ぼくの「読み」が、ほぼ電子書籍になってからどのくらいの月日が経ったのでしょう。探し出すあてもないのですが、いずれにしても、十年ではきかないはずです。しかし、最初にそれをしている人を見たのは、しっかりハッキリと覚えています。山手線の車内でした。席に座ってiPadで本を読んでいるのは、四十代とおぼしき男性でした。
「ふ~ん、これが噂の電子書籍というやつか」
指でスワイプしながら本を読んでいる男を、珍奇なものを見るかのような目で見ていたであろうぼくの手には新書(もちろん紙です)がありました。『日本辺境論』(内田樹)です。その男の姿は、多大な影響を受けた新書の外観とともに、ぼくの網膜にしっかりと刻みこまれ今に至っています。
「やっぱ紙やないと」
そう思ったぼくの「読み」が、その後、ほぼKindleに変貌してしまうとは、まこと一寸先は闇とはよく言ったものです。
ではなぜぼくは電子書籍一辺倒になってしまったのでしょうか。あらためてその理由を思い浮かべてみました。
まず第一は、携帯性でしょう。端末に保存でき、それが別のデバイスと同期するため、場所を選ばずにどこでも読むことができるし、本を持ち歩かなくて済む。特に旅ともなると、その威力が抜群に発揮されます。
ふたつめは、検索が容易なことです。決まった語句で検索することもできますし、重要箇所や気に入ったセンテンスなどにマークをしておくと、一覧からすぐに探し出すことができます。
読みたいと欲すれば、瞬時に手に入るのも大きなメリットです。購入した瞬間から読み始めることができるというシステムは、土佐の高知の辺境で暮らすものにとって、田舎のハンディをまったく感じさせません。
よっつめは、文字のサイズを大きくできることです。年寄りには、文庫本などのような小さな字は非常に読みづらく堪えるのですが、好みのサイズに変更できる電子書籍ではそのようなことがありません。
かといって、目に優しいかというと、そうではありません。ブルーライトの影響は明らかで、長いあいだ読んでいると疲れてくるのは「紙」の比ではありません。
あと、物として保存できないというのも、本に対する所有欲が著しいぼく(だから社会人となってからはほとんど図書館を利用したことがない)のような人間にとっては、物足りないものでした。
しかし、それらのデメリットを補って余りあったゆえに、いつしかぼくの「読み」は「ほぼ電子」になってしまい、かなりの月日が経ちました。
変わったのはこの夏からです。戻ったと表現したほうが適切でしょう。原因は、特にありません。何か特別な意図があったわけでもなく、ある日、ただなんとなく「紙」を読んだら、思いがけずよかった。それがキッカケで、約2ヶ月ほどは紙オンリーでした。
自己推察するにそれは、デジタルロンダリングとでもいうような、一種の自浄行為だったのではないでしょうか。無意識の内でデジタルにまみれた自分と長いあいだアナログで生きてきた自分との平衡を保とうとしていたのだと思います。
2ヶ月ぶりにKindleを開いたのは先週のことでした。久方ぶりの出張のお供に指名したのは『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』(椎名美智、角川新書)でした。機上あるいはロビー、またホテルのベッドで読むふけったあとは、ライブラリの中に収められた南直哉さんの『仏教入門』(講談社現代新書)を再読し始め、今はその途中です。
その快適さに、このまま「ほぼ電子」に戻っていくのか、とも思ったのですが、さにあらん。旅から帰ってきて手にとったのは、『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』(青木真兵、東洋経済新報社)でした。まごうことなき紙の本です。
そんな今、ちょうど一週間前に書いた『〈私的〉建設DX〈考〉その16 ~揺り戻し~』という稿の締めくくりに、次のようなセンテンスを書いたのを思い出しています。
******揺れて戻ってまた揺れて・・・
いずれにしても、揺れっぱなしになることも、元に戻ったままとなることもありません。
******
紙と電子、アナログとデジタル、時と場合次第でどちらかに偏ることはあるのでしょうが、どちらかを捨て去ってしまうことはないはずです。
だってそうでしょう。なんとなればそれは、両者がまさに共存している、今という時代を生きる者でなければ味わえないものなのですから。