答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

エイのヒレ

2023年04月24日 | 読む・聴く・観る

 

「こんちわ」

「おー八つぁんじゃねえか、どうした?」

「ちょっとわからないことができたんで」

「えらいねえ」

「きのう新年会でみんなでもって居酒屋で飲みましたよ。生まれて初めてエイヒレ食べました」

「ああエイヒレ、あれ安くてうまいな」

「そうでしょみんなでね、なんでこんな安くてうまいもんを今ごろ知っちゃったのかよ、もっと先に知っときゃよかったって、みんなでバクバクバクバク食ったんですよ、エイのヒレでしょあれ」

「あたりまえだよ、エイヒレっていうんだもの、エイのヒレさ」

「エイのヒレって海の中を優雅にいく四角いあの、こんなんでしょ、こんなんグァーっと」

「そうそうそうそう」

「あれね、みんなが言うんですよ、エイってどこまでがヒレなんだろうって」

「なに?」

「エイってどこまでがヒレなんだろう?てみんなで盛り上がっちゃったんですよ」

「盛り上がっちゃったんですよ、じゃないよ。エイはどこまでがヒレなんでしょうって、ヒレとは何かをまず考えなきゃいかんぞ。ヒレというのは、人間でいやあ爪みたいなもんだろ。これでわかったろう。エイを端から順番に切っていってエイが痛いって言ったらそこまでがヒレだよ」

「あ~、エイを端から順番に切っていってエイが痛いって言ったらそこまでがヒレなんだ」

「そうだよ。人間だって爪を切っていくうちに切りすぎて痛いっていったら深爪っていうだろ?エイの場合はフカヒレと、こう言うんだよ」

 

以上は今日の昼間、散歩をしながら聴いていた落語『こぶ取り爺さん』(by立川志の輔)のマクラである。

いやあ、じつにおかしい。

 

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然もありなん

2023年03月22日 | 読む・聴く・観る

 

二代目広沢虎造を聴きはじめた。

落語に講談とMyブームがきたら、そのうち浪曲へ行くのだろうなという感じがあるにはあった。

とはいえさすがに浪曲はねえ・・・と思う気持ちもないではなく、ちょこっと行きかけては思いとどまりを繰り返し今日まで来たが、案の定、予想していたとおりだ。

さて誰からいく?

自分で自分に問いかけて、どうせなら最初から(二代目)虎造だろうと即答した結果、虎造である。

では何からいく?

自分で自分に問いかけて、虎造といえば次郎長だろうとこれも即答したが、いやいやそれでは芸がないと、「祐天吉松」をいくつか聴き、目をつけたのが「国定忠治」シリーズだ。

 

猛虎一声 吠え来る

狩人これを撃たんとす

あまた獣の危きより

飛び来たりたる羊めが

狩人前に佇んで

弾丸に当たって身は倒れ

他の獣を救うてやる

羊は我を知らぬという

その意味もって唐土に

羊の下に我と書き

義という文字が 出来たという

その義をもって売り出した

上州生まれの長脇差・・・

(『忠次唐丸篭破り』より)

 

二代虎造

いやぁ~ハマりそうだ。

というか、みごとハマってしまった。

ヤミツキになりそうなのである。

 

 

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落語と講談のちがい

2023年02月07日 | 読む・聴く・観る

 

これはいつものことだが、あるジャンルで好みの者を1人見つけると、その人だけにとどまることなく、次から次へと連鎖するのがわたしの常だ。今回のマイ講談ブームもしかり。対象は六代目神田伯山にとどまらない。

三代目神田松鯉、六代目一龍斎貞水という現人間国宝と元人間国宝をはじめとし、幾人かを聴いている。なかでもイチバンのお気に入りは一龍斎貞水だ。聴くなり「コレだっ」と感じた。わたしのイメージのなかの講談とは、一龍斎貞水のそれなのである。もちろん、伯山の師匠である松鯉もイイ。だが、今のところわたしのなかでのナンバーワンは六代目貞水だ。

