人は失敗を隠す。
それが人の性分であり特性だ。
人は失敗を隠す。
それが人の性分であり特性だ。
【サクランボとリンゴ】
サクランボは冷蔵で保存しない方がよいことをご存知だろうか?
そんなことを知ったのは、一昨年初夏のある贈与がきっかけだった。東北在住の知人から届いたそのサクランボは、梱包をあけて箱の中を見ると、たとえば時間がたって凝固した血液がそうなるように、深く暗い朱色をしていた。アメリカンチェリーのような、と言えばわかりやすいだろうか。だがそれは、アメリカサクランボではなく、れっきとした佐藤錦である。
これはどうしたことだろう?と訝しがった妻は、あえて贈り主ではなく、箱に書かれた生産者のところに電話をした。事情を説明する妻に、年配男性とおぼしき生産者は、すぐさまその原因が「クール便」であることを特定したという。聞けばそのおじさん(たぶん)は、「冷蔵で送らないでくれ」というのが、発送に際しての基本的スタンスなのだという。とはいえサクランボは傷みやすい。そのため、どうしても遠隔地に送る場合は、冷凍にするか、もしくはそのことを承知してもらったうえで冷蔵保存による輸送を選択する。それ以外は、あえてそうしないでくれと念押しをしているという。ということは、非は運送会社にある。
8月に『全建ジャーナル』という全国建設業協会の広報誌に拙文を寄稿した。『いまの仕事の進め方、正しいですか?それとも間違っていますか?』という、全国各地の土木技術者が代るがわる受けもつ連載の第8回目だ。
内容はといえば、ココでは再三書いてきたことのリメイクであり、読者さんにとって目あたらしいものはなにもないが、発表する媒体が異なったり、また字数の制約があったりすると、ダラダラと思いつきで書いている普段とは少しばかり雰囲気がちがうような感じを受けるから、我ながらおかしい。
今朝、ひょんなことからそれを思い出したので転載する。
(以下、『全建ジャーナル令和5年8月号』からの転載)
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よくあるランキングに「好きな歴史上の人物は?」というものがあります。その時々の傾向があって、アンケートを実施する年によりランクに違いがあらわれるようですが、過去何十年ものあいだ、必ずベスト3にランクインする人物がいます。坂本龍馬です。
ことほど左様に龍馬の人気は持続的であり、しかも他を圧するものがあります。その理由には、さまざまなものが挙げられますが、そのなかの一つとして先見性や先取の気風があります。それをあらわすエピソードとして有名なのが、土佐勤皇党の同志である檜垣清治とのあいだのやり取りです。作り話だという説もあり、実話かどうかは不明ですが、いかにも龍馬チックな逸話です。それを紹介するところから拙稿をはじめたいと思います。
当時、土佐藩士のあいだでは長い刀を差すことが流行していました。ある時、久々にあった檜垣が長い刀を差しているのを見た龍馬は、「そんなもんは実戦には使えん」と、自分の腰にある短めの刀を見せます。それに感心した檜垣は、それ以来短い刀を持つようにし、次に龍馬と再会したときに、どうだとばかりに見せます。それを見た龍馬は、「刀の時代は古い、これからは拳銃よ」と、懐から短銃を取り出して見せます。またまたそれに感化を受けた檜垣はすぐに拳銃を買い求め次の再会でそれを見せると、龍馬ニッコリ笑って「これからはコレよ」と懐から一冊の本を取り出します。万国公法、現在でいうと国際法について書かれた書物です。それまで懸命に龍馬のあとを追いかけていた檜垣ですが、残念ながらそこが限界、それ以上ついていくのをあきらめたという話です。
この逸話での檜垣は、時代遅れの象徴で半ば嘲笑の対象として語られるのが常です。しかし、かねてより私は「そうだろうか?」と感じていました。その理由を具体的に述べます。
