つぐみちゃん
月に一度の社内安全パトロール日は、同時に数少ない外食ランチの日でもあります。先月のそれは、ぼくよりひとつ年上の労働安全コンサルタントさんと、四十代前半の男女4名、計6名が参加して先々週の半ばに行われました。
問題が起こったのはその席でのことです。
向かい合った前期高齢者ふたりの会話は、時節柄もあって、自然とパリオリンピックの話題になりました。
「つぐみちゃん、帰って来るらしいねえ」
「えらかったねえ、つぐみちゃん」
4名のうちのひとりが口をはさみます。
「誰ですか?つぐみちゃんって」
ぼくとコンサルタントさんは、思わず「え?」という顔を見合わせ、ほとんど同時にその声の方を向きながら、ほぼ同じタイミングでこう言いました。
「つぐみちゃんはつぐみちゃんよ」
「だから誰ですか?」
どうしようもない年寄りたちだという顔をして笑いながらしたその再質問には返答せず、今度はぼくが単独で問い返しました。
「つぐみちゃん、知らんの?」
「知りません」
「マジか!」
今度はまたふたり同時です。
「アンタそれでも高知県民か!」
思わずぼくが発したキーワードで気づいたようでした。
「え?もしかして、桜井つぐみですか?」
「そう」
「だって、つぐみって言うから」
「つぐみちゃんはつぐみちゃんと呼ぶしかないやんか」
「じゃあ清岡幸太郎は?」
ぼくとコンサルタントさんは、顔を見合わせたあと無言でカウントし、息をそろえて口にしました。
「コータローよ」
もちろん、答え合わせはしていません。
するとどうしたことでしょうか。その4名は、腹を抱えて笑い出す始末です。
「じゃあアンタらはなんて呼ぶの?」
先ほどの1名が代表して答えました。
「清岡でしょ。桜井やし」
これはなんとしたことでしょうか。
ぼくの場合それは何も、高知県に92年ぶりに金メダルをもたらしたふたりへの親近感からだけではなく、阿部詩は「うたちゃん」だし、藤波朱理は「あかりちゃん」だし、早田ひなは「ひなちゃん」です。今回にかぎらずこれまでも、「みまちゃん」や「かすみちゃん」や「あいちゃん」や、ちゃん付けをして下の名前を呼ぶのは珍しいことではありませんでした。
それには、1歳上のお兄さんも同意してくれました。
ということは、高齢者あるいは昭和中期生まれ世代と昭和終盤生まれ平成育ちとの間に、生まれ育った時代によるギャップがあるということなのでしょうか。
「ちゃんづけ」あれこれ
そもそも「ちゃんづけ」は、どういった場面で使われるのでしょうか。
NHK放送用語委員会(第1465回、2023年6月)『子どもの敬称(さん・くん・ちゃん)意味の解釈がわかれる語の扱いについて』にはこうあります。
******「さん」は,「さま(様)」が変化したことば,「ちゃん」は「さん」が変化したことばである。「ちゃん」は親しい間柄にある人を,親しみを込めて呼ぶときなどに使われる,ややくだけた言い方である。また,「くん」は対等,または目下の人の名前に付けて軽い敬意や親しみの気持ちを表すことばである。******
このように、親しみや愛情を表現するための呼び方、それが「ちゃん」ですが、対象が誰であるかや、その年齢、性別、関係性によって使い方や意味が微妙に変わってきます。
代表的なものは、子どもへの呼びかけとしての「ちゃん」でしょう。
例えば「たろうちゃん」、また例えば「はなこちゃん」。愛情や親しみを込めた呼び方として機能する「ちゃん」は、社会的に未熟で保護されるべき存在ゆえにそうするのだと解釈できます。思うに、これが「ちゃんづけ」の原点なのでしょう。
しかし、「ちゃんづけ」が多数派なのかといえば、そうでもないようです。上記委員会では「議論の背景」として、こういう記述があります。
******子どもによく使われる敬称としては「さん」「くん」「ちゃん」の3種類の敬称がある。このうち「さん」は性別を問わず用いられるが,「くん」はもっぱら男(男の子)に使われる。男の子を「くん」,女の子を「さん」と呼び分けることについては,ジェンダーの観点から「さん」に統一するべきだという考えもある。小学校の教育現場では男女ともに「さん」付けで呼ぶ取り組みも広がっているが,子どもの名前が多様化する中,名前だけでは,男の子か女の子かの判断が難しいこともある。「ちゃん」は,「さん」と同じように男の子にも女の子にも使えるが,幼い子どもに使うことが多い,ややくだけた言い方である。どれくらいの年齢までの子どもに「ちゃん」を使うかは,放送においても,番組や,それが使われる場面によっても異なっている。******
『NHKことばのハンドブック(第2版)』の「敬称の扱い」「ちゃん(愛称)」の項目では以下のように規定されています。
******(1)敬称は原則として「さん」あるいは「氏」。複数の場合は「~の各氏」など。(2)学生や未成年者(男)には「君」を付けてもよい。また,学齢前の幼児には「ちゃん」を付ける。
次のような場合は,小学生についても「ちゃん」を適宜使ってもよい。①本人が痛ましい事件に巻き込まれた場合(誘拐,交通事故など)。②愛らしさを特に強調したい場合。******
