春まだ浅いモネの庭で咲くチューリップの数はまだまだ少ないが、主役であるそれとのコントラストを意識して植えられているのだろう、その脇でこじんまりと咲いているブルーのちいさな花がわたしの目を惹いた。たしか去年もあったはずだが、心なしか今年のそれは、ずいぶんと数が多いような気がする。
その昔(中世ヨーロッパだという)、ドナウの岸辺に咲くこの花を、恋人に贈ろうとした青年が川に落ち、つかんだ花を岸辺に投げて、「私を忘れないで」という言葉を最後に流されていったという話が、忘れな草というその名の由来だという。
別れても心の奥にいつまでも
憶えておいていてほしいから
幸せ祈る言葉にかえて
忘れな草をあなたに
そんな詩が思い浮かんだが、ひょっとして盗作か?
いやいや、盗作もなにもそのまんま(『忘れな草をあなたに』)。まったく、オリジナリティーの欠片もないオヤジには困ったものだが、そんなことはさておいて、春先のモネの庭を彩る花のなかには、もうひとつ、「私を忘れないで」という花言葉を持つものがある。
クリスマスローズだ。
この花言葉もまた、中世ヨーロッパに起源を発する。戦場におもむく青年が、村に残した恋人にこの花を贈り、その意を伝えたという。
じつを言うと、近年ご婦人に大人気のこの花をわたしはあまり好きではない。なぜか。いつも俯いていてその顔が見えないからだ。好きなひとにとっては、その奥ゆかしさが素敵なのだろうけれど、わたしにとって花というのは、その姿の大小や派手であるか地味であるかにかかわらず、それなりに存在を主張しているものだという認識がある。たぶんそれだからだろう、その範疇から外れているようなたたずまいのこの花に、どうしても感情移入をしずらいのは。
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、先をゆく妻が、「ほらコレ」と道のかたわらを指差した。
八重のクリスマスローズだ。この花にしてはめずらしく、毅然と前を向いている。こんな跳ねっかえりもいるのだと、なんだか少し微笑ましかった。
ことほど左様に、おなじ種類の花だとはいえ、そのじつは千差万別。十把一絡げで、類としてあの花がよくてこの花はよくないというのは、花という植物を愛でるにおいて正しい姿勢とは言えないのではないか。ここにあるコレが好き、あそこにあるアレはイマイチと、個かグループとしての評価をしてやるのが筋というものではないだろうか。
しかしそれにしても、別のどこかで咲けば、またちがった趣となる場合も少なくはないはずだ。「やはり野におけ蓮華草」とはよく言ったものだ。肝心なのは、そこにある個あるいはグループとしての「蓮華草」に、その「蓮華草」にとっての「野」を与えられてやっているかどうか。それが勝負の分かれ目だ。言わずもがなであるが、この場合の「蓮華草」は比喩である。ことは「花」のみに限らない。
あれ?あらあら?
書くうちに、なにやら雲行きがあやしくなってきたぞ。
なんだかどんどん、論旨がちがう方向に行ってしまった。
元へ戻そう。
「花」のことである。
(たぶん)
(いやきっと)
(強引だが)