きのう受講した、とある講習会でのことです。
講習会といっても、業界で通常よくあるような技術者もしくは技能者を相手としたそれではなく、ある「業」の登録資格にからむものであったがゆえに、受講者の年齢層も比較的高いように見受けられました。
おそらく、4時間という限られた時間内で定められた内容のすべてを伝えるように命ぜられているのでしょう、おまけにそのあとには試験がついているときているものですから、講師はおそろしく早口で、そのなかに重要なポイント(つまり試験に出る)の伝達が入るのですから、「聞き逃すまいぞ」とばかりの受講生たちの真剣さが会場に充満していました。
さてそれは、始まって1時間も経っていたでしょうか。
「ここ大事ですからね。チェックをしておいてください」
講師が言いました。
間髪を入れず会場の静寂を打ち破るような声が響きました。
「どこや!わからん!」
隣りから発せられたその声は、あきらかな怒気を含んでいます。
刹那、会場に「なんなんだ?」という緊張ともなんともつかない空気が流れます。
ぼくは無言で、彼が見つけられない「大事なところ」をシャープペンシルの頭で指し示してあげました。
一瞬、話を止めて場内を見渡した講師も、何事もなかったかのように、また早口でつづけます。
それからも、時折り舌打ちのようなものをしたり、また何度かため息をついたりと、ぼくと同年配か、もしくは歳上と思しき男性のイラつきは、しばらくつづいたのですが、そのうちあきらめたのでしょう、他人がそれと感じられるようなリアクションはなくなってしまいました。
年寄りになるとキレやすくなる、とは巷間よく用いられる表現です。ぼくの周りでもその実例は掃いて捨てるほどあります。
一方で、歳をとると穏やかになるとも言います。これもまた、あの人にあの人、と指を折ってたくさんの例をあげることができますから、どちらが年寄りの傾向として真なのかと、どちらか一方に軍配をあげることはできません。少なくともぼくには、人生いろいろ、老若男女の別なく人それぞれ、という曖昧な答えしか浮かんできません。
その夜、学生時代の同級、後輩数人と四十数年ぶりに会い杯をかたむけました。
なかのひとりが言います。
「みんな変わらんな。外見は変わったけど雰囲気はおなじや」
「そうか?」
と疑念をはさんだのはぼくでした。
「たしかにオマエラはあの頃といっしょやけど、オレ、こんなニコニコしてなかったやろ?」
「そういやそうやな」
という同意のあと、つづいた言葉は、じつに的を射たものでした。
「いっつも世の中を斜めから見てなあ。むつかしい顔して屁理屈を言うて」
「うん、たしかに」
内心では、「理屈」は言ってたが「屁理屈」ではなかったぞと思いつつも、苦笑しながら同意をするしかないぼくでした。
そのあと話題は、あっちへ飛んだりこっちへ戻ったりしながら時が流れていったのですが、そのうち、三十数年前に起こったある殺人事件の被害者の話題へと移ったのは、その場にいた皆が、学生時代にその男性とけっこう濃密な関わりがあり、同様に否定的な感情を有していたことを考えれば、必然的だったのでしょう。
「あの事件のニュースを聞いてな。オレ、オマエの顔を思い浮かべてん」
同級生が真面目な顔で言います。
「あの加害者が、ひょっとしたらオマエやっても不思議やないなと思うてな」
「なんでよ」
「オマエ、いつか殺ったろと思てたやろ?」
「そんなこと思うたこともないわ」
「いや、ゼッタイ思てたはずや。なあ」
横にいた後輩が同意します。
「うん、ゼッタイ思てた。そんな顔してましたもん」
念のため言っておきますが、六十有余年生きてきて、数え切れないほど多くの人間を嫌いになりはしましがた、殺めてやろうと決意するほど人を憎んだことはありません。
とはいえ、他人にそう思わせるような尖った部分が当時のぼくにあったかなかったかといえば、ぼく自身がどう思おうと、答えは旧友の言葉があらわしているのでしょう。
そう考えると、思わず同意の言葉が口をついて出てしまいました。
「そうやな、かもしれんわ」
「そうやろ、一歩まちがえたら殺ってた。ゼッタイそうやったはずやわ。なあ」
「うん、そうやゼッタイ」
「ちゃうわ。言うてみただけや(笑)」
(一同爆笑)
彼らと共にすごした日々から、五十年になろうかという歳月が経ちました。
ぼくはといえば、「今のところ」という括弧つきではあるものの、キレやすい年寄りにはならなかったようです。もちろん、何もせずに「丸く」なったわけではありません。自然に齢が重なった結果として「丸く」なった人は大勢いるのでしょうが、少なくともぼくの場合は、相当に意識的ではありました。
それについて自己分析をしてみれば、「他者との関係性」や「自責と他責」あるいは「開くか閉じるか」などなどのキーワードを用いて解き明かしていくことができないことはないのでしょうが、自らでそれを行うのは、ぼくの感覚では野暮でしかありません。
しかも、そうなるためのアプローチにしても、紆余曲折のロングアンドワインディングロード、なんなら今もその途上にあります。であれば、あしたのぼくが「キレる老人」ではないという保証はどこにもありません。
さて、あしたはいったいどっちなのでしょうか。
ただ今のところは、乞うご期待、と言うしかないのです。