答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「世の中を数字やモデルだけで捉えるのをやめて、真実の姿として捉えるべきだ。」(クリスチャン・マスビアウ)

2021年05月27日 | オヤジのICT修業

オオタニさんの打棒がとまらない。

******

(『THE PAGE』05.27.5:40配信、より)

大リーグ公式サイトは「“ハードヒッティング・ショー”…大谷が117マイル(約188キロ)の本塁打をかっ飛ばす」との見出しを取り報じた。  記事は「打撃速度で、これまで最速だった115.2マイル(約185キロ)を上回り、彼のキャリアで最もハードヒッティングされた本塁打だった」と紹介。2015年にスタットキャストが導入されて以来、エンゼルスで最速だった本塁打で、今シーズンの本塁打では、フランチ―・コルデロ(レッドソックス)の118.6マイル(約191キロ)、ジャンカルロ・スタントン(ヤンキース)の118マイル(約190キロ)、ゲレーロJr.の117.4マイル(約189キロ)、マイク・ズニーノ(レイズ)の117.3マイル(約189キロ)、そしてスタントンの117.3マイル(約189キロ)に次いで6番目の最速本塁打だったという。

****** 

断っておくが、彼の活躍にイチャモンをつける気持ちなど微塵もない。

むしろその逆で、いつも凄いなぁと感嘆しながらテレビニュースの画面に映る同胞の若者を誇らしげに見るおじさんだ。

だが、それと同時に、近ごろではすっかり付き物となった観があるこの数字の羅列には、いつも、なんだかなぁと思ってしまう。

「いったいその数字のどこがおもしろいのかね?」

「どこのどいつがそんなものを知りたいのかね?」

いつもそう訊ねたい衝動にかられてしまう。

野球だけではない。

ことほど左様に、今という時代、渡る世間には数字があふれかえり、多くの人は数字に頼り切っている。

しばしば、なんだかとても不思議な感じがする。と同時に、心の奥底がざわざわっとしてしまうこともある。

「オマエのほうが不思議なんだよ」

もしもそう言われれば、返す言葉がない。

だからだろう。次のような文章に出会うと、思わず快哉を叫びたくなってしまうのだ。

******

技術が救世主だとか、過去に学ぶものはないとか、数字がすべてを物語るといったことを信じていると、やがて危険な誘惑の言葉にふらふらと吸い寄せられることになる。真実の断片をコツコツとつなぎ合わせる努力をせずに、特効薬を見つけようとしているようなものだ。(『センスメイキング――本当に重要なものを見極める力』クリスチャン・マスビアウ、Kindleの位置No.1021)

人間のあらゆる行動には、先の読めない変化が付き物なのだが、理系に固執していると、こうした変化に対して鈍感になり、定性的な情報から意味を汲み取る生来の能力を衰えさせることになる。世の中を数字やモデルだけで捉えるのをやめて、真実の姿として捉えるべきだ。(同No.200)

******

それとこれとを結びつけるのはコジツケだろうか。

いやいや、あながちそうとも言えないのではないだろうか。

数字とは切っても切り離せない仕事をしていながら、このようなことを書くのはいかがなものだろうか、という気がしないでもない。

しかし、近ごろのこのザマは、どうにも行き過ぎのような気がしてならない。

人間が人間という生物からどんどん離れていっているようで。

それはたしかに進歩なのかもしれないが、進化と呼ぶにはふさわしくないとわたしは思う。

 

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「やみくもに GPSや衛星を追いかけるのではなく、さまざまなかたちのデータを組み合わせ、解釈することこそ、航海の基本なのです」(フランク・リード)

2021年05月24日 | オヤジのICT修業

先日、ある発注機関の幹部(仮にA氏としておこう)と話をしていた際、このような言葉がでた。

キッカケは、「ウチの起工測量はドローンを飛ばすかレーザースキャナを回すか終わりなんですよね」というわたしの発言からだ。

こうやって文字にしてみると、わたしの舌足らずが一目瞭然だ。案の定、A氏は少し勘違いしたようで、やはり現場を実際に歩くということが重要なのだと力説し、それがないがしろにされていくことで将来どんな方向になっていくかについて危惧すると言った。

