夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6150 恋愛と友情
6151 「議論はいやよ」
「智に働けば角が立つ」という文の真意は、〈会話が苦手で困る〉だろう。
<「両方とも云われる事は云われますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)が出来ると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手痛(てひど)かった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十六)>
Pと静の会話。〈Sは静を愛しているのか〉というのが問題。「両方」は、〈Pの意見と静の意見の「両方」〉の略。Pは肯定。静は懐疑的。「云われる」は、〈理屈が合う〉といった意味だろうが、怪しい。「両方とも云われ」ないかもしれない。「この場合」は無視。Pは何の証拠も示さずに「私の方が正しいのです」と決めつけた。甘えたつもりらしい。
二人はまだ「議論」を始めていない。だから、「議論はいやよ」は〈「議論」をするの「はいやよ」〉の略。彼女の考える「議論」は〈口喧嘩ごっこ〉らしい。「議論」は夏目語かもしれない。「議論だけ」が駄目なら、「男の方」は「議論」プラス何をなさればいいのかしら。「面白そうに」が駄目なら、〈「面白」くなさ「そうに」〉なら大丈夫か。女の方々は、何をなさるのかしら。また、男と女は何をなさるのかしら。
「空の盃」は意味不明。「盃」に満たすべきなのは実意などだろうが、不明。「ああ」が指すものは不明。Pには想像できたのかもしれないが、私には想像できない。「飽きもせず」が駄目なら、〈飽き飽きしながら〉なら大丈夫か。「思いますわ」に、静の育ちの悪さが表われているが、そういう文芸的表現のつもりではなさそうだ。読みづらい。
「少し」と「手痛(てひど)かった」は合わない。
作者はこの「議論」によって何事かを暗示しているらしいが、私には何も察せない。
<「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃ益(ますます)遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」と云って、代助は頭を掻(か)いた。議論はそれで、とうとう御仕舞になった。
(夏目漱石『それから』六)>
代助と、その学生時代の友人だった平岡と、その妻の、三人のおしゃべり。
代助は自分がニートであることを正当化しようとした。平岡はビジネスマン。学生時代なら、いわば出世払いみたいに、相手の大言壮語を大目に見てやるのだろう。代助は「空の盃」によって旧交を温めようとしたらしい。ところが、忙しい平岡はさっさと「議論」で代助を負かしてしまう。マナー違反だ。そのことが、三千代にはわからない。
三千代は、何事かを察しているらしい。それは代助の彼女に対する恋慕だろうか。
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6150 恋愛と友情
6152 「愛の炎を見出(みいだ)さない事はなかった」
『それから』に関するありふれた誤読。
<思索を重んじ、父兄から経済的援助を受けて「高等遊民」として生きてきた長井代助(ながいだいすけ)は、かつて親友に譲った女性、三千代(みちよ)に再会する。
(『近現代文学事典』「それから」)>
「思索」は独善。「譲った女性」は愚かしい。代助に三千代の所有権はない。代助が「譲った」のは、三四郎の「第三の世界」における予約席に類する何かだ。
〈代助は三千代のことをずっと前から好きだった〉と誤読できる。しかし、この物語は、代助の妄想なのだ。勿論、作者は、そのように表現していない。
<代助は二人の過去を順次に遡(さかの)ぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出(みいだ)さない事はなかった。
(夏目漱石『それから』十三)>
「二人」は、三千代と代助。
この時点で、代助は「過去」の恋愛妄想を偽造したらしい。
