答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

牛の歩みの

2022年06月07日 | オヤジのICT修業

 

きのうお知らせした『北海道土木・建築ICT促進展』で話すシナリオが固まった。といっても、たぶん直前まで修正を繰り返すのだろうが、とりあえず決まった。

お題は『中小零細建設業でBIM/CIMをたのしむ』だ。案内には「CIMをたのしむ」とあるが、BIM/CIMに変更した。たしか以前にも書いたが、わたしはBIM/CIMという呼称があまり好きではない。したがって、たいていの場合は、CIMで通している。ではなぜ今回はBIM/CIMなのか。口に出してみるとそっちの方が語呂がよかったからである。

「CIMをたのしむ」と「BIM/CIMをたのしむ」。つまり、「しむ」と「たのしむ」とをかけ合わせただけよりも、「びむしむ」と「たのしむ」を対比させた方が韻を踏んで語呂がよい。そんな駄ジャレでタイトルを変えてしまうのだから、このオヤジ、あいかわらず大したことはない。

話のメニューは、大まかに2つ。まず前半を「たのCIM概論~なぜBIM/CIMが必要なのか~」、後半には「たのCIM実践編~12年の牛の歩み~」と名づけた。

「牛の歩み」とは、やらなければと気づいた12年前から今に至るノロノロとしたわたし(たち)の軌跡のことである。

それについては、ほんのこの前まで「亀」と自称していた。たぶん、先月末の幕張メッセでもこんなふうに言ったはずだ。

「10年以上もやってこの程度でしかない。亀のような歩みです」と。

しかし、あのあとすぐ、「亀」ではないなと気づき、「牛」にすることにした。停滞、つまり歩みを止めていた時期がけっこうあるからだ。歩いては止まり、止まってはまた歩きはじめを繰り返してきたことを思い起こせば、それはどちらかといえば「牛」の方が適当だろうと考えたのである。

それについては、もうひとつの理由がある。

ご存知の方も多いだろうが、時に牛は走る。本気で走ると、トップスピードは時速24kmほどにもなるという説もあるほどだ。100メートル走換算なら15秒。小学生ならけっこう速い(たぶん)。はて、今のわたしがそのタイムで100メートルを走り抜くことができるかと考えると、なおさらである。

そう、「やるときゃやるぜ」の想いを「牛」という比喩に込めた。

とはいえ、ひょっとしたら、ずっとトップスピードでは走らないままなのかもしれない。いや、その蓋然性はかなり高い。しかし、可能性がないではない。

それが「亀」であっては、可能性がゼロだ。夢も希望もない。だから「牛」である。

さて、いかような話になるのか。自分でもたのしみだ。

わるくないのではないか。秘かにそうも思っている。

(といって自分でハードルを上げる無謀なオヤジ)

 

 

 

 

 

 

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夢の中

2022年06月06日 | オヤジのICT修業

 

今週9日、札幌で一席務めることになっている。

自宅でその資料づくりに勤しんでいたきのう、朝、部落総出で行った県道の草刈りの疲れが出たのか、知らぬ間に落ちて、20分ほどとろとろと眠ってしまっていた。

といっても、まどろみながらもストーリーをずっと考えていた当の本人には、眠ってしまった感覚がない。

その夢の中、よいフレーズが降りてきた。

これだ。

目があいた。

夢か。

ここでようやく眠りに落ちていた自分に気がつき、すぐにキーボードに手を伸ばした。

だが・・

出てこない。

うんうん唸っても出てこない。

いくら待っても出てこない。

待ち疲れても出てこない。

一夜明けても未練はたらたら、また挑んでみたが出てこない。

嗚呼、なんてこったと地団駄踏むが、そもそも縁がなかったのだとあきらめた。

果たして、逃した魚は大きかったのか、そうでもなかったのか。

そもそも手がかりすら思い出せないのだもの、想像することもできない。

みんな夢の中、である。

 

 

 

 

 

 

 

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CIMからはじまる・・・

2022年05月31日 | オヤジのICT修業

 

『CSPI-EXPO(建設・測量生産性向上展~次代を担う、最先端技術が一堂に~)』に行ってきた。目的は、TOPCONさんのブースで午前と午後1の回ずつ、対談形式での事例発表を行うことだった。

主催者さんが題して『CIMからはじまるICTの世界~小規模現場への挑戦~』。

さて、わたしたちがやってきたことが、その立派なタイトルに相応しいかどうか、おおいに疑問ではあるが、そこはそれ。のろのろと、しかもしょっちゅう立ち止まり、また歩き始めるという繰り返しの、牛のような亀のような12年間の歩み(たぶんこれからも)の一端を披露してきた。