といっても、多くの人はピンともこないだろうし、どうでもよいようなことではないか。だいいち、落語と講談とはどうちがうんだ?という人がほとんどだろう。

講談と落語のちがい。これについては、三代目松鯉と六代目伯山の師弟が、それぞれの著書で書いている。

まず、神田松鯉の著『人生を豊かにしたい人のための講談』(マイナビ新書)にはこうある。

******

同じ話芸でも、落語が会話によって成り立つ芸であるのに対し、講談は「読む芸」という点でも、大きく異なります。

(P.13)

落語家は扇子と手ぬぐいを持ち、座布団に座ります。

講談師も同じく扇子と手ぬぐいを持ち、座布団に座りますが、同時に釈台を置き、張扇というもう一つの道具を持つところが特徴です。

(P.15)

******

次に、弟子伯山が松之丞時代に書いた『神田松之丞 講談入門』(河出書房新社)の方を紹介しよう。

******

落語は基本的にフィクションだが、講談はノンフィクションである。ただし、ノンフィクションでも脚色は自由だということだと考えています。

(No.106)

宝井琴調先生は、「講談はドキュメンタリーで落語はホームドラマ」という言い方をされていて、それが一番わかりやすいと思います。

(No.107)

たとえば泥棒という題材ひとつとってみても、鼠小僧次郎吉とか石川五右衛門とか、その時代に一番活躍した泥棒を描くのが講談で、落語は昨日今日泥棒になったやつを描く。(中略)落語と講談では、登場人物とそれをとらえるカメラの距離も違うんです。講談の方が対象に近いというか、落語ほど引かない。

(No.119)

******

同じ流れで伯山は、立川談志の言葉も紹介している。

「忠臣蔵の赤穂の浪士も最初は三百人ぐらいいたのに、『家族のために』とかいって二百五十人ぐらい逃げちゃった。そういう逃げちゃったやつを描いているのが落語で、最後まで殿様のためを思っている者を描いているのが講談の『赤穂義士伝』だ」

これがもっとも本質をあらわして秀逸だとわたしは思う。

その談志の言を受けて伯山いわくはこうだ。

「それは、どちらがいいとか悪いとかではなく、両方人間の姿なのですが、忠義の者を追っていくのか、逃げちゃったやつを追っていくのか、対象をとらえるカメラマンが違うのだと僕は考えています。」

これもまた言い得て妙。

どうやら、落語と講談というMyブームは、しばらく去りそうにないようだ。

 

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軽トラに乗って神田伯山を聴く

2023年02月06日 | 読む・聴く・観る

 

神田伯山を聴き始めたのは秋。

初めてその名前を聞いたのは、息子の口からだったと記憶している。

それがキッカケで一度聴いてみたのだが、演目のせいだったろうか、暗く、それでいてケレン味たっぷりな印象を受け、途中で聴くのをやめた。

それがなぜ、どっぷりとハマってしまったのか。じつを言うと自分でもよくわからない。とにもかくにも、思い出しては聴いている。

それどころか、彼が書いた本も読んだ。『絶滅危惧職、講談師を生きる』(著者:神田松之丞、聞き手:杉江松恋)。松之丞とは彼が真打ちになり六代目伯山となる前の名である。

読むなり引きずり込まれて、あっという間に読み終えた。結果、ますます彼の贔屓となった。

きのう、息子と同乗した軽トラックのなかで問うてみた。

「伯山、聞いてるか?」

その答えは意外なものだった。

「いや、聴いたことない。前から興味はあるけど」

あら、「興味をもっている」という言葉を、なぜだか知らないが「聴いている」と脳内変換させたのは、わたしのただの勘違いだった。

では聴かせてやろうと、わたしが選んだ読み物は『グレーゾーン』。異端である。神田松之丞作の新作講談で、今は封印しているが、とにかくおもしろい演目だ。「八百長」を縦糸に、「プロレス」と「相撲」と「笑点」を横糸にして話が展開していくので、それら、特にプロレスに興味のない人が聴いても、面白みが半減してしまうだろうという尖った読み物である。そこへ行くと、息子とわたしは「かつて」と「今」という違いはあるがプロレス者という共通項がある。そこで浮かんだのが『グレーゾーン』だ。