<僕はあなたが僕に厚意を持ち出(ママ)したことを感じたので、僕がいてはいけないと思って、日本を去ることにしたのです。僕さえいなくなればあなたは当然、野島を愛して下さると思ったのです。
(武者小路実篤『友情』下篇四)>
「僕」は大宮で、「あなた」は杉子。〈大宮は杉子に愛される権利を野島に譲ろうとした〉と言える。勿論、彼女の心を軽んじた考えであり、また、実現もしなかった。
代助は、『シラノ・ド・ベルジュラック』(ロスタン)のシラノに似ている。シラノは彼の片思いの女性と友人との仲を取り持つが、彼女のことを死ぬまで諦められない。ただし、シラノは自分の恋情を自覚していたが、代助は違う。変なのだ。
<僕は 愛されてることを 感じる能力が 欠如しているんだ
(古屋兎丸『女子高生に殺されたい』)>
『それから』の語り手は、代助の「能力」の欠如を隠蔽している。欠如の由来をも隠蔽している。欠如を補填するのが、記憶を偽造する能力、つまり妄想癖だ。
作者は、〈妄想にすぎない恋愛〉と〈自覚できなかった被愛感情〉の仕分けができないように仕組んでいる。作者は何かを隠蔽しているが、それは不明だ。ただし、隠蔽された何かは、性愛に類するもののように誤読できてしまう。
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6150 恋愛と友情
6153 『泣いた赤おに』
『それから』は〈友情と恋愛のどちらが貴重か〉という二者択一として誤読できてしまう。〈男は彼にとって大切なものを親友に譲る〉という男色文化の物語が流布されているせいだろう。
<「まあ、きけよ。うんと、あばれているさいちゅうに、ひょっこり、きみが、やってくる。ぼくをおさえて、ぼくのあたまをぽかぽかなぐる。そうすれば、人間たちは、はじめて、きみをほめたてる。ねえ、きっと、そうなるだろう。そうなれば、しめたものだよ。安心をして、あそびにやってくるんだよ。」
「ふうん。うまいやりかただ。しかし、それでは、きみにたいして、すまないよ。」
「なあに、ちっとも。水くさいことをいうなよ。なにか、ひとつの、めぼしいことをやりとげるには、きっと、どこかで、いたい思いか、損をしなくちゃならないさ。だれかがぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」
(浜田廣介『泣いた赤おに』)>
『泣いた赤おに』なんかを子供に読ませて、嘘つきに育てる気か。
人助けのためなら、嘘も方便で許されよう。だが、「赤おに」が「人間たち」を騙すのは、「人間たち」のためではない。自分のためだ。「赤おに」は、「人間たちのなかま」になった後も、真相を「人間たち」に告げることができない。〈いつ、ばれるか〉と、はらはらしながら生きていかねばならない。しかも、犠牲になってくれた「青おに」に報いてもやれない。こうした不安や後ろめたさに、「赤おに」は一生耐えねばならないのだ。
<私(わたし)が『泣いた赤(あか)鬼(おに)』の青(あお)鬼(おに)だったら、悪い鬼(おに)の役なんてしないで、人間たちに、やさしい鬼(おに)だということを伝えたい。人間たちが喜(よろこ)ぶことをして、認(みと)めてもらい、村の人、そして大親友の赤(あか)鬼(おに)と一緒(いっしょ)に楽しく暮(く)らしていけると思うのです。
(倉持よつば『桃太郎は盗人なのか? ―「桃太郎」から考える鬼の正体―』「まとめ」)>
小学生でも「思う」程度のことが、国語科教師には思えないらしい。なぜか。
<夢心地の中から仄(かす)かに眼を開けて見ると、男は片膝を立てて、煙草を喫(す)っていました。
妾も急に起きて、陰部などの始末をする意気地もなく、立ち上りますと、
「お嬢さん、どうでした。嬉(うれ)しかったでしょう。今晩の事を忘れてはいけませんよ。私はあんたを手に入れる為に、随分苦労したのです。実は私は血桜団の頭(かしら)です。今晩貴(あ)嬢(なた)を襲撃したのは、私が団員に頼んだのです」
(緑雨山人『肉体の洗礼』「五 わなに落ちた小鳥」)>
「男」は本当のことを告白しているから、「赤おに」よりましだろう。違うのか。どうせ「妾」を騙すなら、騙し続けるべきなのか。「血桜団」は不良グループの名称。
(6150終)
(6100終)