答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

いやし

2025年01月20日 | ちょっと考えたこと
「いやし」である。
といっても、昨今もてはやされる「癒やし」ではなく、食べ物に執着する、あるいは、食べ物をやたらとほしがる人を指して言うところの「いやし」、つまり、「いやしんぼ(卑しん坊)」の略としての「いやし」である。「卑しい」と「坊」を組み合わせた言葉だから、もちろん、相手を見下げて用いる語句にちがいない。

とはいえそんなことを言うと、ぼくを知っている人なら十中八九が首をかしげるにちがいない。そう。それほどにぼくは食が細い。一般の成人男性と比べると、半分は大げさにしても、けっこうな割合で少食だ。いや、若者が相手だと半分ほどかもしれない。昨今流行りの「大食い」に毒された人ならば、それこそ月とスッポン、比較の対象にもならない。

そうはいっても、少食と卑しん坊が並立できないわけではない。別に完全対立をした概念ではないから、立派に同居ができる。ただただ、わが身が欲するほどには食べ物を摂取することができないだけのことだ。したがって、「いやし」でありながら少食である身は少々悲しい。

とはいえ元来が少食だったわけではない。若いころなら、食堂に入っても、麺類を単独で食することはほぼなく、必ずといってよいほど丼ものがセットだったし、呑んだあとのシメのラーメンはもちろん必須、なんならシメの焼肉がマイブームだった時期もある。事ほど左様に、人並みには食っていたはずだ。
そんなぼくの今ここにある食の細さは、自らのぞんだ節制が習慣化して身に着いたものと、いつからか棲み着いた胃弱が絡みあってそうなったものとの合作としてある。

そうそうそういえば、母はよく、「いやしは料理が上手になる条件」と言っていた。たしかに、そう言われてみれば思い当たる人は多い。
「いやしならば料理上手である」と「料理上手ならばいやしである」は同時に成り立たないが、「いやし」が料理上手になる蓋然性は高い。その本質は「欲」だろう。
それを踏まえて亡母の言葉を言い換えると、「料理が上手になるには欲をもつ必要がある」となる。こう表現するとほとんどの人に異論はあるまい。食欲がある一線を超えると「いやし」になると同時に、あの味を再現させて口にしたい、また、誰かに食べさせたいたい、そしてさらにそれをアレンジして向上させたい、という欲が料理上手を生み出す。

「食いたい」と「向上したい」、両者に通底する共通項は「欲」である。
つまり、「いやし」は欲深さが具現したものとしてある。
考えてみればぼくの場合の「いやし」も、食に関することだけではない。何につけても「いやしんぼ」、これがぼくという男の本質だ。
そう、ぼくの「いやし」もまた、生来の欲深さの発現としてある。

それがよいのかわるいのか。これはどちらとも言えない。時と場合によるとしか言いようがない。少食は「器」であり、「いやし」は「心」だ。欲深さを、器のちいさい身のうちに抱え70年近い歳月をすごしてきてみれば、いささか持て余し気味で鬱陶しいときもある。

たとえば、
「オヤジ、そりゃちょいとばかり欲が深すぎやしないかい?」
そう問いかける別のぼくがいると
「バーカ、これが向上心というやつぢゃないか」
と即答するぼくがいる。
どちらに軍配が挙がるか。それはその時々の体調や気分等々。あくまでも自らの身の内にある。どちらにも偏ることなく、折り合いをつけながら平衡を保つのも自分次第だ。しかし、多くの場合では「欲」が勝ることとなる。
近ごろもまた、その例に漏れず、やたらと食い気に走る自分がいる。
すぐに器が満杯になることを承知して上手に使えば、モティベーションアップのためにこの上ない良薬となるが、さて・・・。

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