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まずエピソード1では長い刀を捨てます。
当時「流行っていた」という事実から考えると「長い刀」にもそれなりのメリットがあったはずです。しかし、例えばそれが「皆が採用しているか」とか「見栄えがよろしいから」とかの、武器としての存在価値以外のものであったとしたら、太平の世が終わりを告げようとしているその時代に実戦用武器として通じるものではありません。それが理解できずに、ただ多くの人が差しているからという理由で「長い刀」という従来のツールにしがみつく人は多い。しかし彼は代えました。エピソード2も同様です。戦闘のスタイルが変化し、そこにおいて主要な位置を占める武器が刀から短銃に変わりつつあることを理解できずに、または、「オレは変化した」という成功体験意識から脱却できずに、「短い刀」という手法を捨てることができない人もま
た多いはずです。しかし彼は、たとえそれが人真似ではあっても時代の変化に適応していきました。
とはいえ、そんな檜垣の限界が露呈してしまったのがエピソード3です。「長い刀」から「拳銃」までは純粋な意味における武器、つまりツールや
手法のカイゼンあるいは進化という文脈で同じ延長線上にあります。しかし、「拳銃」から「万国公法」への変化はちがいます。
コペルニクス的転回といってよいでしょう。純粋武器を使った戦闘だけが戦いではなく、国際法を駆使するのもまたネゴシエーションという場における戦いなのだという、いわばフェーズの異なるステージに立たなければ理解できない変化がそこにはあります(史実として龍馬は、「いろは丸事件」において国際法を駆使し、紀州藩に多額の賠償金を支払わせています)。残念ながら檜垣には、その本質が理解できなかったのでしょう。ビジネスの世界に置き換えてみるとそれは、仕事に用いるツールや手法は変える(カイゼンする)ことができたが、仕事のスタイル(やり方)を変えることはできなかったということです。
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私たちの仕事でも、そのような例が多くあります。一例をあげましょう。株式会社トプコンが開発したレイアウトナビゲーター(以下杭ナビ)は、ワンマン測量で位置出しや杭打ち作業を手軽にかんたんに行えるようにつくられた自動追尾トータルステーションです。杭ナビ標準アプリだけではなく、快測ナビ(建設システム)と連携させることで利用用途が一気に拡大し、今や土木現場における測量ではスタンダードと言ってもよいぐらいに普及しました。しかし、ほとんどの場合にそれを使用するのは従来のように現場技術者であり、その使い方からは、最低2名必要だった作業が1名で行えるようになったという成果しか上がっていないのが多くの建設現場における現状です。といっても、これまでの生産性が倍になったのですから、それは目ざましい成果にはちがいなく、このツールと手法の画期性を否定するものではありません。しかし、先の龍馬エピソードに即して考えると、その活用方法は「長い刀」→「短い刀」→「拳銃」という延長線上にとどまっているに過ぎ
ません。
徳島県に株式会社大竹組という地場ゼネコンがあります。第2回i-Construction大賞優秀賞を受賞したのでご存知の方も多いでしょう。大竹組
では測量=技術者がやるものという既成概念にとらわれることなく、その作業を若手の軽作業員に担当してもらっている間に技術者は他の業務(例えば書類作成などの内業)をこなすことで技術職員の残業を減らすことに成功しました。この例は広く紹介されており多くの方が承知しているとは思いますが、その本質を理解し、自分の仕事に適用している人がどれだけ存在しているでしょうか?