目論見は成功し、息子は神田伯山がいたく気に入ったようだった。

では、と次に選んだのは『中村仲蔵』。江戸時代の歌舞伎役者である初代中村仲蔵の出世物語であり落語でも有名な演目だが、元はといえば講談だ。初心者向けには手頃な話だし、クルマが目的地に着くまでを逆算すると、ちょうどほどよい時間である。

話が終わり、彼の感想はというと、「ちょっととっつきにくいところがあるけどおもしろい。これからもっと聴いてみようと思う」。

そう言われて親父おおいに反省した。そう、『中村仲蔵』は初心者にはチト荷が重すぎたのだ。たとえば『寛永宮本武蔵伝〜山田真龍軒〜』のような、時間は短いけれど血湧き肉躍るようなエンターテイメントがよかった・・・が、時すでに遅し。

 

元はといえばかつての息子の言葉がキッカケだが、その数年後の展開が意外すぎて我ながらおかしい。

それにしても・・・

想像してみてほしい。65歳と30歳の親子が、走る軽トラックのなかで神田伯山を聴く姿と、そのなんとも言えぬコミュニケーションのカタチを。

わるくないじゃないか。

当の本人は、いたってマジメにそう思うのだが。

 

 

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ポチる朝

2023年01月05日 | 読む・聴く・観る

 

「とことん考え抜いてはじめて真に知ることができる」

ショーペンハウアーの言葉らしい。

『自分の頭で考える』というエッセイの一節であり、そのなかで彼は、「大切なのは読書ではなく、自分の頭で考えることだ」と説いているという。

というのを知ったのは今朝の新聞紙上で、である。

ふむ。だな。とうなずくと、ぬるくなったインスタントのコーンスープをぐびり。

確かに、わたしにとって良い本とは、読んでいて何かを考えさせてくれるものである。

脳内で次から次へと思考が展開され読み進めるのが困難となるまでいけば、その本は最良の部類に入ることマチガイなしだ。

その逆に、字面を追うのに終始するだけとなる本はつまらないことこの上ない。

もしも、なんだそれでは読書に集中していないではないか、と言われても、そういうものだものと答えるしかない。

ごくごく私的な行為である読書ぐらい、私的な流儀を押し通しても誰に何をはばかることがあろうか。

そんなことを思ったあと新聞を閉じ、テーブルの片隅にあったケータイを引き寄せて検索してみると、くだんのエッセイは『読書について』という本のなかにあるらいしことがわかった。

「読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ」

「本から読み取った他人の考えは、人様の食べ残し、見知らぬ客人の脱ぎ捨てた古着のようなものだ」

Webにあるその内容の断片は、まったく想像した方向ではなかった。

ふむ。だがおもしろそうではないか。

コーンスープの残りを飲み干したあと、ポチリとしたのは言うまでもない。

 

 

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寝る前読書

2022年12月26日 | 読む・聴く・観る

 

世のなかには寝酒という習慣があるらしい。

といってもわたしは、ほとんどそれをしたことがない。

嘘をつけ、と言われるかもしれないが、正真正銘本当のことだから仕方がない。

その代わり、といってはなんだが、わたしがするのは寝本だ。いやちょっとゴロがわるいな。寝読書。う~んこれもちがうな。では寝る前読書か。まあ呼称はどうでもよいが、とにかくほんの少しだけ本を読む。これがよほど疲れているかよほど酔っぱっているかを除いた就寝前のわたしの習慣である。