対談形式といってもフリートークではなく、シナリオがあり、わたしが司会役や進行役に聞かれたことについて答えるという繰り返しで進んでいくスタイルだ。といっても、がんじがらめの脚本があったわけではなく、大まかなシナリオにもとづいての進行だが、当然そこには、わたしがイニシアチブをとる場面は一切でてこない。

じつをいうとわたしは、そういった形式が苦手である。これまでも、そういう形ではいつもしくじってきたという感覚がある。

だが、今回のよかったところは、それが午前午後の二部制だったということだ。同じシナリオで二度やった。つまり、一回目の反省を二回目に活かす機会があったということだ。これがじつにありがたかった。といっても、どちらのデキがよかったか、それは視聴者が決めることで、わたしがとやかく言うことでも、どうこうできることでもないが、少なくともわたし自身の感覚では、後者の方がよかった。一度目よりも二度目、どんどんよくなる法華の太鼓だ。そうなると、欲というのはどうしようもないもので、もう一度やればもっとよくなる、という思いもなかったではないが、そこはそれ、適当なところで止めておかなければ、思わぬところで墓穴を掘りかねない。

てな感じで、満足感と未練たらたらとの双方を抱えながら幕張メッセをあとにした。

繰り返すが、わたしたちがやってきたことが、『CIMからはじまるICTの世界~小規模現場への挑戦~』という立派なタイトルに相応しいかどうか、おおいに疑問ではあるが、そこはそれ。のろのろと、しかもしょっちゅう立ち止まり、また歩き始めるという繰り返しの、牛のような亀のような12年間の歩み(たぶんこれからも)の一端である。それに先立つ前日から、ブースでも繰り返し流されていた動画が、YouTube で公開されている。御用とお急ぎでない方は、ご笑覧あれ。

 

 

 

 

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カタカナ語

2022年02月27日 | オヤジのICT修業

 

この言葉、どこかで耳にしたことがあるが、はて、どういう意味なのだろう。

と思いつつ、何度も何度も飛び交うその言葉の意味を調べようともしなかったのは、会話の中身から、なんとなくではあるがその意味がつかめたからだったし、聞きなれないカタカナ語が飛び交うことが珍しくないその会議で、一つひとつの言葉の意味をいちいち調べていては、肝心の全体像を見失ってしまうからでもあった。

その言葉とはリクワイヤメント。

きのう、あらためて検索してみたのは、とあるSNSでBIM/CIMがらみの話題が出たなか、数人のコメントからその言葉が発せられたからだ。

リクワイアメント(requirement)。

要求されるもの。必要条件。要求物。必要なもの。資格要求。(『カタカナ語の意味・発音・類語辞典』より)

ふむふむ、ナルホド、ほぼ想像したとおりだ。

おあつらえむきに、こんなwebページも見つかった。

令和3年のリクワイヤメントはBIM/CIM活用ガイドラインにヒントあり!

******

令和5年度の原則BIM/CIM化が進む中、BIM/CIM対応を行う上でますます重要度が高くなっている「リクワイヤメント」。リクワイヤメントとは、発注者の要求事項を意味しますが、毎年その内容が変更されているのはご存知でしょうか。

(中略)

工事では、下図のリクワイヤメント表の4項目はいずれも選択項目で「(3)リスクに関するシミュレーション」「(4)対外説明」は業務と同じです。工事におけるBIM/CIM運用では、「3次元モデル成果物作成要領(案)」に基づく成果品がある場合、これを用いた設計図書の照査、施工計画の検討が令和4年度から必須となります。

******

「下図」として示されていたのは、国土交通省の資料だ。

 

(『令和5年度のBIM/CIM原則適用に向けた進め方』国土交通省、より)

 

ナルホド。

どうやら、「なにその言葉?」とかいう疑問を差しはさむなどは許されないレベル、つまり、ふつーに用いられている言葉のようだ。そもそも、このようなことを書いている時点で、その筋の人たちからすれば「今さらバッカでないの?」と笑われるのがオチだろう。

だが、まあよい。少なくとも、この辺境の土木屋周辺では、まだまだ一般的な言葉ではない。どころか、使っている人などは、ほとんど見たことがない。

となれば選択肢はひとつ。

ついきのうまで知らなかったことには口をつぐんで、知らぬ顔の半兵衛を決めこんで使えばよいだけのことだ。

 