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私が見聞きするかぎり、測量という自らの仕事を手放したくない技術者はあまりにも多く、それが「あらたな仕事のやり方」を生み出す障害となっていることに気づいていない人もまた多数存在します。「それしきのこと」、と思われるかもしれませんが、私はここに「万国公法」を感じます。
「万国公法」というフェーズがそこにあるのに気づかないか、あるいは自分を守るために無視するか、いずれにしても、そこから「仕事のやり方を変える」ことはできませんし、「あたらしい仕事のやり方」を生み出すこともできません。
BIM/ CIMもまた同様に考えることができます。かつて、手描きの図面から2次元CADへという革新的な変化がありました。私はこれを同じ延長線上にあると考えます。定規とシャープペンシルがパソコンに変わったことで飛躍的に効率が上がりはしましたが、それは所詮、スーパー文房具としてのPCが成し得た成果でしかありません。
ではBIM/ CIMはどうでしょうか?そこに私は、龍馬が「拳銃」から「万国公法」へとコペルニクス的転回を果たしたと同じような本質があると思うのです。
といっても、時が経てばそれは常識となっていき、その本質に気づかなかった者も、等しくそのツールや手法の恩恵を受けることができるようになる。そういう例もまた数多くあります。「だから待つのだ」という態度をとる人は少なくありません。ではそのとき、「あたらしい仕事のやり方」を模索した人たちの苦労は水の泡となるのでしょうか?私はそうではないと信じます。なぜならば、そこには「変える」を模索しつづけるという姿勢が一貫してあるからです。その繰り返しはやがて、「変える」を方法にします。
「変えるという方法」が仕事のスタイルとなります。それは、一つのことに留まらず、さまざまなことに適用できる本質を内包するという意味で「方法」です。「待つ」を選択する人たちには永遠にそれが訪れることはありません。ということは、自ら「変えるという方法」を身につけることができれば、自らを取り巻く環境がどのように変化しようと、今という時代の建設業を生き抜いていく上で大きなアドバンテージを得るということです。
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「万国公法」を手にする機会は皆に等しくあります。それが「万国公法」なのかどうか。あるいはそれを、「万国公法」にするのかしないのか。いつ
もいつでもそれを模索しつづけること。それが今という時代の建設業を生き抜く秘訣(のようなもの)だと私は思うのです。
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「アンタには現場を選ぶ権利がない」
クルマの助手席で笑いながらそう言い放ったのはボスで、もう20年以上も前のこと。「次はどこそこの現場がいいですね」と、まだ経験したことがない種類の工事を担当してみたい旨の希望を口にしたぼくへの返答だった。
「いや、選択権がないのはわかってますが、希望ぐらいは口にしてもいいんじゃないですか?」
ハンドルを握るぼくがささやかな抵抗を試みると、
「口にするだけやったらしてもええけど、まずそのとおりにはならんな」
つまり、彼が決めた仕事をするしか道はないという宣告だ。
それはそれで雇われ人という立場なのだもの、従う他はない。だが、やっかいな工事をひとつかたづけたばかりで、達成感と開放感に満ちあふれたときに聞きたい言葉ではなかった。
「アタシに回ってくるのはは難儀な仕事ばっかり。たまには◯◯さんみたいにずっとおんなじ現場を鼻歌まじりでしてみたいもんですわ」
思い起こしてみれば失礼な発言。同じ現場は二度ない。同じような仕事でも、その時々で問題課題は変化するのが現場一品生産という特殊形態をもつこの仕事の宿命だ。その◯◯さんだとて、まさか鼻歌まじりでしてはいなかったのだろうが、少なくとも当時のぼくの目にはそう映っていた。
「それもないな」
にべもない返事に、会話をつづけるだけムダだと押し黙った。
がっかりはしていたが腹を立てていたわけではない。「デキるからそうするのだ」という信頼と期待が感じられたからだ。「選ばれし者の幸福」というやつだろうと自分に言い聞かせた。
だからといって、命じられた仕事をこなすだけでは癪にさわる。それならばコチラから攻めてみようと、アレもできるコレもできるとばかりに申告したマルチタスクを自らに課した。受動的な姿勢でいるとすぐに「追い込まれる」が、逆にアグレッシブに立ち向かうと「追い込む」こともできる。そんなことはめったにないが、そうなったらコッチのものだ。その繰り返しが身体に沁みこみ血肉となって今のぼくがある。言い換えれば、その繰り返しがなければ今のぼくはない。であれば、今となっては感謝するしかない。
そう結論づけたあと、ひとつの疑念が生じた。
当時のボスがとったような態度を、今のぼくは部下に対してとれるだろうか?
