

Sの「覚悟」(上十四)は、〈現代人は愛されえぬ〉というものだろう。

 

現代人は愛されることがない。これを現代の公理とするがいい。近代の男女は個人として以外に自分自身のことを考えられないのだ。ゆえに彼らのうちにある個性は、ついに同じく自分たちのうちの愛され手を殺さねばやまぬ宿命にある。というのは、自分を愛する主体を殺すということではない。各々が自己の個性を主張することによって、自己のうちなる愛され手を殺すということなのだ。男も女も同じである。近代的なものは、要するに個人は、被愛願望を殺してしまう。個人はついに被愛感情を得ることがない。個人がひとたび愛されるならば、もはや彼もしくは彼女は純粋な個人ではなくなってしまう。そこで彼もしくは彼女はふたたび自己を取り戻し、かくして愛されることをやめねばならないのだ。これこそ現代の教えるもっとも驚愕すべき教訓でなくして何であろう。現代人は愛されえぬというのだ。いや、愛されてみるがいい、そのとき人は一度差し出されたものを取り戻させねばならぬ、撤回させねばならぬのだ。

 

Pの得た「教訓」(上三十一)は、〈現代人は愛されえぬ〉といったものかもしれない。

(6240終)

 


ネンゴロ二十世紀 1907・1908

2022-02-15 11:22:08 | 学習

   ネンゴロ二十世紀

1907 得を並んで、英露対独。(英露協商)

1907 貧苦を内通、ハーグ事件。(ハーグ密使事件)

1908 人の苦、おやみなく、ボス・ヘル。(ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合される)

1908 日暮れ始まる赤旗事件。(赤旗事件)

(終)


腐った林檎の匂いのする異星人と一緒  31 ミシン

2022-02-14 10:33:05 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

       31 ミシン

いつだったか、鉄柵のような鉄柱のような、冷たい、堅い、平たい物を右手と左手で掴み、その間から踏み板を見ていた。踏み板の上には足が載っていて、板の動きに合わせて動く。右足が少し前に出ているのは、その方が楽だからだよね。

膝から上は見えない。お姉さんかな。何でも教えてくれた人。生き方。そして、死に方。

お姉さん。私が生まれる前に死んだお姉さん。お姉さんがほしくて、でも、いないから、死んだことにしていたお姉さん。死んだことにされてしまったお姉さん。

あの頃、日記を書き始めていた。嘘の日記。書くことがなくて、嘘しか書くことがなくて、嘘を思いつくのが楽しくて、うきうきしながら書いた。

その日記にミシンの話も書いた。

ミシンに異星人が颯爽と乗り込む。踏み板に坐り、体を左右に揺らすと、プロペラが廻り始める。

やあ。分厚い雲を抉り、ミシンが落ちてくるぞ。頑張れ。頑張ってプロベラを回すんだ。カタコト、カタコト、カタコト…… 

日記を読んで、お姉さんが笑った。

笑われるのは嫌だ! 

もう、日記なんか、書かない。

誓って。

と、日記に書いた。

なんてね。

今日も書いちゃったよ、嘘。

というのも嘘だったりしてさ。

お姉さんは私を置いてどこかへ行ってしまったんだ、自分らしく生きることのできる時空を探しに、とか何とか、うまいこと、言ってさ。

というのは、嘘。本当に嘘。

お姉さんは私のことを嫌いになったんだ。絶対だよ。

ごめんなさい。

なんて言ってくれても、もう遅いんだからね。

ああ。退屈。

こんな日記帳、燃しちゃうぞ。

お姉さんが数ページだけ書いて忘れてった日記帳。

さてと。

カタコト、カタ…… 

(終)