私が大学の非常勤講師として、教育原理の授業を担当した時の話です。
その日のテーマは、「日本の教育の流れを学ぶ」で、相手は”ゆとり世代”に育った学生たちでした。驚くことに、彼らのほとんどが”ゆとり”に対してマイナスイメージを抱いていました。というよりも、周囲がそう評価していると感じていたようです。
国が決めてやった教育なのに、なぜ自分たちが「”ゆとり”は学力が低い」とか、「何もできない」などと言われなくてはいけないのかと、怒りに近い思いを抱いていたのです。
授業後に、学生たちが書いた感想文を紹介します。
今日先生の話を聞いて、ゆとりはわるいだけでなくいいとこもあるのかなと思った。勉強は他の学年に比べたらしていないけど、その分たくさん遊び、部活をし、座って学習するだけじゃえられないことを学びました。総合的な学習の時間や道徳の時間も多く、自分たちでお店を開き働く大変さを学んだり、茶道などの歴史にふれ、地域の人と交流したり昔のものを知ることができました。そして、ゆとりだからといってだらけていたわけではなく、ゆとりの中にも厳しい先生もいて怒られたり、もちろんたくさん勉強もしてきました。ゆとりはゆとりで良いところもあるのだと思いました。
学活や総合などの時間が減った?(なくなった)事は少しショックでした。あの時間に普段できない学びをできるから、私は総合の時間が好きでした。ということは、私の小学校ではその時間にお米を作ったりしていたのですが、それらもしなくなるのでしょうか? とても悲しいです。
私はゆとり世代に自信をもっています。何かあればすぐに「ゆとり」だとバカにされるけど、そんな「ゆとり教育」を作ったのもなくしたのもこの日本なのに、どうしたいんだろうと思います。頭が良いから、世界のランキングが1位だから、そんな事は別にどうでも良いのです。子どもはハダシで草原を走り、つかれるほど遊び、たくさんケンカしてケガして……。それが今の日本に必要な子どもの姿だと思います。
以下、授業で学生たちに語った概要です。
教育は時代によって変化するもので、教壇に立つ者は、常にその流れの中に身を置きながら、その時々で最善の教育実践を進める努力をしている。個人的な感想を述べると、”ゆとり教育”の時期は、教育実践の成果を生徒と一緒に味わえる最高の教育ができたと思う。
学校の実態に応じたカリキュラムを、学ぶ側にもっとも身近な教育者が、学びの主体者の現実や思いをふまえつつ、地域の力を得ながら作成し実践することができる画期的な教育方法であった。
私がいた学校での総合的な学習の時間には、ものづくり、自然観察(水質検査など)、郷土芸能、演劇、音楽、郷土料理、福祉体験など、生徒一人ひとりの興味・関心にできるだけ近いテーマを立て、コースごとに年間計画を設定し、最後の発表会で学びの成果を披露できるように取り組んでいく。
また、各コースがどのように進んでいるかを取材して伝えていく広報班や、全体の流れを掌握して発表会の企画・運営を担う生徒たちの班を中心として、地域の文化会館でのファイナルステージをつくり上げていく。そのフィナーレは、手話を交えた「世界に一つだけの花」の大合唱。発表者全員がステージに上がって手をつなぎ、会場内の保護者・地域の方々と一つになって、大ホールが揺れんばかりの熱唱であった。会場にいた生徒、教師たちは、感動の涙で結ばれた。
もし、”ゆとり教育”を、学力低下を招く遊びの時間だったなどと批判する教育者がいたとすれば、彼自身が、創造の喜びや不思議の世界を解明していく知の欲求、他と学び合い共に生きる時間と場を味わったことがない可能性があると思う。もし、そのような人が、この国の教育の流れを変える力をもっているとすれば、たいへん悲しく怖ろしいことである。
ゆとり世代の若者たちよ。皆さんは、本当の意味での豊かな感性、豊かな心、創造的で共に支え合って生きていく力をはぐくむ教育を受けてきたんだよ。胸を張って、堂々と未来を切り拓いておくれ。
