答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「慣れ」の力

2024年09月02日 | ちょっと考えたこと
昨夜、たてつづけに鳴ったLINEの着信音に、早めの就寝を決めこんでいたぼくが起こされたのは10時になる前でした。目を閉じて1時間も経っていないというのに、なぜだか不機嫌にもなることなく、パッチリと目が覚めたので確認してみると、娘からです。送られてきたのは、400字詰め原稿用紙3枚に綴られた孫の読書感想文でした。
最初の3割ほどは、きれいな字で書かれており、文章もまあまあしっかりしているのですが、集中力がつづかなかったのか、あるいは気力の限界ゆえか、その後がいけません。見るからに、そして読めばなお、どんどんとまとまりのない文章になっていくのがあきらかでした。

とはいえ爺バカです。
内容はわるくないのになあ。
ついつい身びいきしたくなってしまうぼくがいました。

そのあと幾つかのやり取りがあり、しばらくして、送られてきたのが感想文を書く前段階でつくったらしいマインドマップです。

ほぉ、よいじゃないか。
(これまた爺バカです)
誰に習ったのか、そのマインドマップは、まるでその手法を自家薬籠のものとして使いこなしているかのように見えました。
(どうしようもなく爺バカです)

娘に訊くと、「マインドマップはスラスラ書く」ようです。ところが、それを文章化していくとなると途端に面倒くさくなるようで、挫けそうになるのを励ましながら、やっとこさゴールにたどり着いたのだそうです。

ふむふむナルホド。
うなずいたのは、それが何も彼にかぎったことではなく、そして子どもだけでもなく、多くの人にあらわれる現象だからです。

文章を書くことを苦手だと感じる人の多くは、思考を整理することが下手なように思えます。しかしそれは、その当人たちが思うほど能力不足によるものではありません。能力が不足しているというよりも、思考を整理して言語化し、それを組み立ててていくことに慣れていないからだというのがぼくの考えです。

文章を書くという行為は、頭のなかに浮かんだことや考えていることを整理し、言葉としてアウトプットし、それをつなげていくプロセスとしてあります。そのプロセスに慣れていないうちは、どうしても面倒に感じたり、混乱したりしてしまいます。それが「書く」ことへの抵抗を生み出し、「書く」という行為を必要以上に困難なものとして捉えるもととなります。

考えるのは面倒なことです。それを整理するのはもっと面倒です。
だから多くの人は、その面倒さゆえに壁の前で立ち止まり、それを越えようとはしません。しかし、その壁が越えられずにいると、頭のなかはますます混乱し、整理することが億劫になってしまいます。ひょっとしたらそれは「高い壁」でもなんでもなく、その気とコツさえあれば飛び越えられるハードルのようなものであるにもかかわらず、自分で自分をしばってしまい、可能性を閉ざしている人も少なくないはずです。
そう思えば、マインドマップという「考える」ための一助となるツールをスラスラと使いこなすだけでも、わが孫はまだマシな方なのかもしれません(しつこく爺バカです)。

それらはやがて、文章を書くのが下手だとか苦手だとかという自己評価につながっていきます。しかし、多くの場合でのそれは、経験や習慣が不足しているがゆえに発生しています。練習を積み重ねることで、思考を整理し、文字として表現するスキルが身についていきます。
まずは、ハードルをひとつ飛び越えること。しかし、ひとつだけでは得るものがほとんどありません。自らが感ずる面倒くささとファイトしながら、一つまたひとつと、飛び越えつづけることが大切です。
とはいえたまにはその億劫さに負け、立ち止まってしまうこともあるでしょう。そのときはそこで休めばよい。そしてまたはじめればよいし、つづければよい。トータルとして見たときに進んでいればそれでよいのです。

その積み重ねによって、壁を乗り越える力が備わってきます。そして、壁を乗り越えることができれば、それが自信となり成長へとつながります。
その繰り返しが、思考を深める習慣へとつながります。このプロセスが、「考える力」を強化し、さらに複雑で難解な問題があらわれたときに、それに対処できるような力となります。

だからこそ、最初はちいさなことからコツコツと。箇条書きでも短い文章でもよいので、ともかく考えたことを文章にする。そうやって文章を書くのに慣れる。そうすることで、徐々に思考を整理することに慣れ、文章を書くことへの抵抗感が薄れていくはずです。そして、徐々に長いものを書くように心がける。ここが重要です。短いままで止まっていては、いつまで経っても自信はつかないし、成長もしません。
といっても、とりあえずのその尺度はあくまでも自分基準でよく、自分の尺度で少しずつ長くしていく。それでよいのです。
その積み重ねが、自信となり、ひいては考えることそのものが楽しくなってくればシメたものです。その時点でもなお、文章を書くなど屁の河童、どうってことはないよ、とはならないでしょうが、少なくとも、「考える」そして、「考えながら書く」あるいは「書きながら考える」という行為に対する拒絶反応はかなり少なくなっているはずです。

というぼくとて、もともと年少のころから文章が書けたわけではありませんし、自分の考えを文章にできた記憶もありません。しかし、もちろんいまだに上手だとは言えませんが、昔と比べれば、桁違いで書けるようにはなりました。
なので、たまさか舞いこんできた孫の読書感想文を契機に、その体験をふまえて、これまでに抱いてきたぼくの考えを記しておくことにしました。もちろん、その対象はわが孫ではありません。ぼくたちの業界内に数多存在する、「文章嫌い」や「文章が苦手」な人たちに向けてのメッセージです。

小学4年生の彼には、そのうち折を見て直接伝えようと思います。
孫よ。爺とて昔は、とても面倒くさかったのだよと。その面倒くささから逃げていたのだよと。そして今でも、けっこう億劫なのだよと。その億劫さゆえに、ときどき逃げるのだよと。だからといって、それは君の能力不足でもなんでもない。ただ慣れていないだけなのだから、慣れるように心がけ、実践をしていけば、いつかは道がひらけるはずだと。

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