リクワイヤメント

リクワイヤメント

リクワイヤメント

 

よし、これでカンペキ。

この先、この言葉を、さも当然のごとくふつーに使っている自分の姿を想像しただけでちょっぴり笑えるが、そこはそれ。そんなことに羞恥を覚えるほどウブではない。

だからお願いだ。

もしわたしがその言葉を発したのを耳にしたら、どうか笑わずにスルーしてほしい。

なんとなれば、それが正しい大人のリクワイヤメントというものであるのだから。

(あれ?この使い方チトちがうか? )^o^(  )

 

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ふだん使いの・・

2022年02月15日 | オヤジのICT修業

 

「ワンデー(レスポンス)ですから」

受話器の向こうから聞こえた、何年ぶりかさえわからないような言葉に、思わず耳をうたがってしまったが、それが事実であることにまちがいはなかった。

じ〜ん・・

感激にひたるまもなく引きもどされた現実で、言葉の主は、今から現地を確認に行きたいと言う。

ありがたい。そして「ワンデー(レスポンス)ですから」と言ってくれたのだもの。かつて、そのムーブメントの旗振り役のひとりだった身としては、是が非でもそれに応えなければならないところだ。ところがいかんせん、現地には判断するための杭もなければ丁張りもない。

わたしが投げかけた質疑の資料は、2次元図面と3次元モデルをいくつかの角度で切り取った、いわゆるパースだ。それだけで判断することなく現地を見たい、というのは、事においてまじめな態度と言うべきだろう。

それに対して、あろうことか「日をあらためて」と答えてしまったわが身が情けなかったが、上述のような理由だ、仕方がない。

であればと、現地の現況点群(の上にTINを張っている。つまり3次元モデル)を引っぱり出し、ああでもないこうでもないと検討していた。

と、以前から試してみたいと考えていた方法が思い浮かんだ。

発注者側の出先事務所とZoomでつないで、この画面を共有し、そこで説明すれば現地へ行く必要もなく、説明するための準備も要らないではないか。

さっそく連絡をとり、実行する。Zoomで3次元モデルをぐるぐる回す。結論が出るまで、10分はかからなかったはずだ。準備を合わせても30分はかかってないだろう。日をあらためて現地で協議するとすれば、どんなに早くても明後日にはなっていたはずだ。

いや、単なる時間比較だけで、この効果を検証するには不十分だ。その準備には当然のように人手が必要だし、ただでさえ人手不足で汲々としている年度末に、それが翌日できる保証などなにもない。わたしたちの仕事においては、時間は常にそれに要した人数とセットで考えなければ片手落ちである。

 

期せずして、「オンライン+3次元」の威力を再認識した。

思わず自慢げに書いてしまったが、(たぶん)名案でもなんでもない。「今という時代」においては当たり前だのクラッカー、デキる人にとっては「ふつう」のことなのかもしれない。いや、きっとそうだろう。

しかし、これだけは言える。

役所は、いわゆる遠隔臨場や、いわゆるオンライン会議には熱心だが、こういう使い方を推奨してはくれない(あ、少なくともわたしが見聞きする狭い範囲内でのことです。全国的にどうかはわかりません)。

オカミから下りてくるツールや手法を、オカミが提案したり推奨したりする方法でだけ使っていても、自分たちの業務改善はできない。もちろんのこと、「働き方」を変えることもできない。ICT施工しかり、BIM/CIMしかり。「官という発注者」を相手にしている以上、その要求に応えていくのは「民という受注者」の存続にかかわることにはちがいないとはいえ、自分という個人や自らの組織をどうするこうするは、それとは異なる次元で考え、実践しなければならないことである。

きっかけが「上流」からであることには、なんら問題がない。だが、示された使途だけが使い方ではない。せめて使い方ぐらいは自分で考えられなければ、結局のところ、それを自らの武器とすることなどできはしない。ヒエラルキーソリューションはきっかけになれこそすれ、そこだけに頼っていても、本当の意味でのソリューションにはほど遠い。今風な表現を借りれば、「ふだん使い」をどれだけできるかが勝負の分かれ目なのである。

と、ほんの少しばかりの思いつきが、たまさか上手くいったのをよいことに、またすぐエラそうなことを書いてしまうのは自分自身でもどうかとは思う。だが、そもそもわたしはデキる人たちを相手にしてはいない。それは、自分がそれほどでもない以上、当然のことだ。デキない人、悩んでる人、試行錯誤をしている人、悪戦苦闘してる人、七転八倒をしている人、わたしが書いたり話したりするときの対象は、これまでもこれからも常にそういう人たちだ(つもり)。

