答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

その怒り、いったん棚あげしてみない?

2025年02月14日 | ちょっと考えたこと
その怒り、
いったん棚上げしてみたら?

というキャプションを、顔を真赤にして怒るかつての自分の写真につけて、ケータイの待ち受け画面にしたのは、昨年の10月初旬のことでした。
企図したのはアンガーマネジメントです。
いくら「キレてないよ」と抗弁しても、誰がどこからどう見ても「キレてる」としか思えないスキンヘッドのおっさんが、口角泡を飛ばす勢いで眼前の誰かに何かを言っている。それが自分自身だということで羞恥心を呼び起こし、さらにそこへ「棚上げしてみたら?」という揶揄的な提案が重なって、「怒っている」という現実に歯止めをかけようとした。しかもそのフォントは「KFひま字」というふざけた、いやのんびりとしたフォントときているのですから、これはもう効果抜群だろうと、われながら自信満々の企画でした。

「怒る」という感情を抱くのは致し方がない。少なくともぼくの場合は、それを捨て去ることが不可能です。
問題は、その「怒り」に執着する心です。それによって自分で自分をエキサイトさせ、さらなる「怒り」へとエスカレートさせるのは、「怒り」という感情に取り憑かれてしまった自分自身に他ならない。ならばそこへ至らぬような手立てを考えればよいではないか。
その企ては予想どおり、いや想像以上の効果がありました。
もちろん、そうそうすべてが上手くいくはずもありません。激してしまえば、そのようなものは役に立たず、何度見返しても、燃え盛った炎を止めることができない場合もありますが、少なくない割合で「怒りの自家中毒」を抑止することができています。
それを思えば、わたくし史上、近来まれに見る大発明だと言えるでしょう。

つい数日前のことです。その傑作を捨てることにしたのは。
代わってそのポジションについたのは、生後2ヶ月の赤子でした。
その目に映るものをまだ何だとも認識しない眼(まなこ)は、当然意思的でも意識的でもなく、それゆえに初心(うぶ)であり無垢です。
しかも他人ではありません。身内です。孫です。
そのぼやーっとした顔がぼくを見つめて(実際に見つめてはいないのですが)こう言うのです。

その怒り
いったん棚あげしてみない?

少しですが文章を変えています。語尾を「みたら?」から「みない?」に。つまり、「みたら(どう)?」から「みない(ですか)?」にです。フォントも代えました。よりやわらかみを出すためにチョイスしたのは「うずらフォント」です。

以前のそれは、例えていえばイソップ寓話『北風と太陽』における「北風」です。強い刺激を与えた先に成果を得ようとします。今怒っているぼく自身が、かつての怒っているぼく自身を鏡に写った今の己の姿とし、「で、これが恥ずかしくないのかオマエは?」という問いを、自分に向かって投げかけることで、「怒り」という感情をそれ以上昂らせないようにします。その形態は対決です。

今度のそれは「太陽」です。あたたかい光で包みこみ、力業を用いずに穏やかに目的を達成しようとしています。「棚あげしてみない?」と問いかけるのは幼子です。まごうことなき人間ではありますが、人というには相応しくないほど無垢なその眼に見つめられることで、なんだかよくわからないけれど崇高なものに包容されているような気にさせられます。そうこうしているうちに、燃え盛ろうとする「怒り」の炎は、どこかへ消えてなくなるか、または、ちいさなそれに変わるかします。前者を対決とするならば、こちらは対話でしょうか。

「怒り」への執着は、自らの正しさに固執する心でもあります。それが強くなればなるほど「怒り」は激しく大きなものとなります。それを断ち切るために強い刺激を用いるのは、たしかに有効な手段にはちがいないのですが、そうなると、「怒り」と「刺激」の強度の勝負としかなりません。強い「怒り」には、それよりさらに強い「刺激」でなければ太刀打ちできないのですから、終いには、殺るか殺られるか、そこまで行かないと決着をみることができません。

アプローチを変えてみる。
これが対他者ならば、ふつうに思いつくことなのでしょうが、こと自分となるとそう易易とは事が運びません。ついつい正攻法で正面からぶち当たってしまうがゆえに、敵対する自分とそれを崩そうとする自分の双方を傷つけてしまいます。己を御するのは、それほどに困難なものなのです。
だからアプローチを変える。
壁を穿ち叩き壊すのではなく、すっぽりと包みこんでしまうのです。


数日が経ちました。
多くの方のご推察どおり、そこまで思考を巡らせて実行したのではありません。単なる思いつきを後付で言語化し理論を付与して、自らを納得させているにすぎません。
結果はどうなのか。
残念ながらというべきか、幸いにというべきか。未だこの身には、それを必要とする「怒り」が訪れてはおらず、検証する機会そのものがないのが現実です(ひょっとしたら未然に防いでいる可能性もあります、いやホント、そうかもしれない)。
しかし確信があります。これはわたくし史上まれに見る大発明だと。
とはいえぼくの怒りんぼが、それで鎮火してしまうようなやわなものではないことは、当の本人こそが十分承知をしております。
ですから、でき得れば、これが効果を発揮できないような事象に巡り合ったそのときに、水戸黄門の印籠よろしく、ぼくの眼前にその待ち受け画面を差し出す方がいてくだされば、それに越したことはないとお願いを申し上げて、本日の稿を締めくくることといたします。

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