答えは「とれない」だ。「時代がちがう」という理由が真っ先に浮かんだ。
本当にそうだろうか?もしも今、あの頃のぼくが目の前にいたとしたら、今のぼくはそうしないだろうか?自問した。
よくよく考えてみればボスも、ぼくに対してはそうしたが、皆にそうしたわけではなかった。幾人かの顔を思い浮かべ、むしろぼくへの態度の方が例外的だったことに思い当たった。
たしかに「時代はちがう」。しかし、苦難を成長の糧にできる人間がいなくなったわけではない。困難をただの苦しみとだけ感じる人間は、今も昔も存在する。時代はちがってもそこは不変だ。
どちらか一方だけで組織が成り立つわけではない。かつてのぼくのようなオーバーアチーブな人間だけを集めたら、成果を上げつづける組織ができるものでもない。肝心なのはバランスだ。成果は個人だけが生み出すものではない。チームの所産としてそれはある。
バランスとひと口に言うが、それは何も均衡ということではない。その時々のメンバー構成に応じた役割分担が適切で上手に機能するかどうか、それがぼくの言うところのバランス(平衡)である。そのためには、人材が流れ動く大都会ならいざ知らず、この田舎では、チームの構成が変化した場合には「成果」を変えることも含めて考え、行動することもアリだろう。
「時代はちがう」のではなく「人がちがう」だけなのかもしれない。
そう考えると、結局のところ昔も今も、やらなければならないことはあまり変わらないような気がしないでもない。
誰も気に留めないような何気ない朝の会話から、そんなことを思い出し、こんなことを考えた。
相も変わらず、「こうするべきだ」「こうした方がよい」という結論が出たわけではない。
「希望的観測」という言葉の初出はクレメンス・メッケルだという。明治時代に陸軍が招聘したドイツ軍の参謀である。彼は、日本の軍人をこう評価した。
「彼らは総じて優秀であるが、一点だけ軍人として致命的な性格を共有する。規模の大小に関わらず、まず理想の戦果を特定し、ひたすらそれに向かって作戦を立案する癖である。すなわち、敗北、撤退、混乱といった戦場に充満せる負の要素を一切想定せず希望的観測によってのみ戦争を遂行せんとするのである」
という逸話をオーディブルで聴いたのはきのう、『失敗から学ぶ現場監督技術』というお題(リクエストされたテーマです)を講じた県技術職員研修会からの帰路、高知市から東へ向かう高速道路を走るクルマのなかだった。聴くなりすぐに、その小説(浅田次郎『長く高い壁』)の再生を停止した。結局、話の流れで実現することはなかったが、その講話の最後に紹介しようと考えていた手法、心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死」のことを思い起こしたからだ。
事前検死。そのやり方とは、プロジェクトの実施前に、あらかじめそのプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくというものだ。つまり、失敗をしていないうちから失敗を想定してそこから学ぼうとする、グーグルの元CEOエリック・シュミットが好んで使ったという ”Fail fast,fail cheap,and fail smart"(早く失敗、安く失敗、賢く失敗)を地で行くような手法だ。
「失敗するかもしれない」ならば誰もが考えることだ。帝国陸軍が希望的観測を拠りどころにしたのも、ひょっとしたらその不安を打ち消すためだったのかもしれない。「事前検死」はそうではない。そこから一歩も二歩も進め、こう考える。
プロジェクトは失敗した。
目標は達成できなかった。
この状態がスタートで、そこから検死を行う。検視ではない検死だ。すなわち、検視(=遺体や周囲の状況調査)、検案(=検死によって得られた情報を元に死因などを究明する行為)、解剖(=ここまでの行為では断定できない情報がある場合に遺体を解剖して詳細な情報をさぐる)といった流れのすべてを総称したものである。プロジェクトが行われている最中にあるかもしれない失敗を具体化し、その理由をあきらかにして一つひとつを事前につぶしていく。それが「事前検死」だ。
