きままな旅

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2015/09/29 岩倉市の散策(No1)

2015-10-11 | 尾張文化の会

2015/09/29 岩倉市の散策(No1)
 今回は小生のグループで先輩による計画ルートを資料に基づき岩倉市の謎探訪です。
  春日井駅を8時24分発のバスに乗り名鉄小牧駅へ、乗り換えて名鉄岩倉駅までのバスの旅、後は徒歩による探訪で新溝神社、證法寺、神明生田神社、岩倉城跡、神明大一社と訪問しました。
 名鉄岩倉支線(廃線)は昭和21年(1946)に開業し、昭和39年(1964)廃止のルートとほぼ同じ道をバスに乗り小牧駅-西小牧-小針-小木-中市場-岩倉駅へ行きました。
✿新溝神社(にいみぞじんじゃ)
 本殿下の小高い部分が新溝古墳である。この古墳は須恵器杯の型式から6世紀ころの築造と推定される。旧神殿を整備中に数個の巨石が堀り出され神殿階段等の台石になっている。また本殿東側に「磐座」(いわくら)として祀られている偏平の巨石は、この古墳の石室を覆っていた巨石である。最近の新聞記事で岩倉市の「岩倉」という地名の由来となったとされる。市民の目に触れる機会が少ないことから「市の名前の発祥の地として公開しては」との声が上がっていると也。
  
・神殿   ・磐座   ・堀り出され階段の台石
✿渡邊錠太郎の慰霊碑
 陸軍将兵によるクーデターを起し、二・二六事件(1936年)で陸軍大将渡邊錠太郎は時の陸軍将校に殺害された犠牲者の一人である。
 陸軍大将渡邊は小牧で生まれ、19歳で岩倉の渡邊家へ養子となった方です。
 慰霊碑には従二位勲一等五級渡邊陸軍大将の謹書で「國運進展ノ基礎ハ青年ノ修養ニ須ソコノ多シ諸子能ク内外ノ情勢ニ顧ミ恒ニ其ノ本文ヲ盡シ奮勵協力以テ所期ノ目的ヲ達成スルニ勗ノコトヲ望ム」と記してあった(確認要)。
現在でも通用する教訓と小生は深く感じた。
以前に小牧市の西林寺に渡邊陸軍大将の銅像が有った。
   
・陸軍大将渡邊の慰霊碑    ・西林寺(小牧市)   ・陸軍大将渡邊の像
✿證法寺(しょうぼうじ)
 ここは親鸞聖人が泊まったという伝説があり、この地域は湿地地帯で蚊の多いはずである、しかし聖人は「蚊のいない寺」と言い残している。
 
・山門     ・本堂
✿山内一豊誕生地
 一豊は天文14年(1545)に岩倉城の家老但馬守盛豊の次男として、岩倉の地に誕生した。一豊の誕生碑は、父盛豊が「武運長久を祈って社を建てた」という由緒により神明生田神社境内に建てられた。
    
・山内一豊誕生地の碑        ・神明生田神社   ・神殿
✿岩倉城跡(いわくらじょうあと)
 築城は文明十一年(1479)頃織田伊勢守敏広により築かれ、尾張上国(丹羽・葉栗・中島・春日井)の拠点として、約80年間栄えた。尾張下国(愛知・知多・海東・海西)を支配する清洲城と並んで重要な城であった。織田伊勢守信安が末森城主織田信行と同盟を結んでいたことで、永禄2年(1559)信長に攻められ落城した。信長は岩倉城を攻略し、その翌年桶狭間で戦勝、小牧山城、安土城へと天下取りへと進んだ。
 
・石碑     ・織田伊勢守信安の碑
✿神明大一社(しんめいだいいちしゃ)<神明太一宮>
 ご祭神は天照皇大神、豊受皇大神、国常立尊、倭姫命です。
 ご由緒は平安時代より、伊勢の神宮を勧請された神明社ある。
 戦国時代は社殿も、信長に岩倉城攻めと同時に矢で撃ちされた。
 
・神明太一宮     ・拝殿
     以上

 

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