ということで、おすそ分けのようなものである。

いつもながら、理屈っぽいのは笑って許してほしい。

 

それにしても・・・

「ワンデー(レスポンス)ですから」

今でもそういう人(はっきりと口にするという点において)がいるのだ。

ちょっと感激。

 

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ニュースター誕生

2021年12月20日 | オヤジのICT修業

 

iPhone の機種を変えた。13ProMax にである。

最大のお目当ては、LiDARスキャナ。

まだご存知でない方のためにかんたんに説明すると、「LiDAR」とは「Light Detection and Rangin」の略。直訳すると、「光検出と測距」である。レーザー光を利用して離れた物体の距離を測る仕組みだ。

 

 

 

 

まだ、ごくごく初心者のわたしでも、これぐらいの3Dモデルがすぐできる。

言わずもがなであるが、「iPhone を使ってできる」というところが重要だ。

これからの「土木の仕事」は、いわゆるケータイ、スマートフォンでどれだけのことができるか、どれだけのことをやるかがポイントになってくるのではないか、という個人的な思いが動機となって機種変更とあいなった。とはいえ、いやはやまったく、昨今のこの分野における進化はとどまるところを知らず、1年後にはどうなっているのか、また何が飛び出しているのか、この辺境の土木屋ごときの頭脳ではわかるはずもないのが正直なところだ。だが、それはそれとして、これまでどおり周回遅れでもよいので進むのを止めることだけはしないでおこうと思っている今日このごろ。

そんななか、先週訪問した徳島県美馬市の高木建設さんで、すばらしいプレゼントをいただいた。

これである。

 

 

 

 

ある重機オペレーターが現場の手順をポンチ絵で描いたものだ。

もちろん作業のあとではない。これからやる作業を自分のアタマでイメージし、それを図化して自分自身で確認する。そしてそれを他人に伝える。いわば作業手順マンガとでもいおうか。

同じ現場のものではない。左半分と右半分で現場が異なっており、作業もちがう。

左は土取り場に持ってある土をダンプトラックに積み込む作業である。

 

 

 

 

 

右は2種類の土砂を混ぜて盛土材をつくっているところらしい。

 

 

 

 

といっても、向こうさんから「こんなんありますけど」と、わたしが頼みもしないのに見せられたわけではない。

高木建設さんのブログに載っていた画像を見つけたわたしが、画像データか原本の写しを所望し、それを受けた彼の会社が別件で訪問したわたしに手渡してくれたものだ。

しかも、原本が本人によってすでに廃棄されていたのを、また本人に頼み込んで復元したうえでわたしにプレゼントしてくれたというおまけつきである。

よくよく見るとそのデキはまことに味があり、ところどころに出没している人や鳥の存在がシュールな味わいを醸しだしているが、そこは作者独自のカラーであって、わたしが「すばらしい」と思うのはそこではない。

杜の都のヒゲブチョーが提唱した「無電源CIM」をこのブログで紹介したのは、今年の4月だ。

→『無電源CIM

アタマのなかにあるメンタルモデルを、とにもかくにも視覚化する。手描きの図でも粘土のモデルでも、なんでもよいから「目に見えるカタチにする」。そこが重要であって、それに用いる手法が何であるかは、副次的な意味合いしかない。「無電源CIM」という仕事のスタイルは、まさにそれが発現したものとしてあるということを、ヒゲブチョー配下の「しらとり画伯」の絵とともに紹介した。

画伯といえば、奇しくも、高木建設さんがわたしにこの絵を手渡してくれたときに発した作者の名前が「ひのき画伯」。「無電源CIM」界にニュースター誕生である。

よもや、かの国交省がその施策に「無電源CIM」を取り入れるなどとは夢にも思わないが、「なんでもよいから目に見えるカタチにして伝える」、これぞ基本、これぞ原点。先端の手法にこだわるだけでは、本質を見誤ってしまうということになりかねない。

そのこと、技術者も技能者も、くれぐれもお忘れなきよう。

 

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トラックボール

2021年12月10日 | オヤジのICT修業

 

 

 