期せずして聞こえてきた希望的観測の由来と「事前検死」のふたつが結びつき、その数十分前までに話していた自身の「失敗」とリンクして、会社に着くまでの約1時間というもの、さまざまな思考が脳内を行き来した。さて・・・どう料理をしてやろうか。むずかしいのがココからなのは言うまでもないが。
問題:「2、4、6」という3つの数字はどんなルールで並んでいると思いますか?同じルールで並んでいると思われる好きな数字を3つずつ言って次の4つの答えから正しいものを見つけ出してください。
1.数字が昇り順に並んでいる。
2.偶数が並んでいる。
3.偶数が昇り順に並んでいる。
4.3番目の数字が前の2つの数字の和である並び。
一見してもらえればわかるだろうが、1から4までの回答は理論的にはすべて正しい。しかし、ここでの正答はひとつしかないという前提だ。
こういった場合にほとんどの人は、まず仮説を立てる。たとえばアナタが立てたそれは「3.偶数が昇り順に並んでいる」だった。すると、それが正しいか間違っているかを証明しなければならない。それにもとづいて、仮に「8、10、12」と答えてみる。ちなみにここでは、質問者は回答者が正解だと思われる並びを出すたびにその正誤について答えなければならない。
まず一回目は「正」だった。アナタの仮説は正しいかもしれないという可能性が残った。と同時に「4.3番目の数字が前の2つの数字の和である並び」という答えは誤りであるということが判明した。そうなると今度は、たとえば「20、22、24」で確認する。これを3~4回やれば、ほとんどの人には自らが立てた仮説の正しさに確信が芽ばえるはずだ。
しかし、それでもまだ正解かはわかっていない。考えてみてほしい。もし正解のルールが「1.数字が昇り順に並んでいる」だったらどうだろうか?それまでと童謡の確認を延々と繰り返したところで、正解かどうかはわからないはずだ。
そこで、自分の仮説が「マチガイかどうか」を確認するという方向に戦術を変えてみる。そうすると、ずっと短時間で正解が導き出せる。たとえばそれはこういうことだ。「 3、10、11」。それが「正」と判定されれば、「3.偶数が昇り順に並んでいる」という仮説は誤りだったとわかる。言わずもがなであるが、「2.偶数が並んでいる」もマチガイだ。そしてそのあと、たとえば「10、4、 1」とデタラメな数字を降り順で提示してみる。それが「誤」と判定されれば正答は「1.数字が昇り順に並んでいる」だということがわかる。
ここで重要なのは、自分の仮説の正しさを、それに反する数列で検証するという方法を採用したことだ。実際にこれは、かつてペンシルバニア大学で行われた実験で、被験者である学生は、好きなだけ数列を答えてもよいと言われていたのにもかかわらず、正解のルールを見つけ出したのは全体の10%にも満たなかったという。
以上、元ネタは『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』(マシュー・サイド著、有枝春訳)から。そこで著者はこう書いている。
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肝心なのは、自分の仮説に溺れず、健全な反証を行うことだ。我々はつい、自分が「わかっている(と思う)こと」の検証ばかりに時間をかけてしまう。しかし本当は、「まだわかっていないこと」を見出す作業のほうが重要だ。
哲学者カール・ポパーもこう言った。「批判的なものの見方を忘れると、自分が見つけたいものしか見つからない。自分がほしいものだけを探し、それを見つけて確証だととらえ、持論を脅かすものからは目をそむける。このやり方なら、誤った仮説にも(中略)都合のいい証拠をなんなく集めることができる」
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このくだりを読むなりすぐ、誰もいない空間に刃があらわれ、その切っ先がぼくの胸につきつけられたような気がした。
そのあと聞こえた言葉はこうだ。
「オマエもな」
寒くなった背筋を思わず伸ばした。