読書とはいっても寝る前のそれは、ごくごく「軽いもの」と決めている。そりゃそうだ。脳みそをフル回転させなければ理解できないようなものを読んだ日には、とてもではないがアタマが冴えて眠れない。その逆に、難解な書物が絶好の眠り薬となるのはまぎれもない事実だが、睡眠薬として使いはじめてしまうと、ただでさえ難しすぎて読みずらいものが、なおさらのことそうなってしまうので、わたしの読書作法においてその使い方はご法度だ。

ということで「軽いもの」である。

近ごろは、主に浅田次郎のエッセイだ。

昨夜はこんな文章にめぐりあった。

******

 近ごろの学説によると、エジプトの巨大ピラミッドは王墓ではないらしい。

(中略)

 では、ピラミッドが墓ではないとすると、いったいなんの目的で造られたのか。この点の有力なる最新学説には二度驚かされる。

 公共事業だそうである。つまりナイル川の氾濫期に畑を失ってしまう農民を集めて、ひたすらピラミッド建設に従事させ、食料を給与するという失業者対策事業であったというのだ。目的はピラミッドの完成ではなく、雇用促進にあったという。

 あまりに今日的な解釈という気がしないでもないが、よく考えてみればこの5千年に人類が進歩したと思われる点は、ひとえに科学的な分野においてのみであって、芸術やら思想やら社会制度は、進歩というより変遷といったほうが正しかろう。明らかに退行していると思われる面も少なくはない。だとするとクフ王が失業者対策に悩んだあげく、「なんでもいいからデカいものを造れ。ともかく雇用だ」と、命じたとしても、ふしぎではないような気がする。

(『つばさよつばさ 浅田次郎エッセイ集』P.51)

******

近ごろではあまりおおっぴらに言えなくなったが、わたしは「穴を掘ってそれをまた埋める」的公共事業に賛同する者である。なにはともあれ雇用を確保する。四の五の言わずにメシを食わせる。これこそが政治家が真っ先に考え、実行することだと思っている。

昨夜、そんなわたしが寝る前に、クフ王が言ったかもしれない?この言葉に出会った。

「なんでもいいからデカいものを造れ。ともかく雇用だ」

そのあと、布団のなかででひとり満足したわたしが、すぐに眠りに落ちたのは言うまでもない。

ちなみに・・・

それが異聞でも珍説でもないのは翌朝知った。

あいかわらずの浅学ではある。

さて今宵は、どんな文章にめぐり会えるのだろうか。

それとも酔っぱらって何も読めずに寝てしまうのか。

辺境の土木屋64歳と364日。あいも変わらず本とともに生きている。

 

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自分をよく見せる読書2

2022年12月13日 | 読む・聴く・観る

 

さはさりながら・・・なのです。

きのう「自分をよく見せる読書はしない」と言った舌の根の乾かないうちに、「さはさりながら」と前置きして書き始めるとすれば、いったいどちらなのよと訝しがる向きも多いでしょうが、「とはいってもね」と思ってしまったのでした。

そもそも、それが顔が見えるひとであれ見知らぬ誰かであれ、こうやってどこかの誰かが読むことを前提としてブログを書くという行為をつづけていること自体が自己顕示欲の発現なのでしょうから、今さらそのような人間が「自分をよく見せる○○はしない」と言ったところで、その実現可能性はほぼ皆無に等しいと断言しても差し支えはないでしょう。

「反省だけならサルでもできる」とは、反省するような態度だけを見せても意味がないという意味で使われる言葉ですが、言い換えればそれは「できもしない反省などするだけムダ」だということでもあります。それが大人としての正しい態度です。いやいや、何も開きなおってそう言い放っているのではなく、ネガティブシンキングの無限ループに陥らないための自己防衛策としてそう言うのです。「大人として・・・」というのはそういう意味です。

