このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。
新約聖書:使徒言行録 3章22節(新共同訳)
今日はこの事を書きたかったので、二つ書きます。
毎日、まだなかなか起きられなくて、起きるまで結構かかるのですが、10年以上精神面のサポートをして頂いている牧師先生に頂いた言葉で、とても慰められているのがこの言葉です。
「シズコさんにはわからなくとも、神様の方でシズコさんが生きている意味がちゃんとあるのですから、安心して生きていてくださいね」
この言葉を頂いてから、すごく気持ちが楽になりました。


今絵文字に出した、ひよこやニワトリ、カメさんは、みんなちっちゃいものだけど、意味がなくて存在しているなんて無いんだよね。
それと同じように、私も、何もしていないでただ起きて居る時、罪悪感をよく感じがちなんだけど、「神様の方が私の生きている意味をご存知だ」
そう思うと、ぐんと楽になるのです。
自分がこんな風に、家にいがちになってから、やはり動けてた時の自分と比べて「なんでこんな?」って思う時、この先生の言葉を思い出します。
また今日友達がメールをくれて「どんな時でも意味がある、だから焦らないで」と慰めてくれた時も、「あ、そうなんだろうなあ・・・」と感じました。
コヘレトの言葉(=伝道の書)にあるように、「時がある」のだと思います。今は一歩一歩休みながら、神様に起こしてもらうのを待っている感じ。
そりゃ、毎日元気で、もりもり働ければ何よりなんだろうけど、こうして弱くなる時も、神様は必要だから与えてくれたんだろうな、と思う。
苦しむのは辛いし、出来たら避けたいけれど、苦しまないとわからないこともあるなーと思う。
なんかそんな詩が、水野源三さんの詩にあったなーと思いながら書いている。
今日はなんか手が勝手に神様が動かして下さって書いているような感じ。
ここのコメントを開放制にしたのは、一時期私に対する誹謗中傷がものすごくて耐えられなかったからです。
ネットって怖い、って前書いたけど、あるコメントは私に「自殺」をほのめかすような内容だったので、パニックになり、一切パソコンを開けなくなった時期もありました。
でも、ネットを使っていろんなサイトや記事を見てみると、ネットはある意味、匿名性があるから、書き放題なんだなあと感じました。
でも自分がそう言う目に合うのを避けることや、このブログを気持ちよくすることは私にもできるから、あえてコメント欄を開放制にしました。
自分もある意味、否定的で刺激的なメッセージや記事に、ずずずずっと引かれて読んでしまう時や、書きたくなる時があるけど、そのことに気付いてから、なるたけ、自分はそういうのを読まないようにしよう、書かないようにしよう、と心がけています。
ネットもメールも便利だけど、気持ちよく使う道具にしたいなあと心から思います。
この画像は前に撮って保存していた画像です。タイトルもつけてました。「何気ない花」。
それこそ、どこかで何気なく「素敵だな」と撮った写真なんだと思います。多分スーパーのお手洗いじゃないかな?お手洗いにはこんな風に綺麗なお花が飾られている事が多いです。
スマホになってから、画像を撮ってもパソコンに送信の仕方がわからなくて・・・
・・・前に取り貯めていた画像を貼っているのですが、そんな撮りためた花も、今こうして使えたのだから、世の中に無駄な事は多分、無いんだと思います・・・。
このブログの聖句も、遅くなってから何か癒される事があるのかもしれない、と思って選びました。
何気ない花さん、役に立ってくれてありがとう。

そしてこのブログが(冬だけど)人を傷つける場所じゃなくて、あたたかい交流の場となりますように。
神様、よろしくお願いします。

山形市内は今日、初めて雪90~100パーセントの天気になりました。寒いよ~。
雪道今度運転大変だなーと思ったら、「車って遊びの部分が必要なんだっけ」と思い出しました。
今の私の時期も、人生の遊びの時期なのかもしれません。
追伸:
テンプレート、クリスマス用あっけがら、変えったよはー!
(=追伸:テンプレート、クリスマス用あったから、変えましたよーの、山形弁。山形弁は、語尾に「は」がつくことがある。)
ほんては全部山形弁で書いてみったいげっと、ほしたら読める人、少なくなるもねは~。
(=本当は、全部山形弁で書いてみたいんだけど、そうしたら読める人、少なくなりますものね~。)
やっぱり私の母語は、山形弁のようです。

