このひと(あのひと)と巡り会ったことが、その後の仕事や人生において重要な意味をもった。誰しもに、そう思えることがあるのではないだろうか。そして多くのひとは、だからその出会いが自分にとっての必然だったと捉える。
しかしそれは、数多ある他の巡り合いを記憶の彼方に置き去り、その邂逅を残しておくという選択をしたということでもある。
いつの場合でも出会いは偶然でしかない。その偶然を必然たらしめたのは、それぞれの選択ゆえである。
選択はいつの場合でも、究極的には能動だ。もちろん、そうせざるを得なかったという場合はある。苦渋の選択というやつだ。そして、悲しいことに心身をコントロールされてしまい、何がなんだかわからぬうちに選んでしまうということもあるだろう。しかし、最終局面における判断は自らがする。その一点において選択は能動だ。
その一方で、人間はまちがいなく受動的な生き物だ。すべてが受動から始まる。自らの意思でそうしたことも、その元をたどっていけば、必ずどこかの誰かが起こした何かに行き当たるはずだ。これを言ってしまえば身も蓋もないかもしれないが、自分の意思でこの世に生まれ落ちた人間など、古今東西を見渡しても誰一人としていない。まずスタートは受け身。受動を起点とし、何かを感じ何かが動く。
事ほど左様に、人はすべてが受動的だ。
けれど、受動の先には必ず能動がある。
とはいえ、ぼくが意識をして主体的であろうとしてきたのは、そう考えてきたからではない。むしろ逆である。受動からの脱却を企図したがゆえに能動たらんとした。そうすれば受け身から脱することができると信じていた。まちがいない。
しかし、ぼくは今、すべてが受動であることに気づいた。
いやたぶん、ずっと前から漠然とわかっていたはずだ。ぼく起点のものは何もない。今さら気づいたことではない。しかしそれは、ぼくという個人の特性だと思っていた。だから主体的に能動であろうと努めてきた。それに悩み、脱け出そうともがいた。
とはいえ人は受動だ。それは誰も変えることができない設定だ。能動たらんとするのはけっこうなことだが、だからといって受動的であることから脱却することはできない。
それらを踏まえてなお、ぼくは能動的でありたい。それがリ・アクションにすぎなくても、自ら進んでアクションするという態度は捨てたくない。換言すればそれは、言われるがままに受け入れるか否かだ。
受動を起点として何かを感じ何かが動く。そしてその先のすべてに能動がある。その能動を自らのものにするかどうかは、言動の主体である当人次第だ。
と、このようなことを考えてみたところで、表面上でドラスティックに変わるものは何もない。能動的であろうとする姿勢も変わらないだろう。ただ、すべてが受け身から始まることを理解しているのといないのとでは、心持ちがずいぶんとちがう。そしてそれはやがて、言葉や行動にもあらわれてくる。
かもしれない。
ような気がする。
たぶん。