ではそうであるとしたら、ぼくはこれから一体どのようにすればよいのでしょうか。そんなこと読者の方々の知ったことではないでしょうが、ぼくにとっては重要問題です。

考えてみました。

すると、またまたアタマに浮かんだ接続詞が、「とは言うものの」でした。

きのうを否定した今日をまた否定する。なんというぐだぐだでしょう。

しかし、ぼくにとってはよくあることです。

前に述べたことがらと相反する内容を思い浮かべ「Aであるべきか反Aであるべきか、それが問題だ」と悩んでしまうのです。しかし、白か黒かをハッキリと峻別できる場合はよいとして、世の中にはそうでないことの方が多い。どちらかに重心が移ることはあっても、100パーセントどちらかに偏ることは、ほとんどの場合できません。他人さまのことはとやかく言えませんが、少なくともわたしのこれまではそうでした。たぶんこれからもそうでしょう。この場合もそうだとしたら、どちらに重心を置くべきか。

そう考えると事はかんたんです。きのう、あきらかな結論が出ているのですから。

「自分をよく見せる読書」はしない。

「カッコつけない読書」をする。

これがぼくの理想とする読書です。

でも、時としてそれができなくても別に気にしない。重心が逆の方へ移りすぎているという思いが強くなったらその時にはじめて、意識をしてコチラ側に戻せばよいだけのこと。

きのうの夜、寝間に入ってうつらうつらしながらそんなことを考えはじめました。よくないパターンです。いつまでも考えていると目が冴えてしまい、そのまま寝付けなくなってしまいます。なので強制的に思考をストップさせて眠りにつきました。

そのことを思い返しながら今、夕刻にこれを書いています。あと数時間後にまたぐだぐだと・・・それはそれで面白くはあるのですが。

 

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自分をよく見せる読書

2022年12月12日 | 読む・聴く・観る

 

******

 この年になって、僕はようやくコツをつかんだんです。それは、「自分をよく見せる読書はしない」ってこと。

(中略)

 今は自分をよく見せることに頑張りたくなる時代だし、僕以外にもそうしている人もいるかもしれないですね。武器やお化粧みたいに読書歴をしてしまうというか。「あの店、行った?まあまあおいしかったよ」「さすが通だね」って褒め合うグルメ評と同じで、僕も長年そうしてきたところがあったけれど、ふと、それは違うんじゃないかって気付いたんです。

(中略)

 もっと読書というものを解放して気楽なものにするためにも、「カッコつけない読書」を広めたいなと思いますね。

(『日経BOOKプラス糸井重里「本からはじまる、本でつながる」糸井重里の告白「僕はもう、よそ行きの読書をやめました」より』

******

 

白状します。

ぼくも「自分をよく見せる読書」をしていました。

さすがにいつもいつでもではないけれど、「カッコつける読書」をしていたことはまちがいありません。

それが始まったのがいつごろからだったか。これはもう、ハッキリとしています。

このブログを始めた14年前からです。

日々のブログのネタ探しに苦労していたぼくは、ある日、自分が読んだ本をそれに充てることを思いつきました。

そう、最初はあくまで「読んだ本」だったのです。ところがすぐにそれは、ブログで紹介することを意識して本を読むに変わりました。「自分をよく見せる読書」のスタートです。

といっても、そうしようと意識してそうなったわけではありませんが、今から考えれば、そうなることは当然の成り行きだったような気がします。

でも、長年そういうことをつづけてくると、それに気づきます。「これはちがうんじゃないか」と思い始めたのです。むしろ最近では、そういう自分に辟易としていたところも多々ありました。そうすると、必然的に読書がたのしくなくなってきます。

なので近ごろはどうかと言うと、「アレを読むぞ」とか「コレを読んだ」とかをブログに書くことが少なくなりました。そして読む本そのものも、小説やエッセイやらが多くなってきました。

そしたら難しめな書物を敬遠するようになりました。難解さから逃げるようになったのです。

それでもかまわない人は別にどうということもないでしょうが、わたしにとってはそう簡単なことではありません。というのは、わたしが本を読む上での原動力のひとつとして、知らないことを知ろうとする、あるいはわからないことをわかろうとする、はたまた未知の考え方を学びたい、などなどの欲望があるからです。

