♪これがネ たまるかネ
よんべの夢に ねーとチャッチャッ
好きなあのこの手をひいて
おんしゃなんなら
おらシバテンよ
おんちゃん相撲とろ とろうチヤ チャッチャッ
はっけよいよい はっけよいよい
はっけよいよい はっけよいよい
ソレのこったのこった まだまだのこった♪
「しばてん踊り」の一節です。
シバテンとは高知県や徳島県に伝わるカッパのような姿形をした妖怪のことで、全身が毛深く、背は子どものように低いが怪力の持ち主です。だからでしょうか、その最大の特徴はといえば、人間を見ると相撲をとろうとすること。
「おんしゃなんなら(オマエはなに?)」という問いかけに対し、「おらシバテンよ」と名乗り、間髪を入れず「おんちゃん(おじさん)相撲とろ」と挑んでくる上記の歌詞は、まさにその様子をあらわしたところです。
といっても、土佐に古くから伝わる妖怪シバテンの話をしようというのではありません。話題の対象は相撲です。
「しばてん踊り」にも歌われているように、「はっけよい」と「のこったのこった」は、それを耳にした多くの人が、相撲をとるという行為を想像する掛け声ですが、「のこった・・・」はともかく、「はっけよい」が何を意味する言葉なのか、正確に答えられる人は多くはないでしょう。
かくいうぼくも同様でした。しかも、それが何故そうなのかという疑問を抱くことすらなかったというのが正直なところです。
正しい答えは、おととい突然、テレビ画面のなかに降りてきました。
「発気揚々」
当代の式守伊之助が手にもった半紙には、墨痕あざやかにそう書かれていました。「はっきよい」と読むのだそうです。
「動きが止まったとき戦闘意識を促すという意味」なのだという解説があとにつづきました。
ナルホド。たしかにその言葉は、ちょっとばかり膠着しかけた際に行司の口から発せられます。深くうなずいたぼくはしかし、相撲とはなんの関係もない、現在のぼく自身の在りようについて考えていました。
「動きが止まったとき(はっけよいと声をかけて)戦闘意識を促す」
誰の身にも膠着や停滞は訪れます。一年三百六十五日、常に動き回ることができる人間などいるはずはありませんし、いつも物事が自分の思うように進むこともありません。淀んだり滞ったり、足止めを食ったり停留を余儀なくされたり、流れが阻害されたまま膠着状態に陥ってしまうのもよくあることです。
そこからどうやって脱け出すか。手を差し伸べてくれた他者によって脱出に成功することもあるでしょう。しかし、人の世は相撲とはちがいます。「はっけよい」と声をかけてくれる行司は、そうそう存在するものではありませんし、たとえその掛け声があったとしても、それに上手く乗ることができるかどうかは、留まっている本人の心持ち次第です。
もっともよいのは、セルフコントロールでしょう。自分が自分のために、自分に適したモティベーションアップの方法を持ち合わせておく必要があります。
発気揚々。
そういう意味で、たまさか巡り合ったこの四文字熟語が、ぼくの胸を射抜きました。「発気」とは、心を奮い立たせて気をとりなおすこと。「揚々」とは、得意なさま、誇らしげなさま。そこからイメージするのは、心を奮い立たせて顔を上げる自分。その読みは「はっきよい」ではなく、ましてや「はっけよい」でもなく「はっきようよう」です。
誰か、ぼくにその言葉を毫を揮ってくれる奇特な人はいないかしらん。