まことにもっておっしゃるとおり。もとより、現場を見て現物を見て現場を歩いて現物に触れて、それこそが現場技術者にとって肝心要のキモなのだと信じるわたしだもの、現場を歩かないわけがないし、現場を歩かなくてもよいのだと言うはずもない。

しかし・・・

A氏にそう言われてみて、あらためて考えると、そうならないとは誰も断言できないことに気がついた。少なくとも、現実がその方向へと進んでいることはまちがいない。それを良しとする風潮が徐々に広がっていることも事実だろう。なによりそういうわたし自体、そうでないと言い切ってはいるが、客観的に見ると、そういう部分が増えているのはまちがいない。

とはいえ、それがすべて悪だと言うのは時代錯誤だろう。古いやり方に固執するのがよくないと同様に、あたらしい方法を拒否するのも悪である。

いずれにしても肝要なのは、テジタルとアナログのハイブリッドなのであり、ハイブリッドを掌中のものとして活用できるか否かが、今という時代の土木(現場)技術者に求められる技倆なのだとわたしは思う。

そんなことがあって数日後から、『センスメイキング――本当に重要なものを見極める力』(クリスチャン・マスビアウ)を読みはじめた。なかに、天測航法(天体観測で自船の位置を特定して航海する技術)の専門家であるフランク・リードの言葉が紹介したくだりがある。いたく気に入ったので、引用して本日の稿を締めくくりたい。

******

 90年代後半、米国海軍兵学校は、天測航法(天体観測で自船の位置を特定して航海する技術)の課程を廃止し、GPSと衛星の技術を柱としたトレーニングに置き換えた。(略)2015年、同校は、天測航法の実践的な知識の習得を海軍将校に再び義務付けると発表した。

 天測航法の専門家、フランク・リードは、米国のラジオ局WBURの「Here & Now」という番組に出演し、海軍兵学校が従来の工法に戻した決定について、ありし日への郷愁という説を否定したうえで、次のように説明した。

「航海士は誰しも、手に入る情報なら何でも利用すべきです。そうすることで、やみくもに GPSや衛星を追いかけるのではなく、さまざまなかたちのデータを組み合わせ、解釈することこそ、航海の基本なのです」

(Kindleの位置No.3254)

例えば、 GPSを組み込み、衛星で誘導してもらえば暗闇でも進んでいけると考えがちだ。だが真のコネスール(目利き)は、唯一の正解などないことを心得ている。本来、ナビゲーションという考え方は、すべてに注意を払えばいいというものではない。何かを巧みに解釈することなのだ。

(同No.3587)

******

 

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三者三様

2021年05月23日 | オヤジのICT修業

そこにいたのは、わたしを含め4人である。

 

「パソコンに包丁を突き刺した」

友人が実行したというその衝撃的な事実を紹介してくれたひとりに対し、

「刺さらんし」

すぐさまツッコミを入れたのはわたし。

ところが、その場にいたあとの二人は、びっくりしながらもふむふむとうなずいて、

「刺さるし」

と返してきた。

「いやいや刺さらんし」

と口を尖らせるわたしが、

「刺さる前に割れるやんか」

と言うと、

「そこやないやろ」

異口同音に皆が言う。

「え?」

不思議でならないわたしは、デスクトップPCのモニターに包丁を突き刺そうとした誰かを想像していた。

よく聞くと、あとのふたりも、思い描いていた場所がそれぞれにちがう。

ひとりはノートパソコンの本体(キーボード)。

もうひとりはデスクトップPCの本体。

残念、皆ハズレ。

その話を紹介した知人が言うのには、突き刺したのはデスクトップPCのキーボードだったらしい。

 

三者三様。

ことほど左様に、詳細な説明も具体的な絵もない断片的な言葉でイメージするものには、人それぞれの思い込みや感情やらが入り、一様のものとはならない。

にもかかわらず多くの人は(わたしを含め)、自分が見たものや思い描くイメージを、他人もまたおなじように感じてくれると、無邪気に信じこんでいる。

 

