よし、これからは歩かないぞと決めた。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ」、また、「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」。
きのうの常識が今日も常識とはかぎらない。
まちがっていると気づいたら、すぐに修正する。
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と書いたのはきのうのこと。
そう言ってはみたが、じつはわたし、めったなことではエスカレーター上を歩かない。エスカレーターを使わないと表現したほうが正しいだろうか。「動く歩道」つまり水平型エスカレーターもまたしかり。よほど急いでいるか、連れがいるかを除いては、エスカレーターの類は使わずに歩く。
冷静になって考えてみれば、「よほど急いでいるか」という場合も、エスカレーターを歩くメリットはほとんどないといっていいだろう。「そうか?」とお思いになるならば、試しにヨーイドンで歩いてみるといい。エレベーター上を歩くのも階段を歩くのもそんなには変わらない。それが「動く歩道」になるとなおさらだ。ムービングウォークをわざわざウォーキングするよりも、おのれの足のみで歩いたほうがよほど速い。これもまた、試してみるとはっきりわかる(人それぞれで結果は異なるでしょうが、いずれにしても大差ない)。
で、何年も前からほとんどエスカレーターは使わない。
ただ、ついつい使ってしまうことがある。
「よほど急いでいる」場合にだ。
なもんだから必然的に歩く。
ずんずんと歩く。
まわりのことなど知ったこっちゃない。
そのときアタマのなかにあるのは「自分のこと」だけだ。
考えてみればこれが諸悪の根源だ。
「自分のこと」しか見えないとき、「自分のこと」しか考えられないとき、つまり自我に搦め捕られているそんなときが、わたしにとってよくない結果が起こる蓋然性がきわめて高くなるときだ。よくない体験の多くは、そのようなときに起っている。「自分のこと」しか考えないという「自分可愛さ」ゆえの行動が、結局のところ、可愛いかわいい自分にとってよくない結果を生み出してしまうというのは、なんとも皮肉なものだが、事実そうなのだ。
してみると、わたしにとっての「エレベーターでは歩かないで」問題と、そこから生じた「エレベータで歩かないぞ」宣言は、つまるところ、「自我に搦め捕られないようにしようぜ」という心持ちの問題だということがわかった。
『危険なマナー「片側空け」は変わるか エスカレーター「歩かないで!」東京駅で対策』というWebニュースを読んでから一夜明けた今朝、NHKで同じ内容のニュースが流れていたのを見て、ついついまたまた考えてみた。
(とかナントカ言いながら、信号のひとつすらない村で日々を生きる辺境の土木屋が、次、エスカレーターに乗るのはいつになるか、さっぱり見当がつかないのは変わらないのだけれど)
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