わたしがトラックボールマウスを使い始めたのは、この夏ごろからだったろうか。

最初は、こりゃダメだと投げ出そうとした。

が、はじめてマウスというやつに触れたころを思い出し、あれに比べれば、と思い直した。手と肩にちからを入れガチガチになって、それでも「これを使いこなせねば未来はない」と思い定め、必死で慣れようとした約20うん年前(大げさではなくマジでそうでした)。あの時を思い出せば、すぐに「おらヤメた」という選択肢はない。

ところが、習うより慣れろとはよく言ったもので、道具などというものは結局のところ「慣れ」である。従来のホイールマウスとの併用でぼちぼちと使っていると、近ごろでは9割方はこれで用が足せるようになってきた。あとの1割とは、切り抜きやお絵描きなどの操作で、そこらへんはやはり従来型に分があり、それはそれでまあいいじゃないかというような感じで今のところは落ち着いている。

そんななか、数カ月ぶりに終日3次元モデル作成にいそしんでいたきのうのことだ。

こりゃいい。いよいよオレも使いこなせてきたか。そう思いながら調子よくモデリングをしていると、右の指がかたまって動きにくくなってしまった。

 

 

 

 

一度そうなってしまうと、そこからは、固まってはほぐし、ほぐしては固まり、またほぐしてまた固まる、を繰り返しながら、日がな一日3次元モデリングにいそしんだ。

トラックボールの場合はマウスを動かす必要がなく、一点に固定して、指先だけを動かせばよい。そのせいだろう。

え、ホントにそれだけか?

いや、もちろん「そのせい」ではある。

しかし、根本原因はそこではなく、指の関節や筋肉が固いせい、つまり老化とたぶん運動不足である。

かといって、そんなおのれが悲しくはない。

固まる。笑う。ほぐす。固まる。ほぐす。笑う。

まこと厄介なことではあるがこれが現実だ。

ぼちぼちやろう。

 

 

 

 

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わからないけどやる

2021年10月28日 | オヤジのICT修業

 

松尾さんの話を、一週間で3回聞いた。

一度はわたしが前座を務めたのだが、それはまあ置いておこう。

個別では何度か話をしているが、講義形式で彼の話を聞くのははじめてだった。

わたしたちの仕事は、いったいどこへ行くのだろう、いったいどこまで行くのだろう。そのなかで、いったいオレはどうすればよいのだろう。

そんなことを考え、思いながら聴いていた。

で、結論。

 

そんなこと、この辺境の土木屋にわかるはずがないではないか。

わからないけどやるのだ。わからないからやるのだ。

「おいおいおっさん、そんなんでええの?」

そう問われたならば毅然として、いやいや、少々はにかみながらアタマを掻きかきこう答えよう。

「だってわからないのだもの」

であれば、

「わからないからやる」

しかないではないか。

結局、明日からも今日までとおなじである。

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コウセイ畏るべし

2021年06月24日 | オヤジのICT修業

 

念願だった安芸桜ケ丘高校・礒部組連携授業がいよいよはじまった。

当社のトップバッターとなったのは誰あろう、このわたしだ(っていうほど勿体がつく話ではないが)。

記念すべき第一弾のお題は『SketchUpで3Dモデルをつくってみよう』。

「写真撮ってね先生」

と旧知の教員にカメラを渡し、2時間の授業を終えたあと確認をすると、画像のなかのスクリーンに映し出されたそのタイトルは『SkethUpで3Dモデルをつくってみよう』となっていた。

“c“がない。

ないものはない。

悔やんでみても後の祭りである。

新聞業界の格言に「校正畏るべし」というものがある。

どれだけ念入りに文章を校正しても必ず誤植は見つかるものだ、という意味らしい。

元ネタは「論語」である。

「後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」

自分よりも若い者はさまざまな可能性を秘めているし、努力によって将来どれだけの人物になるのかわからない。若いからといって身くびってはいけないという戒めだ。

嗚呼・・・

そもそもがだ。

まともに校正もせずに後生に何事かを教えようというその了見が嘆かわしい。

いくつになっても発展途上人と言えば体裁はよいが、いつになってもいくつになっても、同じ失敗を繰り返すこのおじさんはどうしたことだろうか。

悔いながら、あらためて画像に目を落とすと、じつに機嫌がよさそうにしゃべっているスキンヘッドのオヤジがいた。

いい気になってしゃべるその姿が、マヌケすぎて哀しい。

 

次回、謝るしかないな、こりゃ。

 

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Cゾーンのジレンマ

2021年05月31日 | オヤジのICT修業

他人に対して口が酸っぱくなるほど説いているにもかかわらず、それをついつい自分がやらかしたときほど哀しいことはない。たまのことならばまだカワイイが、よくあるとなると始末がわるい。