令和5年度から、すべての詳細設計と工事でBIM/CIMを適用するのだと国土交通省は宣言している。誰がナンといおうとオカミだもの、やると言えばやるのだろう。そして「やるぞ」と脅かされれば「やるしかない」のだろうと、シモジモは「やる」のだろう。それはそれで仕方がない。吹けば飛ぶよな辺境の土木屋風情が異議申し立てをしようと、どうにもなることではない。

けどね。

なんにつけてもそうなのだが、そこでひとつ考えてほしい。

オカミがやれと言うからやる。

あるいは、

オカミがやれと言うからやらない。

わたしに言わせれば、どちらにしても根っこはおなじ。

少なくとも、わたしにとってのCIMは、たとえば「パソコンに包丁を突き刺した」という事実を、三者三様ではなく、皆が等しく共有できるようにするためのものであり、わたしたちが拠って立つ地べたで役に立つために使うのものだ。「建設生産性向上」などという、地べたではたらく人たちの顔が見えず、身体性をともなわないお題目のためにやるものではない。

いずれにしても「やる」のは自分たちなのであれば、せめて、「使い方」「やり方」ぐらいは自分のアタマで考え、自分のアタマで決めようではないか。

 

「キーボードに包丁を突き刺した」

衝撃的なその話で皆がひとしきり盛りあがったそのあと、ひとりそんなことを考えていたわたし。それにしても・・・

包丁を突き刺されたパソコンのご冥福を心より祈念して、本日の稿、終わりとしたい。

 

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どちらにしようかな

2021年04月19日 | オヤジのICT修業

 

あさ起きて、昨夜、東京町田市の一部地域が停電になっていたと某SNS上の知人の発信で知った。

そのテキストは「アンプラグド」という標題を与えられていた。

アンプラグド、電気を使用しない楽器で演奏される音楽である。

わたしにとっては、クラプトンの同名タイトルのアルバムが、もっともポピュラーだ。

調べてみると、米国のケーブルチャンネルMTVによる商標登録で、一般的にはプラグレスと表現されるらしい。

ふと、先日ヒゲブチョーが名づけた「無電源CIM」という言葉を思いだし、同時に浮かんだある思いつきにニヤリとした。

「アンプラグドCIM」ってどうなんだ?

「少しゴロがわるいな」

別のわたしが答えた。

「じゃあ、プラグレスCIMは?」

「そっちのほうがリズムがいいし、プログレッシブ・ロックみたいでカッコいい」

言葉はリズムだ、をモットーとするわたしだもの、そちらを採用することに決めた。

だがちょっと待てよ。

「無電源CIM」という字面が斜め上にぽっかり浮かんだ。

テキストは見た目が大事。これもまたわたしのモットーだ。それでいくと、無電源CIMというのは「電撃ネットワーク」みたいで字面の格好がよろしい。

はてさて・・・

「無電源CIM」か「プラグレスCIM」か。

どちらにしようかな、裏の神さまに・・・

そんなことでしばし思い悩む朝。

高知県安芸郡北川村大字長山字田上、本日も平和。

 

 

 

「無電源CIM」(プラグレスCIM)の第一人者、宮城県在住S画伯の代表作『北上川のニューマチックケーソン』。

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無電源CIM

2021年04月13日 | オヤジのICT修業

 

近ごろ、LAMDAサイクルというものに興味をもっている。

以下、村上悟さんからの受け売りでかんたんに説明する。

******

LAMADAの最初のステップであるLook(見る)とは、自分で現場に出向いて、自分の目で実際の製品や試作品や問題の発生具合を観察するということです。

(中略)

2番目のAsk(質問する)というステップは、「これに関して知見があるのは誰か」「この根本原因は何か」と問いかけることです。

(中略)

3つ目のModel(モデル化する)というステップは、前のAsk段階で頭の中に得られたメンタルモデルを視覚化して「見える化」することです。手書きの図でも、粘土のクレイモデルでも、まず「目に見えるカタチにすること」が重要なのです。

(中略)