「幼い子どもに使うことが多い,ややくだけた言い方」。これが「ちゃん」の一般的使われ方だということがわかります。
とはいえ、もちろんそれだけではありません。女性のファーストネームのあとに「ちゃん」をつけるのも、よく見聞きします。比較的若い女性に対してそうすることが多いようですし、子どもへの呼びかけにしても、男の子に対してよりも女の子に使う方が圧倒的に多いような気がします。これも親しみやすさを強調するものでしょう。家族間や友人同士、また職場でも使われることがあります。女性アイドルを「◯◯ちゃん」と呼ぶのもよくあることです。そういえば、無意識のうちにぼくとコンサルタントさんは、高知県に92年ぶりの金メダルをもたらしたという事実は同じであるにもかかわらず、桜井つぐみさんのみに「ちゃんづけ」し、清岡幸太郎くんは「コータロー」と呼び捨てにしています。それなども、そういう意識が表出したものなのでしょう。
親しい間柄であれば、なにも女性だけに限って用いられるわけではありません。フレンドリーな関係の場合のみに限定されはしますが、男性間あるいは女性が男性に対しても使用されます。
文化的背景を考えてみましょう。
さまざまな敬語が存在し、その体系がはっきりとしている日本語では、相手に敬意をあらわす方法が多様にあります。「ちゃんづけ」は、NHK放送用語委員会において「子どもの敬称」として取り上げられてように、その敬語体系のなかで親しみやすさを表現するものとして位置するもので、相手との関係をやわらかくし、距離感をちぢめてくれます。
女性や子どもに対して使われることが多いという事実から考えられるのは、それを使う心理に、性別や年齢への役割分担や社会的期待が含まれているということです。
ここから、現代日本における「ちゃんづけ」使用の変化が起こってきたのではないでしょうか。
男だから女だからという、性別による役割分担の意識が薄れてきたなかで、特に職場などの公な場所ではそれが不適切だという意見もありますし、実際、違和感を感じる人も多いようです。親しみを込めて使っているつもりでも、言われた方は、逆に相手に軽んじられたと感じてしまう。あるいは、男性が女性に対してのみ「ちゃんづけ」する事実から、性別による役割分担や権力関係を強調されていると捉え、ハラスメントだと感じてしまう。
そうなれば、フレンドリーに接しようとするための「ちゃん」が、逆にディスコミュニケーションを促進するものとしてはたらいてしまいます。職場の「ちゃんづけ」には十分な注意が必要なのではないでしょうか。
そうそう職場の「ちゃんづけ」といえば、かつて土木の現場には多くの女性がはたらいており、ぼくがこの仕事を始めたころは、既にそのほとんどが高齢者でした。その呼称には「さん」と「ちゃん」が混同して存在していましたが、60歳をすぎたおばあさんを「◯◯ちゃん」と呼んでも、呼ぶ方も呼ばれる方も違和感がなく自然に仕事をしておりました。それから考えれば、年配の女性にならばオッケーなのかもしれません(そんな問題ちゃうか^^;)。
では、ぼくとコンサルタントさんは、なぜ「つぐみちゃん」だったのでしょうか。
基本的に顔見知りに使う「ちゃん」を、まったく面識のないアスリートに対して使用するのは、使う側が感じている親近感のあらわれでしょう。近所のおじさんが近所の子どもに対してするようなものです。
だからぼくたちは、「つぐみちゃん」であり、「うたちゃん」「あかりちゃん」「ひなちゃん」なのですが、その一方で、ぼくらの子ども世代である、いっしょにランチした彼らにはそういう選択肢はない。つまり、世代や時代がそうさせているのではなく、単にぼくたちが立派なおじさん(いや、じいさんか)になったという事実からそれは生まれているのです(そういえば「あいちゃん」は途中からそうなったのであり、当初はフルネームの「福原愛」だったような気がします。つまりぼくたちも以前から「ちゃん」派ではなかった)。
ちなみにぼくの「ちゃんづけ」の、他の例はこうです。
息子の嫁さんは「ちゃんづけ」。
となりのおばあさん(10歳上)にも「ちゃんづけ」。
太鼓の弟子たちのうち、小学1年生の女子と保護者の女性1名に「ちゃんづけ」。
職場の女性には「さんづけ」(これは、「ちゃん」と「さん」が混合していたのを、昨年あたりから意識して変えました)。
職場の男性では2名に「ちゃんづけ」(これはニックネームのようなものですね)。
ふむ。こうやってあらためて見てみると、ぼくにとっての「ちゃんづけ」は、それほど頻繁に使われるものではないようです。そして、その一つひとつを精査してみると、そこには、親しみを込めてはもちろんのことですが、呼び易さや語呂の良さの影響が大きいようです。
「ちゃん」
いずれにしても、これでな~んにも考えずに使うことができなくなってしまいました。
使うけどね、「つぐみちゃん」は。