そのために本がある。

これもまた、真実わたしの読書なのです。

65歳にもなってと笑わないでください。でも、これはカッコつけでもなく本当にそうなのですから致し方がありません。

である以上、自らの頭脳で理解できるかできないかスレスレのところを狙って読むことも必要です。いや、あきらかに理解できていないなと自覚できたとしても、どうにかしてそれをわかろうとするそのアタマの痛さから逃げずに読むことも時として必要でもあるのです。

そんな現状に、「なんだかなあ」と思う日々がいつごろからつづいていたでしょうか。

そんなある日、ふと糸井さんの文章を目にしました。

得たり、とうなずいたのは言うまでもありません。

といっても、このモヤモヤがその一文で劇的に変化することはたぶんないでしょう。

あいも変わらず「なんだかなあ」と思う日々がつづくのかもしれません。

でも、現時点でかなり気分が晴れたことはまちがいありません。

「自分をよく見せる読書」はしない。

「カッコつけない読書」をする。

本を読むのがイヤにならないためにも、そうありたいと願っています。

 

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『聾者は障害者か?』(奥田桂世さん)を読む

2022年09月20日 | 読む・聴く・観る

 

サイカルジャーナル』というNHKが運営するサイトに『「聾者は障害者か?」若者の問いかけ』という記事がある。それそのものは今年1月にアップロードされたものだが、知ったのはつい最近のことだ。教えてくれたのは東京在住の知己 Yさんである。

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「聾者は障害者か?」。

そう問いかけられたなら、私は思わず答えに窮してしまうだろう。しかし、ある高校生が、この問いかけを力強く全国に向けて発信した。

生まれてからずっと耳が聞こえず、そうした環境で生きてきたことを、誇りに思っている女性だ。

******

という書き出しではじまるその稿は、2021年の全国高校生読書体験記コンクールで最優秀賞に選ばれた奥田桂世さんの作品がもととなっており、その全文も掲載されている。読んでみて、その表現に新鮮な驚きを覚えた。

その書き出しはこうだ。

******

私は先天性の聾(ろう)で、両親も祖父母も聾者という家庭で育った。学校も乳幼児期からずっと聾学校に通っていた。だから、幼少期は、健聴者のことをむしろ「普通ではない」と思っていた。

******

まずこの表現が新鮮だ。幾人かの知り合いの聾者の顔が思い浮かんだ。そして、「ふつう」と「ふつうではない」について考えた。

とはいえ、言われてみればその通りである。おなじ環境にあれば、誰しもがそう思ってなんの不思議もないだろうなとスンナリと腑に落ちる。しかしそれは、あくまでも彼女が「言った」結果としての「言われてみれば」であり、その表現は、呑気に「ふつう」の側にいるわたしからは、簡単に出てくるようなものでないことは明らかである。

そんな彼女も、年齢があがるにつれ健聴者との交流が増えていくにしたがって、自分の方が「ふつうではない」と自覚するようになったらしい。だが、「自分のことを可哀想だと思う気持ちは全く生まれなかった」という。

そして彼女は次のような結論に達する。

******

私は、聾者というものは、健聴者とは異なる文化を持った、「少数民族」のようなものだと思えるようになったのである。

もしも、健聴者が生きる社会と聾者が生きる社会にはっきりとした境界があり、お互いに関わりを持たなかったら、社会で言われる「聴覚障害者」は全員、自分のことを「障害者」だと思わず、「聾者」という普通の人間として生きていたのではないだろうか。

******

この表現にはぶっ飛んだ。息を呑み、これまたスンナリと腑に落ちた。

そんな彼女は、「少数民族」の一員としての自分自身が使う「日本手話」を「第一言語」だと定義する。日本語とは異なる語順や文法によって成り立つ「日本手話」を「第一言語」とする彼女たち聾者が、日本という国における共通言語、すなわちマジョリティーの言語である日本語を習得するためには、健聴者の協力が必要となる。そしてその行動が、「障害」「支援」という名称で語られることとなる。