4つ目のDisscuss(話し合う)というステップは、前のModelステップで得られた問題を視覚的にわかるようにした「見える化モデル」を持って関係者と話し合います。

(中略)

最後のAct(行動する)とうステップでは、いきなり行動するのではなく、まず前のフェーズで決定したプランに基づいて、しっかりとした計画を立ててから行動を始めることが重要です。

(『不確実な時代に勝ち残る、ものづくりの強化書』村上悟、P.154~156)

******

LAMDAにおけるその3「モデル化する」で重要なのは、

手書きの図でも、粘土のクレイモデルでも、まず「目に見えるカタチにすること」

このセンテンスをはじめて目にしたとき、まずまっ先にわたしの脳裏に浮かんだのは、4年前、石巻で目にした一枚の絵だった。

 

 

 

 

 

作品の主はSさん。北上川河口に橋台をつくる工事の作業所長だった。

「すごいじゃないですかコレ!」

そういうわたしに彼は、

「だってデジタルの時代に紙に手描きですよ」

照れくさそうにそう答えたが、

「だからなおさらいいんですよ!」

とわたしはそのよさを力説したことを覚えている。

S画伯はどうしているんだろうか?

彼の上司であるヒゲブチョーに連絡をとると、ほどなくしてひとつのPDFファイルをともなった近況報告が返ってきた。

添付されていたのは、S画伯が昨年担当した工事でつくったものだった。

その一例を許可を得て公開する。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな折りもおり、『現場主義(建設現場サイト)』さんの『CADじゃなく手書きでもいいんです』という記事に、こんな画像が紹介されていた。

 

 

 

添えられていたのは、

もちろん、3DCADできれいに書けますが、手書きでも十分伝わりますよね。

(略)

必要なのはきれいさではなく、計画内容にもれなく、そしてみんなに周知すること、ですので。

という文章だった。

 

そういえば・・・

つづいてわたしの脳裏に浮かんだのは、今やわが社のICT施工推進チームの長であるMが10年ほど前に多用していた、ある方法だ。

 

 

 

 

 

ちょうど一年前、国土交通省は「2023年までに小規模工事を除くすべての公共事業にBIM/CIMを原則適用」を決定した。

ふむふむ、どうぞどうぞ、やったらよろし。わたしも、老骨にむち打ち、固まったアタマに柔軟剤をふりかけてでも、振り落とされないようについていきたいと思っている。

しかし、真に必要なのは、そして本当に重要なのは何か。

いみじくも、わが盟友ヒゲブチョーがS画伯の手法に名づけた名前は「無電源CIM」。

よもや、国交省がその施策に「無電源CIM」を取り入れるなどとは夢にも思わない。だが、土木現場技術者諸氏よ、そこが基本、そこが原点であることを、くれぐれもお忘れなきよう。

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『ザ・ゴール(コミック版)』を読んでICT活用工事について考えた

2021年03月07日 | オヤジのICT修業

『ザ・ゴール(コミック版)』を読んだ。2015年以来2度目だ。2007年と2011年に通読したテキスト版、つまり本家を合わせると、つごう4度目になる。これもまた只今絶賛継続中の(わたしの)「ためにする」読書の一環である。

何度も読むとおもしろいものだ。以前とはちがう箇所でびびっとくるものがあったりする。今回、ナルホドね、と感じたのはこの部分だ。

 

まずは物語のはじまりあたり、主人公である大企業ユニコの神奈川工場所長新城吾郎は、成田空港で大学時代の恩師であるイスラエル人の物理学者ジョナと偶然再会する。

そのときの会話の一部を切り取ってみよう。

******

「いまはビジネスマンでユニコというメーカーの工場を任されています。メーカー団体からの依頼で私の工場のロボットについて話しにシンガポールに行くところです」

「ロボット?君の工場ではロボットを使っているのかい?」

「そうですよ。最新のロボットです」

「ロボットを使って生産性は上がったのかい?」

「もちろんです。ある部署では36%もアップしたはずです」

「すごいじゃないか!ロボットを導入しただけで工場からの収益が36%も上がったのか!」

「あ・・・いえ、そうではなく・・・36%アップしたのは一部署だけですから・・・」

******

この物語を貫く主題の伏線となる肝心な場面だから、もちろん記憶にないはずはなかったが、今のわたしには、これまでとは異なった現実感をともなって響いてきた。

次は、物語の中盤だ。

新城の工場に営業本部長から急なオーダーが入る。その日の夕方5時までにある製品を100個つくって送れというものだ。すでに12時過ぎである。「間に合うか?」とたずねる新城に担当者はこう答える。