品質(quality)、コスト(cost)、納期(delivery)の頭文字をとってQCD。建設業の現場監督(マネジャー)は、時に対立しトレードオフの関係にあるそれらすべてを満足させることを求められる。のみならず、それに加えて安全(safety)もまた、けっして疎かにすることができないときたら、その実現は生やさしいことではなく、それらすべてを高水準で達成することがどれだけ困難なことか、あえて説明する必要もないだろう。そもそもそのようなことが易々とできるようなオールマイティーな人間はほとんど存在しないと言い切っても差し支えない。
人間誰しも得手不得手がある。QCDSのどれが得手でどれが不得手か、あるいは、どれが好きでどれが嫌いか。人によってそれが分かれてくるのは当たり前の話なのだが、そんなことを大っぴらに表明しようものなら言語道断職務怠慢と指弾されるに決まっている。「甘えんじゃねえ、それがオマエらに与えられた職務だろうが」てなもんである。とはいえ、誰にでもある嗜好や好き嫌いが、仕事にだけ「ない」と言い切ることには明らかに無理がある。
ただ、そのことを踏まえても、それらを避けたりそれらから逃げたりするわけにはいかないのが、マネジャーとしての現場監督だ。それもまた当たり前のこと。それがイヤならばやめるしかないとなるが、いや、「やめる」という結論を出すのは早計だ。
ではどういうふうにそれを乗り越えていったらよいのか。じつを言うとぼくは、そのことについてずっと考えつづけてきた。この仕事がそのようなものだと理解してからずっとだ。
そのひとつの方策が「たのしむ」ことである。「おもしろみ」を見出してそれを「たのしむ」と言った方が適切だろうか。多岐にわたる仕事のうち、自分が得手とするところはないか。自分自身でそれを見つけ出すのだ。そしてそれに他の事柄を従属させる。そういう関係を自分でつくり出す。たしかにQCD+Sは、あちら立てればこちらが立たずのトレードオフの関係にはちがいないけれど、と同時に、互いが独立してあるものでもない。どこかに必ず結びつく因果関係がある。よしんばそれが見つけられないとしたら、無理矢理にでもつくり出す。たとえ自分勝手な理屈であっても、世間一般の道理から外れていたとしても、何ら差し支えはない。なんとなればそれは、自らの心の内なる問題だからだ。
そこで何より重要なことは、自らが進んでそれを選択することだ。もしもアナタが正解は誰かが与えてくれるもの、あるいはそこへたどり着くための道筋は誰かが指し示してくれるもの、はたまた待っていればいつかはやって来てくれるものがそれだと思っているとしたら、それこそが勘違いの最たるものだ。人は与えられたもの、つまり他者からの押し付けやお仕着せでは、心の底から「たのしむ」ことができない。自らがそれを見つけ出し、自らの意思でそれを選択する。そうやって自らが能動的に動いた結果だからこそ、そこに「たのしみ」が生まれてくる。「たのしむ」の初めの一歩はその一点にあるし、常にそこを外さないように心がけることが肝要だ。
「達成感」などという美辞麗句で自分自身の仕事の魅力を語ってはならない。なぜならばそれは、「達成感」のみにしか魅力を見つけることができない、すなわちプロセスにはなんの魅力も存在しないと言っているに等しいからだ。
その気になりさえすれば、この仕事のプロセスのあらゆるところに「おもしろさ」や「たのしさ」は存在している。それに気づかないか、あるいは気づいていても気づかないふりをして「辛さ」を増幅させているか、だとしたらそれこそが、自らへの裏切りだとも言えるのではないか。
以上、「仕事のたのしみ方」に関しての、今のぼくの考えだ。表題には「現場監督の」という括弧をつけたが、世間一般の仕事にも通底するものだと信じている。
だからといって、たかがそれぐらいのいわば心がまえ的なもので「辛さ」が消え去ってしまうはずもない。そんなことは百も承知だ。だからこそぼくは、その「辛さ」を抱え込み、その「辛さ」と表裏一体にある「たのしさ」を第一義にしたい。といっても、事は口で言うほどかんたんではないが、チャレンジしてみる価値は大いにある。ということでアナタもひとつ、いかがだろうか?
