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この年になって、僕はようやくコツをつかんだんです。それは、「自分をよく見せる読書はしない」ってこと。
(中略)
今は自分をよく見せることに頑張りたくなる時代だし、僕以外にもそうしている人もいるかもしれないですね。武器やお化粧みたいに読書歴をしてしまうというか。「あの店、行った?まあまあおいしかったよ」「さすが通だね」って褒め合うグルメ評と同じで、僕も長年そうしてきたところがあったけれど、ふと、それは違うんじゃないかって気付いたんです。
(中略)
もっと読書というものを解放して気楽なものにするためにも、「カッコつけない読書」を広めたいなと思いますね。
(『日経BOOKプラス>糸井重里「本からはじまる、本でつながる」>糸井重里の告白「僕はもう、よそ行きの読書をやめました」より』
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白状します。
ぼくも「自分をよく見せる読書」をしていました。
さすがにいつもいつでもではないけれど、「カッコつける読書」をしていたことはまちがいありません。
それが始まったのがいつごろからだったか。これはもう、ハッキリとしています。
このブログを始めた14年前からです。
日々のブログのネタ探しに苦労していたぼくは、ある日、自分が読んだ本をそれに充てることを思いつきました。
そう、最初はあくまで「読んだ本」だったのです。ところがすぐにそれは、ブログで紹介することを意識して本を読むに変わりました。「自分をよく見せる読書」のスタートです。
といっても、そうしようと意識してそうなったわけではありませんが、今から考えれば、そうなることは当然の成り行きだったような気がします。
でも、長年そういうことをつづけてくると、それに気づきます。「これはちがうんじゃないか」と思い始めたのです。むしろ最近では、そういう自分に辟易としていたところも多々ありました。そうすると、必然的に読書がたのしくなくなってきます。
なので近ごろはどうかと言うと、「アレを読むぞ」とか「コレを読んだ」とかをブログに書くことが少なくなりました。そして読む本そのものも、小説やエッセイやらが多くなってきました。
そしたら難しめな書物を敬遠するようになりました。難解さから逃げるようになったのです。
それでもかまわない人は別にどうということもないでしょうが、わたしにとってはそう簡単なことではありません。というのは、わたしが本を読む上での原動力のひとつとして、知らないことを知ろうとする、あるいはわからないことをわかろうとする、はたまた未知の考え方を学びたい、などなどの欲望があるからです。
そのために本がある。
これもまた、真実わたしの読書なのです。
65歳にもなってと笑わないでください。でも、これはカッコつけでもなく本当にそうなのですから致し方がありません。
である以上、自らの頭脳で理解できるかできないかスレスレのところを狙って読むことも必要です。いや、あきらかに理解できていないなと自覚できたとしても、どうにかしてそれをわかろうとするそのアタマの痛さから逃げずに読むことも時として必要でもあるのです。
そんな現状に、「なんだかなあ」と思う日々がいつごろからつづいていたでしょうか。
そんなある日、ふと糸井さんの文章を目にしました。
得たり、とうなずいたのは言うまでもありません。
といっても、このモヤモヤがその一文で劇的に変化することはたぶんないでしょう。
あいも変わらず「なんだかなあ」と思う日々がつづくのかもしれません。
でも、現時点でかなり気分が晴れたことはまちがいありません。
「自分をよく見せる読書」はしない。
「カッコつけない読書」をする。
本を読むのがイヤにならないためにも、そうありたいと願っています。