「溶接ロボットなら1時間に25個処理できます。だから1時から5時前の4時間あれば100個は完成できるはずです」

つまりこういうスケジュールだ。

 

 

ところが、午後5時になっても製品は90個しか完成しなかった。処理量の記録は次のようなものだった。

 

 

 

はじめは作業がうまく流れず、12時台と1時台には予定の25個には達していない。しかし、作業の後半は、慣れてきたのだろうか、がんばったのだろうか、いずれにしても25個を上回って処理することができている。結果、組み立て工程では、予定の100個が完成している。問題はそのあとのロボットの作業だ。ロボットは1時間に25個作業できる能力を有しているが、1時台と2時台は、それより少ない部品しか前工程からこなかったため、来た分だけしか溶接できていない。3時台と4時台には予定より多くの部品が送られてきたが、ロボットは1時間に25個という処理能力の範囲でしか作業ができない。その結果が90個である。

 

 

 

 

わたしの脳内にはロボットがICT建機、工場全体が工事全体として届いた。

で、結論。

 

 

 

 

 

やれICT活用工事だ、やれi-Constructionだと騒いでみても、いくら建機の能力が向上しようが、いくら測量システムが変わろうが、それ一つひとつは所詮部分最適にしか過ぎず、生産性は向上しない。では、全体最適を図る上でもっとも重要なものはなにか。それが工程管理であり、マネジメントである。

という、一昨年来ずっと繰り返してきた自説を、別の角度から再確認した。

 

全編が500ページを超えるという本家『ザ・ゴール』は、読み返そうとしても生半に読み返せるものではないが、コミック版なら、こうやってかんたんにふりかえることができたりする。

うん、こういう「気づき」もわるくない。

 

 

 

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歳歳年年人同じからず

2020年11月18日 | オヤジのICT修業

 

5年前の今日、

こともあろうか土木学会CIM講演会で、

「点群データも属性情報もなくていい」

と、自信満々声高らかに言い放ったくせして、

近ごろでは、業務に点群データが欠かせない、どころか、お世話になりっぱなしの辺境の土木屋62歳と11ヶ月。

5年後の今日は、

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」

なんて独りごちてひらきなおってみる。

 

いやホントは、「いらない」などと思っていたわけではなく、そんなことを云々するよりも大事なことがあるだろう、というメッセージを、この言葉に込めたつもりだった。

大事なこととは、「なんのため」。

ツールをどうやって使うか、ツールにどういう使い方があるか、からはじまるのではなく、「なんのために」使うか。それを、役所のお仕着せではなく、自分自身のアタマで考える。

「なんのために使うか」がまずあって、その上で、『どうやって使うか」「どういう使い方があるか」を試行する。そのために必要ないものは、とりあえずは切り捨ててしまえばよいだけのこと。

その象徴として、「点群データ」と「属性情報」を俎上にのせた。

そこのところは、今もまったく変わらない。

ということを踏まえたうえで、もういちど、独りごちてひらきなおってみる。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」

 

うん、これでいいのだ。

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「誤解の構造」を知る

2020年10月26日 | オヤジのICT修業

そこにある3Dモデルが、与えられた正解だと思いこんだ時点で、その3Dの優位性は消滅してしまう。なぜならば、それは正解への標(しるべ)のようなものでしかなく、正解そのものではないからだ。

 

そんな言葉が脳内で湧きあがったのは、次の文章を読んだ時である。

******

それはコミニュケーションの水準の話で言い換えれば、理解とはメッセージの内容そのものを適切に読み解くことではなく、コミュニケーションにおける「誤解の構造」に精通することである、ということです。(『先生はえらい』内田樹、P.164)