その日のテーマは、「日本の教育の流れを学ぶ」で、相手は”ゆとり世代”に育った学生たちでした。驚くことに、彼らのほとんどが”ゆとり”に対してマイナスイメージを抱いていました。というよりも、周囲がそう評価していると感じていたようです。
国が決めてやった教育なのに、なぜ自分たちが「”ゆとり”は学力が低い」とか、「何もできない」などと言われなくてはいけないのかと、怒りに近い思いを抱いていたのです。
授業後に、学生たちが書いた感想文を紹介します。
今日先生の話を聞いて、ゆとりはわるいだけでなくいいとこもあるのかなと思った。勉強は他の学年に比べたらしていないけど、その分たくさん遊び、部活をし、座って学習するだけじゃえられないことを学びました。総合的な学習の時間や道徳の時間も多く、自分たちでお店を開き働く大変さを学んだり、茶道などの歴史にふれ、地域の人と交流したり昔のものを知ることができました。そして、ゆとりだからといってだらけていたわけではなく、ゆとりの中にも厳しい先生もいて怒られたり、もちろんたくさん勉強もしてきました。ゆとりはゆとりで良いところもあるのだと思いました。
学活や総合などの時間が減った?(なくなった)事は少しショックでした。あの時間に普段できない学びをできるから、私は総合の時間が好きでした。ということは、私の小学校ではその時間にお米を作ったりしていたのですが、それらもしなくなるのでしょうか? とても悲しいです。
私はゆとり世代に自信をもっています。何かあればすぐに「ゆとり」だとバカにされるけど、そんな「ゆとり教育」を作ったのもなくしたのもこの日本なのに、どうしたいんだろうと思います。頭が良いから、世界のランキングが1位だから、そんな事は別にどうでも良いのです。子どもはハダシで草原を走り、つかれるほど遊び、たくさんケンカしてケガして……。それが今の日本に必要な子どもの姿だと思います。
以下、授業で学生たちに語った概要です。
教育は時代によって変化するもので、教壇に立つ者は、常にその流れの中に身を置きながら、その時々で最善の教育実践を進める努力をしている。個人的な感想を述べると、”ゆとり教育”の時期は、教育実践の成果を生徒と一緒に味わえる最高の教育ができたと思う。
学校の実態に応じたカリキュラムを、学ぶ側にもっとも身近な教育者が、学びの主体者の現実や思いをふまえつつ、地域の力を得ながら作成し実践することができる画期的な教育方法であった。
私がいた学校での総合的な学習の時間には、ものづくり、自然観察(水質検査など)、郷土芸能、演劇、音楽、郷土料理、福祉体験など、生徒一人ひとりの興味・関心にできるだけ近いテーマを立て、コースごとに年間計画を設定し、最後の発表会で学びの成果を披露できるように取り組んでいく。
また、各コースがどのように進んでいるかを取材して伝えていく広報班や、全体の流れを掌握して発表会の企画・運営を担う生徒たちの班を中心として、地域の文化会館でのファイナルステージをつくり上げていく。そのフィナーレは、手話を交えた「世界に一つだけの花」の大合唱。発表者全員がステージに上がって手をつなぎ、会場内の保護者・地域の方々と一つになって、大ホールが揺れんばかりの熱唱であった。会場にいた生徒、教師たちは、感動の涙で結ばれた。
もし、”ゆとり教育”を、学力低下を招く遊びの時間だったなどと批判する教育者がいたとすれば、彼自身が、創造の喜びや不思議の世界を解明していく知の欲求、他と学び合い共に生きる時間と場を味わったことがない可能性があると思う。もし、そのような人が、この国の教育の流れを変える力をもっているとすれば、たいへん悲しく怖ろしいことである。
ゆとり世代の若者たちよ。皆さんは、本当の意味での豊かな感性、豊かな心、創造的で共に支え合って生きていく力をはぐくむ教育を受けてきたんだよ。胸を張って、堂々と未来を切り拓いておくれ。
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