夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6200 門外漢の『門』
6220 落花狼藉
6221 コキュあるいは神
次のくだりは、〈御米と宗助は禁断の恋に落ちた〉と誤読できるように語られている。
<事は冬の下から春が頭を擡(もた)げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易(か)える頃に終った。凡(すべ)てが生死(しょうし)の戦(たたかい)であった。青竹を炙(あぶ)って油を絞(ママ)る程の苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は何処(どこ)も彼所(かしこ)も既に砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれども何時吹き倒されたかを知らなかった。
世間は容赦なく徳義上の罪を背負(しょお)わした。然し彼等自身は徳義上の良心に責められる前に、一旦(いったん)茫然(ぼうぜん)として、彼らの頭が確であるかを疑った。彼等は彼等の眼に、不徳義な男女(なんにょ)として恥ずべく映る前に、既に不合理な男女として、不可思議に映ったのである。其所に言訳らしい言訳が何にもなかった。だから其所に云うに忍びない苦痛があった。彼等は残酷な運命が気紛(きまぐれ)に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽(おとしあな)の中に突き落したのを無念に思った。
(夏目漱石『門』十四)>
「事」は空っぽだから、「始まって」や「終った」は意味不明。「冬の下」や「春が頭」や「桜の花」も意味不明。〈落花狼藉〉が連想される。つまり、強姦だ。
何の「凡(すべ)て」か。「生死(しょうし)の戦(たたかい)」は意味不明。誰が誰と戦ったのか。
「大風」は意味不明。「突然」や「不用意」は不図系。「二人」は、宗助と御米。
「起き上がった」や「砂」は意味不明。
「吹き倒された」は意味不明。
どうやって「世間」が知ったか。姦通は「徳義上の罪」である前に〈法律上の「罪」〉だ。
「茫然(ぼうぜん)として」は不図系。「頭が確」は意味不明。
「不合理な男女」は意味不明。「不可思議に映った」は意味不明。
「其所」の指すものがない。「言訳らしい言訳」の具体例が不明。
「だから」は機能していない。この「其所」の指すものもない。「云うに忍びない苦痛」の中身は空っぽ。ありもしない「苦痛」は「云うに」事を欠く。
「残酷な運命」や「気紛(きまぐれ)」は意味不明。「不意を打って」は不図系。「面白半分」の具体例が不明。「穽(おとしあな)」は意味不明。
語り手は濡れ場にモザイクをかけたのか。違う。モザイクによって濡れ場を暗示したのだ。
<こういう民俗は、今まで述べてきた、神の嫁となる話でもあり、これから述べようとする成年式にも関連してくるが、同時に「初夜権」の問題をもふくんでいる。結婚した花嫁の初夜の権利は誰が持っているかということで、それは当の相手の花聟ではない。
(池田弥三郎『おとこ・おんなの民俗誌』「八 初夜の権利」)>
安井は「神」なのだ。ただし、その事実を、作者が文芸的に暗示しているのではない。
6000 『それから』から『道草』まで
6200 門外漢の『門』
6220 落花狼藉
6222 「尋常の言葉」
『門』の恋愛の物語は、前作の『それから』のそれよりもさらに具体性を欠く。
<しばらく黙然(もくねん)として三千代の顔を見ているうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞ(ママ)いて行(ママ)って、普通よりは眼に付く程蒼白くなった。その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始(ママ)めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄(じゅんじょう)の埒(らつ)を踏み超(ママ)えさせるのは、今二三分の裡(うち)にあった。
(夏目漱石『それから』十三)>
「女の頬」の変化は、強引な代助に対する恐れの表われとも解釈できる。
<彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女(なんにょ)の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、かつあまりに直線的で濃厚なのを平生から怪ん(ママ)でいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞(せりふ)を用いる意志は毫(ごう)もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置(ママ)に滑り込む危険が潜んでいた。
