正月前後の長期休暇中、浮かんでは消え消えては浮かびを繰り返す言葉がありました。
積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。
積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。
竹原ピストル『オールドルーキー』の一節です。
とはいえそれを思い浮かべるのは、今に始まったことではありません。
これまでも折に触れてはそうだったし、また、このブログをはじめとして様々な講話でも、主に仕事を遂行する上での心がまえとして紹介してもきた、ぼくにとってはお気に入り中のお気に入り、まちがいなくトップランクに位置する言葉です。
自分が積み上げてきたもので他人と勝負する。そこには勝ちもあれば負けもあるでしょう。しかし、積み上げてきたもので勝負しようという心の持ちようでいるかぎり、その勝ち負けの割合は負けの方が多くなるでしょうし、やがてはまったく勝てなくなってしまうにちがいありません。
だから変わりつづけなければならない。変わったもので勝負するということは、自分が積み上げてきたものとの勝負に他ならないのです。
もっと平易に言えば、過去の成果や成功体験の上に胡座をかいていては、未来の成功はないし成果もあがらない。だから変わりつづける必要がある。これがぼくの解釈でした。
では誰がその勝負の相手なのか。
これについては曖昧模糊なまま、深く考えたことはありませんでした。
なんとなれば、勝負の相手はひとりではないし、その場その時で変わるものです。であれば、誰かを特定する必要などありはしません。そこでは、いったい誰と勝負するのか、誰に勝てないのか、そこのところを突き詰めて考える必要はなかったのです。
当然のようにそう考えていたぼくの脳内に、突然その答えが舞い降りたのは今年のはじめでした。
そうか、勝負の相手は他ならぬ自分自身だったのだ。
「積み上げてきたもの」を過去の成果と捉えるのは、たぶんまちがいではないでしょう。しかし、「積み上げてきたものと勝負」するときそれは、「自分が積み上げてきたもの=自分」、すなわち「これまでの自分と今の自分の勝負」となるはずです。そして、その勝負に勝たなければ他の何者にも勝てはしない。そう捉え、自分自身への戒めと同時にエールとしなければならないのではないかと考えた。竹原ピストルが詩に乗せた想いはどうあれ、そう解釈することがこれからのぼくにとっての最適解のような気がしたからです。
では、具体的な行動としてあらわすにはどうすればよいのでしょうか。
真っ先に思いついたのは「捨てる」ことでした。
変わりつづけようとするのは正しい。しかし、それまでに積み上げてきたものを捨てなければ、本当の意味で「変わった」とは言えないのではないか。そう考えたのです。
では、何を捨てるのか。
そう考え始めたとき、いくつかの候補として浮かび上がってきたのは、ぼくが寄す処としてきた、あるいは骨格としてきたいくつかの事柄でした。
ですが、ここでは明かさないでおこうと思います。
そのような大胆なことが、はたして己にできるだろうかと思ったとき、身ぶるいをするような感覚に襲われたからです。有言をすることで自らの逃げ場をなくして実行せざるを得なくする、という手法を採用することが多いぼくですが、今回ばかりはさすがにビビってしまったからです。
しかし、考えてみれば、それほど怖気づくことではないのかもしれません。
ドラスティックな変化を遂げるには、一気呵成に「捨てる」を実行しなければならないのでしょうが、ぼくは何も、劇的に変わろうとしているわけではなく、なんとなれば「漸進」は、かねてよりのぼくのモットーでもあるのですから。
すると、またあることに気づきました。
それならば、これまでずっとやってきたことに他ならないではないか。
そう思ったのです。
何のことはありません。
積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。その勝負の相手は他ならぬ自分自身。
ぼくのこれまでは、まさにその通りでした。
それなのに今さら何を。
ふぅー、あらあら、なんと回りくどく、かつ遠回りする思考でしょうか。
我ながら少々情けなくなってきました。
しかし、「勝負の相手は自分自身」であることや、「積み上げてきたものを捨てる」ことを、強く意識するのとしないのとでは大きな差があるにちがいありません。たとえ緩やかな変化であったとしても、意識的でなければ積み上げてきたものを捨て去ることはできず、どこかにその残滓があったままであれば、それへの未練に引きずられてしまうのは必定です。
そのことに気づいただけでも、この遠回りには意味があったのではないでしょうか。いや、きっとあったと思い込むこととして、この回りくどいテキストを締めくくることにします。でわ。