******

読めばわかるとおり、これはコミュニケーションにおける理解と誤解について書かれた文章だが、その主題をバッサリと切りとってしまえば、世の中すべからくにおける「理解と誤解」に通底する言葉となる。

つまり、こうだ。

 

理解とはメッセージの内容そのものを適切に読み解くことではなく、「誤解の構造」に精通することである。

 

わたしはここから、冒頭のように“BIM/CIM“のことを思い浮かべた。

「適切に読み解く」ためのものとして3Dモデルを用いる。

これまでずっと、そういうふうに信じこんできたが、じつはそうではなかったのかもしれないという疑念が生じたからだ。

いや、「適切に読み解く」ための3Dモデルがある、という考え方はまちがいではないし、むしろそれは活用方法としての王道だと言ってまちがいはないだろう。

しかし、どんなに進歩的で革新的なツールであっても、それを盲信して使うことは悪である。

現実世界に「打ち出の小槌」は存在しない。にもかかわらず、そのツールが優れていればいるほど、それさえあればほとんどの問題は解決するのだと人は思いこみがちだ。つまり、この場合で言えば、「三次元モデルさえあれば諸問題が一挙に解決してハッピーハッピー」的な思考に陥りがちだということである。

そんなとき、少し視点を斜めにずらし、「誤解の構造」を発見しやすくするためのものとしてそれはあると考える。そうすれば、三次元モデルを全能の神と盲信することから生まれる誤解と齟齬を生じにくくすることができるのかもしれない。

 

などなどと、しばし考えてから、くだんの文章、勝手にこう改変して使うことにした(元ネタとなった内田先生にはまことに申しわけないが)。

******

理解とは、メッセージの内容そのものを適切に読み解こうとすると同時に、「誤解の構造」を知ろうとすることである。

******

 

ということで、ここだけのお願い。

わたしがこれを、どこかで使っているのを見聞きすることがあったら、広い心で笑って許して。

どうぞよろしく。

 

 

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オンライン◯◯

2020年10月05日 | オヤジのICT修業

「チャレンジしつづけるおじさんは強い」

あるいは

「チャレンジしつづけるじいさんは最強だ」

 

わたしが、ことあるごとにそう吹聴するのは、ご推察どおり、自らを鼓舞するためもあってのことだ。

人間というのは変化するものだ。

生きるということは変わりつづけることだ。

変化が常態であり変わらずにある自分というのは思いこみにすぎない。

などと、これもまたことあるごとに言いつづけてきたわたしだが、じつのところは、居着こうとする自分を、なだめたりすかしたり、叱咤したり激励したりと、あの手この手のあれやこれやを使ってもなお、激変激動の流れに主体的に身を置こうとすると少々つらく、どこかで躊躇してしまうことが少なからずあったりする。

それが、生来の性格由来のものなのか(案外、こう見えて、照れ屋で人見知りでひっこみ思案なのです)、あるいは加齢によるものなのか、どちらのウエイトが大きいのかはわからないが、どちらもがその要因であることはまちがいない。

人は居着く。

ひとつことを長くやっていればなおさらだ。

人生が長くなればなるほどその傾向は顕著となる。

日ごろ、エラそうなことを広言するわたしとて例外ではない。

たとえば、あの「オンライン◯◯」というやつへの対応だ。

初夏からこれまで、オンラインセミナー講師というのを、つごう5回務めた。その数は少ないが、オンライン会議にもいくどか参加した。自ら積極的に、「ぜひここはオンラインで」とはたらきかけた会議もある。

とはいうものの、である。

ココロの内のどこかに、「本意ではないのだけれど」という思いがあった。

つまり、それはあくまでも「時と場合」によりけりであり、その「時と場合」においても、まずファーストチョイスとしては、生身の人間同士のやり取りが考慮されるべきであって、それができない「時と場合」における特例、すなわち「常ならぬもの」としてあるものでしかないという思いである。