(夏目漱石『それから』十三)>
「西洋の小説」ではなく、〈東洋の「小説」〉ならば、どうか。「直線的」は意味不明。
「日本」は、〈近代「日本」語〉と〈近代「日本」社会〉の混交。
「関係」は〈恋愛「関係」〉の略だろうが、それが成立した証拠はない。
「尋常の言葉」とは、どんな「台詞(せりふ)」だろう。
<さらに、小説家の夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒の一人が「I love you」の一文を「我君を愛す」と訳したのを聞き、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と言ったという、有名な逸話が残っている。>
(戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』「第8章 科学技術と社会の関わり)
“Fly Me to the Moon”つまり”In Other Words“参照。
<またわれわれが若い婦人と散歩をしている時に、彼女が、
「いい月ねえ」
と、言ったら、その調子で、気象学的観察をしているのか、それとも接吻してもらいたがっているのかがわかる。
(S. I.ハヤカワ『思考と行動における言語』「5 社会的結びつきの言語」)>
代助は「調子」を聞き分けることができなかったのだろう。
6000 『それから』から『道草』まで
6200 門外漢の『門』
6220 落花狼藉
6223 困難な‐恋愛小説
『門』の作者は、〈恋は本質的に罪のようなものだ〉という考えを〈罪のような恋の物語〉によって表現している。〈困難な‐恋愛小説〉を〈困難な恋愛‐小説〉に偽装している。
<少女のローラ姫はある黒幕の人物の手によってアメリカに渡り、ライフ誌の表紙ともなり、かつ「神秘の国ストン国王の妃(きさき)となって」という大ベストセラーのヒロインにもなりました。それが、どんな内容かと申しますと、
「そのとき、あたちは積木細工をしていました。すると、王様が近づかれ、あたちにさわって、……(以下五頁(ページ)空白)……あたちは嬉(うれ)しくって……(以下三頁空白)……王様はあたちの髪をなで、ローラ、おまえって、ほんとに可愛(かわい)いねえ……(以下十頁空白)……ローラ、もう眠い? いいえ、あたち、おねむじゃないの、もっとおイタをしたい。すると王様は……(以下二十頁空白)……」
というような、およそ活字の少ない本なのですが、これがどうしたものか、バカな読者の特別貧弱な空想を刺戟(しげき)して、売れに売れました。あまりに売れたため、いかがわしい箇所があると訴えられもしましたが、(真相は出版社側が手をまわして自らの手で訴えさせたのです)その裁判にもわざと辛うじて勝ってしまい、評判はますます高まり、著者とエージェントはごっそり儲(もう)けました。その架空の著者とエージェントとは誰あろう、実は総理大臣その人なのでした。
この本は当然、映画化もされましたが、これも映像が映っているところはごくわずかで、あとはまったく暗闇(くらやみ)のままでした。ところが、暗闇というのがドライブイン劇場などに集まる観客に受けて、ロングランをつづけました。
(北杜夫『さびしい王様』「第七章 オレンジからオッパイへ」)>
文豪伝説が支配的な社会では、人は「バカな読者」にならなければならないのだろう。
<「なまじい力におもうの、親友だのといわれて見れば私(わたくし)は……どうも……どうあッても思い……
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ ちよっと御覧なさいヨ
庭の一隅(いちぐう)に栽(うえ)込(こ)んだ十(と)竿(もと)ばかりの繊(なよ)竹(たけ)の葉を分けて出る月のすずしさ
(二葉亭四迷『浮雲』「第一篇 第三回 よほど風(ふう)変(がわり)な恋の初峯入(はつみねいり) 下」)>
文三とお勢との会話。彼は、お勢が「思い」を受け入れてくれたものと勘違いする。いや、勘違いではないのかもしれない。『浮雲』は意味不明。
<月夜よし夜(よ)よしと人につげやらば来(こ)てふに似たり待たずしもあらず
(『古今和歌集』巻十四 恋歌四)>
『浮雲』の作者にさえ、お勢の真意は不明だろう。お勢自身にもかな。
(6220終)