たとえばぼくの属する会社の例で言うと、朝イチバンに技術屋だけの会がある。次にあるのは技能職を加えた全体朝礼だ。日々の定例会はこのふたつだけ。週に一度行われるのは工程会議だ。月に一度の工程会議もある。あ、そうそう、主要スタッフだけの会議もあった。その他、いろんな勉強会があったり、随時の打合せがあったり、そのたびに参加者が陣取る位置には、これといって決まったものがない。
だが不思議なことに、どのメンバーも同じ位置を選ぶ。何回開いても同じだ。何がその選択を左右するのだろうか。性格だろうか、好みだろうか、惰性だろうか・・・。一人ひとりをとると、何も考えずにそのチョイスをしている者が多いのだろうし、そんなこと取るに足らないことのようにも思える。だがその事実は、皆が気づかないうちにそれぞれの思考や行動を束縛している。
同じ角度、同じ方向から見聞きするものと、正反対の位置取りをする人が受けるものは、同じ人を見て同じ話を聞いていても、きっと必ず微妙にちがったものになるはずだ。そして、それがいつしか固定されると、固定観念と惰性を生み出す素となる。そうなることが、組織にとってもその人個人にとってもよかろうはずがない。
やっかいなことに、人間がもつその習性は強力な磁力を有しているようだ。それを打破せんと意識をして、時おりは会での席を変えているぼくにしても、その例外ではない。気がつけば、いつも同じようなところに陣取っている自分がいる。そしてあろうことか、時々はこう思ってしまうのだ。そこはオレの席じゃないか・・・
生物としての人間は変化する。一秒たりとも同じではない。必ず変化している。だが、人の意識は多くの場合に変化を好まない。今日までも、あしたからも、同じ自分が在ると錯覚している。そんななかにあって惰性に陥らないためにはどうすればよいか。日常のちいさなことから、居着かないことを常に意識して日々を過ごすのは、その一方策として効果的だ。
たかが座席の位置だと思うなかれ。「居着く」心はそんなところから始まっている。そして「居着く」は諸悪の根源だ。そこから生ずる惰性や固定観念は、発想や行動を束縛し、創造するちからを奪い取ってしまう元凶だ。
天才級の人物ならいざ知らず、貴方やぼくのような凡人ならば特に、ふだんのちいさなことからそこを意識づけることが居着かないための初めの一歩だ。
ぼくはそれが、たとえば「座席の位置」にあると思う。
結局のところそれは、そうやって意識づけをしなければすぐに居着こうとしてしまう自分への注意喚起であり、警告に他ならないのだけれど。
「労多くして功少し」という。
労力をかけることが多い割には、それに対する見返りが少ないことを言い表す言葉だ。今風な物言いをすれば、「コストパフォーマンスがわるい」とでも言おうか。
ことをビジネスや会社という世界に限れば、よりよい利益を生み出すために効率という指標は何より大切なものであり、それを否定また無視してしまうのは、局所的には認められることがあったとしても、全体としてはごく稀であると言ってよい。いかにして少ない労で多くの功を得るか。これが優秀なビジネスマンであるかどうか、あるいは成功する企業であるかどうかを決めてしまうと言っても過言ではないだろう。
しかしわたしは、それを理解しつつも、仕事のスタイルとしては採用するべきではないと信ずるひとだ(特に若いころには)。
なぜか。「労を惜しむ」人間に成果はおりてこないと考えるからだ。いや、ゼッタイにそうであるとは言わないが、たまさかそれが実現したとしても、「労を惜しむ」を追求した結果としての成果は、自分自身の未来にとってよい蓄積とはなり得ず、その先に向けての肥やしにはならないと思うからだ。
もっと端的に言おう。「過剰な労働を厭うな」ということである。過剰な労働とならないように工夫するのと、過剰な労働を厭うのとは、まったく似て非なるものだ。やみくもに労を多くすればよいというものではないし、ことさらに労働時間の多さを誇るのは愚の骨頂だ。基本的には、過剰な労働は避けようと努力するべきである。わたしがここで言わんとしているのは、そういうことではない。心持ちとか姿勢の問題である。
成果をあげる組織には、過剰な労働を厭わないタイプの人間が必ず存在する(内田樹はそれを「寝食を忘れてやるタイプ=オーバーアチーブタイプ」と名づけている)ものだ。そしてそういう人たちがもたらす利益が、「労を惜しむ(=楽をしようとする)」と考え実践する人間の生産性を超える組織が成果をあげる。少なくともわたしはそう信じている。
労を惜しまない。楽をしようとしない。
労を惜しまず、足掻いて足掻いて、どこまでも足掻いてみる。そしてそれをたのしみながら実行する。わたしはそれが両立しないとは思わない。
労を厭わないのがたのしい。足掻くのがたのしい。
もしそれが自分自身のなかに自らの方法として確立できたなら、それはアナタの強力な武器となる。
未だ実現できていないわたしがそう言うのもなんだか変な話ではあるが、きっとそうだという確信はある。イヤほんと。