先日も、この時世下でご多分にもれず中止になった催しを来年開くにあたって、オンラインにするかライブにするかの意見を求められた。もちろん、迷わず「生」を選択した。

そんなわたしのなかで、少しばかり風向きが変わったのはおとといだ。

きのうもとりあげた、「ツタワルドボクオンライン全国大会2020」への参加がきっかけだ。

当初、ツタワルドボク事務局からの誘いに、「ふむ、おもしろそうだな」とは感じたものの、若干の躊躇がなかったわけではない。

これが昨年までだったらどうだろう。移動に要する時間、費用、日程調整、その他もろもろの調整事項とその催しの魅力とを天秤にかけ、結局は「行かない」という結論になっていた可能性は高い。

ところが今回は、冒頭で吐露したような、じつは照れ屋で人見知りでひっこみ思案の(ホントです、信じてくれなくてもいいけど ^^;)個人的事情をクリアしたうえで、わたし自身の身柄を、会が開かれているそのあいだだけそこに拘束すればそれでよかった。

両者があるのと片方だけなのとでは、そのハードルは比べものにならないほど低い。

そう、「オンライン」というやつは、距離と時間を軽々と吹き飛ばしてくれるのだ。

そして、そのコミュニケーションの中身についても、いわゆるふつうの会議という形式が、どこまで参加者個々の本音を引き出すことができるかを考えれば、互いの生身と生身がそこにあるからといってどうこなるものではないのかもしれないし、それが大きな差異を生みださない場合もけっこうあるだろう。

もちろんそれは、「時と場合」によりけりだ。しかし、その「時と場合」においてのファーストチョイスが、生身の人間同士のやり取りとは限らない。「オンライン」は、フェイスツーフェイスができない「時と場合」における臨時措置、すなわち「常ならぬもの」としてあるのではなく、両者共存、両者並列、つまり、その両方が等価のものとして並び立つものとなっていく、いや、なるべきものなのではないだろうか。

2日が経過した今も、会長である片山さんが講演の途中で言った言葉が耳に残っている。

いわく、

コロナによって距離が消滅し、全国の人々がネットで簡単に会え、語り合えるようになった。と同時にそれは、「生」の貴重性を再認識させてくれた。会えないから会える機会をたいせつにしようと思うようになった(走り書きのわたしのメモからです。あくまでもこんな感じの発言)。

 

「その場」へ行き、「その場」で会い、そこではかられるコミュニケーションでしか得られない「つながり」がある。その一方で、コミュニケーションは「その場」に行くことからでしかとれないものではなく、その場に行かなくても得られる「つながり」がある。それはつまり、「その場」にあること(だけ)を金科玉条として必要以上の価値を与えないと同時に、「その場」をよりたいせつにすることにつながりはしないか。

そんなことを、3時間の濃密な会議プラスさらに濃密なオンライン呑み会が終わったあと、ぼんやりと考えた。

 

以上、

「土木を伝える」

「本当にほしいものはなんだろうか(目的)」

「どうやって伝えたらよいのだろうか(企画と実行)」

(これもまたわたしの独断的解釈です。あくまでもこんな感じ)

という会の本質的議論は当然のこと、それとは別に、「オンライン○○」に対するわたしの無知と蒙昧をひらいてくれた「ツタワルドボクオンライン全国大会2020」主催者さんに感謝の意をこめて記してみた。

どうもありがとうございました。

 

 

 

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じっさいのところ

2020年03月24日 | オヤジのICT修業

「先端をいってますね」

などと言われることがある。

たいていの場合は、

「いやいやウチなんぞは」

と答える。

謙遜でも卑下でもない。

じっさいのところだ。

そしてそのじっさいのところにしてからが、青息吐息ゼーゼーいわせながらが現実だ。

今日、13時半からWeb会議というやつを初体験することになっている。

Zoomというアプリケーションを使うそうだ。

ただ今、12時半すぎ。

あと1時間もすれば始まる。

胸がドキドキしている。

恥をかきたくないものだから、リハーサルをしてみた。

少しばかり緊張してきた。

笑わないでほしい。

じっさいのところ、その程度のものなのだもの。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

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