他でもない。誰あろうわたしのことである。

ということで本日の稿、懺悔と反省の弁である。

 

標題にある「Cゾーン」とは次のようなものだ。

 

(『「計画力」を強くする-あなたの計画はなぜ挫折するか』加藤昭吉、ブルーバックス、より)

 

同書より説明を引用する。

******

 Aゾーンはもっとも身近な状況で、体験や五感を通して直接確かめることができる領域です。これに対してBゾーンは、主として間接的な情報によって私たちの頭の中につくられる状況です。

 そしてCゾーンは、A・B両ゾーンの状況をもとに想像することができる状況を指しています。

 したがって私たちが関わりを持っている状況は2つあることになります。一つは物理的に直に接することができるAゾーンの状況で、もうひとつは主として間接的な情報によって頭の中に構築されるB・Cゾーンに属する”つくりものの状況”です。

(同、P.39)

******

わたしが「工程」や「マネジメント」、あるいは「ゆる~いCIM」の話をするときに、必ずといっていいほど持ちだす話なので、聞いたことがある人は多いだろう。

この文脈において、いちばん厄介で、かつ問題を引き起こす要因としてもっとも注意を払わなければならないのが「Cゾーン」。つまり、直接的間接的な情報をもとに描くイメージだ。それをもとにしたわたしの前提は、「思い描いていたイメージが異なる」ことに気づかないか、もしくはそれを無視することによって問題の多くは引き起こされているというもので、そこから導きだされるのが、BIM/CIMに代表される「見える化」の有用性と、イメージの擦り合せの大切さ。そして、それを意識し実践することで問題の発生を少なくすることができるという結論である。

 

それに気づき意識し実践するようになってから何年が経つだろう。

もろもろの問題は首尾よく解決するようになったのだろうか。

残念ながら、そしてまことにお恥ずかしいかぎりだが、わたしが問題として感じる回数や度合いは、あきらかに以前より増えている。

これはどうしたことだろう。

そう思い悩み切歯扼腕して地団駄踏むこともたびたびだ。

そんな悩み多きおじさんに、つい先日こんな出来ごとがあった。

 

とある発注機関の某氏に、ある写真を撮ることを依頼された(よくあることだ。あ、今日頼んでこられたあなたではありません。念のため)。

そしてその実行を、その現場にいた者に電話で頼んだ(これもよくあることだ)。

夕方、確認してみたそれは、わたしが思い描いていたものとはまったく異なるアングルだった。

その写真がどういった用途で使われるかの説明はしたが、構図について特段の指定はしていない。

「ドローンを用いる」という手段の限定をしたのみだ。

頼んだわたしは、その目的であれば自ずから撮るものは決まってくるはずだときめつけていた。

実行した彼は、ドローンでそれを撮るのであれば、こうだと思いこんでいた。

そこにすれ違いがあった。

その日のうちに依頼主に送りたかったわたしは落胆し、よせばいいのにこう言った。

「(その目的からすれば)こんなんちゃうやろ。(どんなふうに撮るか)そんなん決まっちゅうろう」

ここまで読んだ方で、わたしの肩をもってくれる人は、おそらくひとりもいないだろう。

こうやって書くとなおさら、わたしの説明不足と舌足らずが一目瞭然だ。

 

「Cゾーン」の差異が問題を引き起こしやすい。→ それを意識し対策を実行する → そのもっとも有効な手段が「見える化」である。その実行を意識レベルに押しこめていては、成否はおぼつかない。だからツールを使うのだ。

わたしはこれを、多くの人の前で幾度となく述べてきた。

それなのに。ああそれなのにそれなのに。

他人に対して口が酸っぱくなるほど説いているにもかかわらず、それをついつい自分がやらかしたときほど哀しいことはない。たまのことならばまだカワイイが、よくあるとなると始末がわるい。他でもない。誰あろうわたしのことである。

とはいえ、現実がどうあろうと、目指すべき理想の旗を降ろしたのではわたしの主義主張に対して申しわけが立たない。自分ができないからといって、他人に対して説くことをやめてしまうのは、自殺行為だ。サムズ・アップした親指に対して直角方向に広げた人差し指でコメカミを指し示してズギュン。てなもんである。

だが、バカは死んでもなおらない。

つづけるも恥、やめるも恥、おなじ阿呆ならやりつづけるしかない。

 

 

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