ブログランキングクリックお願いします。
11にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
新約聖書:使徒言行録 3章22節(新共同訳)
今日はこの事を書きたかったので、二つ書きます。
毎日、まだなかなか起きられなくて、起きるまで結構かかるのですが、10年以上精神面のサポートをして頂いている牧師先生に頂いた言葉で、とても慰められているのがこの言葉です。
「シズコさんにはわからなくとも、神様の方でシズコさんが生きている意味がちゃんとあるのですから、安心して生きていてくださいね」
この言葉を頂いてから、すごく気持ちが楽になりました。



今絵文字に出した、ひよこやニワトリ、カメさんは、みんなちっちゃいものだけど、意味がなくて存在しているなんて無いんだよね。
それと同じように、私も、何もしていないでただ起きて居る時、罪悪感をよく感じがちなんだけど、「神様の方が私の生きている意味をご存知だ」
そう思うと、ぐんと楽になるのです。
自分がこんな風に、家にいがちになってから、やはり動けてた時の自分と比べて「なんでこんな?」って思う時、この先生の言葉を思い出します。
また今日友達がメールをくれて「どんな時でも意味がある、だから焦らないで」と慰めてくれた時も、「あ、そうなんだろうなあ・・・」と感じました。
コヘレトの言葉(=伝道の書)にあるように、「時がある」のだと思います。今は一歩一歩休みながら、神様に起こしてもらうのを待っている感じ。
そりゃ、毎日元気で、もりもり働ければ何よりなんだろうけど、こうして弱くなる時も、神様は必要だから与えてくれたんだろうな、と思う。
苦しむのは辛いし、出来たら避けたいけれど、苦しまないとわからないこともあるなーと思う。
なんかそんな詩が、水野源三さんの詩にあったなーと思いながら書いている。
今日はなんか手が勝手に神様が動かして下さって書いているような感じ。

ここのコメントを開放制にしたのは、一時期私に対する誹謗中傷がものすごくて耐えられなかったからです。
ネットって怖い、って前書いたけど、あるコメントは私に「自殺」をほのめかすような内容だったので、パニックになり、一切パソコンを開けなくなった時期もありました。
でも、ネットを使っていろんなサイトや記事を見てみると、ネットはある意味、匿名性があるから、書き放題なんだなあと感じました。
でも自分がそう言う目に合うのを避けることや、このブログを気持ちよくすることは私にもできるから、あえてコメント欄を開放制にしました。

自分もある意味、否定的で刺激的なメッセージや記事に、ずずずずっと引かれて読んでしまう時や、書きたくなる時があるけど、そのことに気付いてから、なるたけ、自分はそういうのを読まないようにしよう、書かないようにしよう、と心がけています。
ネットもメールも便利だけど、気持ちよく使う道具にしたいなあと心から思います。

この画像は前に撮って保存していた画像です。タイトルもつけてました。「何気ない花」。
それこそ、どこかで何気なく「素敵だな」と撮った写真なんだと思います。多分スーパーのお手洗いじゃないかな?お手洗いにはこんな風に綺麗なお花が飾られている事が多いです。
スマホになってから、画像を撮ってもパソコンに送信の仕方がわからなくて・・・

このブログの聖句も、遅くなってから何か癒される事があるのかもしれない、と思って選びました。
何気ない花さん、役に立ってくれてありがとう。


そしてこのブログが(冬だけど)人を傷つける場所じゃなくて、あたたかい交流の場となりますように。

神様、よろしくお願いします。


山形市内は今日、初めて雪90~100パーセントの天気になりました。寒いよ~。

雪道今度運転大変だなーと思ったら、「車って遊びの部分が必要なんだっけ」と思い出しました。

今の私の時期も、人生の遊びの時期なのかもしれません。

追伸:


(=追伸:テンプレート、クリスマス用あったから、変えましたよーの、山形弁。山形弁は、語尾に「は」がつくことがある。)
ほんては全部山形弁で書いてみったいげっと、ほしたら読める人、少なくなるもねは~。

(=本当は、全部山形弁で書いてみたいんだけど、そうしたら読める人、少なくなりますものね~。)

やっぱり私の母語は、山形弁のようです。


ブログランキングクリックお願いします。




