数ヶ月前、十数年ぶりに会った知人と談笑中のことです。
「会社のためを思ってやっていたら、いつのまにかクビになっていた」
そう話す彼は今、フリーランスです。
その場にはもうひとり。これまた数年ぶりに顔を合わす知人がいました。
「ぼくも同じ。会社のためにがんばってたけどクビ」
顔を見合わせて笑うふたりに挟まれたぼくはしかし、軽く苦笑いを浮かべただけでした。彼らに心底同意をすることができなかったからです。
「会社のため」と語る彼らの言葉に含意するのは正義です。
しかし、その形態が解雇なのか退職勧告なのかはわかりませんが、「クビ」を突きつけた側はそれを不義ととった。
正義を善意、不義を悪意と言い換えてもかまいません。
いずれにしても、正義と不義、善意と悪意は対極にあります。正反対です。今風に言えば真逆です。
なぜそう受け取られてしまったのか。相手にそう思わせた側にその責はないのか。その場の話しぶりと態度からは、そのことについての自己分析はないように感じました。
ぼくにも覚えがあります。
今の会社にお世話になる前の若かりしころ。
ここで上司的立場となり、若者をがんがん追いこみ、自らもバリバリ仕事をしていた二十年ほど前。
前者では、経営者にのみその責があると疑わず、自ら職場を離れました。
後者の場合は、ぼく自身にも否があったことに気づきました。「よかれの思い込み」や「善意の押しつけ」は、容易に刃となり得るのだということを悟りました。人と人との関係は、「自分の想い」という絶対的価値観だけで量れるものではなく、あくまでも相対的なものにすぎないのだという当たり前の道理に気づいたのは、もっと後のことです。
多くの場合、悪意(不義)には罪悪感があり、ブレーキがかかりやすいのに対し、善意(正義)には罪悪感がなく、内省が生じることも少ないのではないでしょうか。
ふたりの知人がそのどちらだったのか、問いかけはしませんでしたし、あえて知ろうとも思いません。彼らの言動が別の視点から見てどうだったのか、これもまた同様です。それほど親しい間柄ではないのですもの、そんな詮索は余計なお世話でしかありません。
そんなとき、ぼくのやることはいつも決まってひとつ。
ひるがえってオマエはどうなのだ?
そう自問するしかないのです。