******

社会は私たちのことを「聴覚障害者」と呼ぶ。健聴者が中心の社会に足を一歩踏み入れたとたん、周りは私たちのことを異質な者と理解し、独自の方法で教育やコミュニケーションがなされる「障害者」と名付けるのである。

******

締めくくりはこうだ。

******

異なった文化を持っていても、異質であっても、何であっても、この世界に生きていることをお互いに受け入れる、尊重し合う姿勢が必要だ。そして、共に生きていくための合理的な配慮が普通にできる人間になるべきである。「障害者」という言葉を考え直すことが、「多様性」を維持する社会を実現する第一歩ではないかと強く思う。

******

巷には、「個性」や「多様性」や、それに類した言葉があふれかえっているが、これほど得心できる文章にはめったにお目にかかったことがない。

その観点や表現だけではなく論理の展開もまたじつにやわらかく自然で、それがこの文章を魅力的にしている大きな要因ではないだろうか。

なんだかとても爽やかな読後感とともに、そう思った。

 

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小三治を「読む」「聴く」「観る」

2022年08月10日 | 読む・聴く・観る

 

『小三治の落語』(広瀬和生)を読んでいた。

2014年に講談社より刊行された『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』の増補改訂版で、今年の5月に発行されたもの。その第2章では、小三治の主要演目について記されている。著者いわく、『よくある「演目解説」ではなく、小三治の演じ方について論じた「演目から見た小三治論」』である。

青菜、あくび指南、明烏、意地くらべ、一眼国、居残り佐平次、うどんや、鰻の幇間、馬の田楽ときて厩火事。そういえば、小三治の『厩火事』は聴いたことがなかったなと、読むのをやめて聴くことにした。「演目から見た小三治論」だとはいえ、ずっと読みつづけていると聴きたくなるのが人情だ。そろそろ限界か?と思いはじめたところへこの解説。

******

 旦那のところから女房が戻ったときの「俺だって食わねぇで待ってたんだ」「私と一緒にご飯食べたい?」「食いてぇや」「あら・・・」といった台詞にはハートマークが見えるようだ。

 小三治はこの噺を若い頃から得意にし、晩年まで頻繁に高座に掛け続けた。市井に生きる「ラブラブ夫婦」の他愛もないエピソードを描き、落語らしくストンと落とす噺が、小三治は大好きだったのである。

******

次へと読み進められるわけがない。

ということで、十代目柳屋小三治『厩火事』を聴く。

やはり落語は「読む物」ではなく「聴く」ものだと得心しながら聴く。

ついでにと、さしたる目当てもなく Youtubeを漁っていたら、『人間国宝柳家小三治~噺家人生悪くねえ~』というドキュメンタリーに行き当たった。テレビ北海道開局30周年特別番組としてつくられたプログラムだ。そこには、ほんの少しだけだが、亡くなる2年前の小三治の高座も収められていた。

観終わってからため息ひとつ。

落語を聴き始めてから8ヶ月。はなから薄々感づいてはいたが、とりあえずはと、あえて「聴く」にこだわっていた。しかしやはり、落語は演じているのを観てなんぼ。

やはり落語は「観る」ものなのだ。

だが待てよ。そんなことを言い出した日には、結局のところ「生」を「観る」のがイチバンで、「生」を「観る」しかなくなるではないか。

それができるに越したことはない。しかし、身はこの辺境にある。そんなことがおいそれとできるはずもない。

であればだ。そもそも「ものなのだ」という断定が不遜なのだ。

ということで、前言全部撤回。

落語は「聴く」ものであり「観る」ものであり、もひとつついでに、たまには「読む」ものでもある。わたしの場合はね。

うん、それでいいのだ。

(なんだい断定ぢゃないか)

 

 

 

 

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