LINEの着信音が鳴った。
知人からだ。
折しも、ある事業が終わったのに伴う事務処理についてやり取りをしていた人だ。
どれどれ、とのぞいてみると、約2時間を要し仕上げていた渾身のテキストが、完成間際になって飛んでしまったのだという。
なんとも言いようがない。
「ご愁傷さまです」
とだけ返した。
と、それから1時間以上が経っただろうか。
ふたたび連絡があった。
己を叱咤激励して再開したものの、また消えたらしい。
今度はかける言葉がない。
かつてはぼくにも、その手の事象がよくあった。
だから気持ちは痛いほどわかる。
しかし、クラウド(主にOneDrive)上で仕事をし、なおかつOffice製品であれば自動保存がオンになっている今のぼくには、ほとんど起こらないことだ。
とはいえ、まったくないかといえばそんなことはなく、現に今、こうやって書いているgooブログでは、年に何回かは、それこそ渾身の一文を雲散霧消させてしまうことがある。
ふたたび書き直すのは、意を決しさえすればさしてむずかしいことではない。前の文が脳内に残っているのだから、むしろ最初よりよいものになることもないではない。しかし、それが二度つづくともうダメだ。
昨今流行りの「心が折れる」という言葉は、あまり使いたくないのだが、まさにそれがピタリと当てはまる心情となる。
それだけではない。
つい先日は、なんの拍子か、クラウドではなくデスクトップで新規作成をしたWord文書を保存し忘れて飛ばしてしまった。しかも作成途中ではない。全部できあがって資料として使用したものが消えていたのだ。
あれ?あれ?あれ?
デスクトップにあるのは、表題だけつけられた中身が真っ白のファイルだけ。どこをどう探してもないその調査報告書は、説明用にプリントアウトして三者に配布しており、内輪でいちばんぼくの恥を飲みこんでくれそうな人に頼んで、紙をPDFにしたものを送ってもらい、それをもとにキーを叩いて復元し、あとの二者に対しては何事もなかったかのようにダンマリを決めこんでいる。
このようなエラーはシステムの不具合である場合もあれば、ヒューマンエラーである場合もある。
いずれにしても、そういったことが起こらないようにするためには、人間の心持ちとか取り組みように頼らず、マシーンやシステムをエラーが起こらないようなものに改変することが最善策だとされている。
もちろん、ぼくとてそれに異論はない。
といっても、それを扱うのは、現状のところはあくまでも人間だ。
だから極力人間を排除していくのだ、という方向は上の文脈からいえば正しい。
しかし、人間の関与がなくなればなくなるほど、その仕事は味気ない。
まったくもってぼく個人だけの意見にすぎないが、人の介在がなくなればなくなるほど、ぼくはその仕事をきらいになってしまう。
だからだろうか。ときとして不完全な自分がかわいらしく見えてくることもある。いや、たぶんそれは甘えなのだろう。できない自分を許すための方便なのだろう。しかしぼくは、そこを捨て去ろうとは思わない。
「不完全であるというのはいいなって。生きていく上で不完全だから進もうとするわけで」
きのう、米国野球殿堂入りしたイチローさんは、「あと一票」で満票を逃したことについて、そうコメントしたという。
よもや、あのイチローとこの辺境の土木屋を比べるつもりもないし、比べようもないほどに彼我の差はある。そして、「だから完全を目指す」のだという彼の文脈は完全無視した勝手な言い草ではあるけれど、なんとはなしに、「不完全」というその言葉が胸に染みた一日だった。