6人の学術会員の任命を拒否した菅首相、「思想信条に
よる差別」を、「学術会議のあり方を問う」とすり替えた。
これを「真摯に」受けた学術会議は、国内外の識者にも
幅広く意見を求め「あり方」を提言した。
これを改革に消極的と決めつけた菅政権は「国の予算を
使いながら国と違う意見を示すのはおかしい」と言い放つ。
国(政権)の予算ではなく「国民の予算」であることを
無視した傲慢さにも腹が立つが、何よりも「金を貰うなら
いうことを聞け」は、最早この政権に自浄作用がないこと
が暴露されている。
このほど、6人の学術会員は「任命拒否の理由」の文書
開示を請求した。さあ、菅君は何と言って請求を却下する
だろうか。安倍君から引き継いだお得意のあの手(文書は
破棄された)もある。
さて、水戸観光の続きは、第九代水戸藩主、徳川斉昭が
造った偕楽園と共に「水戸と言えば」の弘道館跡である。
9時の開場を待ってホテルをチェックアウトして駆けつけ、
いや、歩きつける。
正門は開かずの門である。脇の潜り戸から入った受付
では銭受盆の縁に「70歳以上は半額」。
水戸城三の丸の中に二年かけて建設した、日本最大の
藩校はまさに江戸時代の総合大学であった。約400m四方
という広大な敷地には、医学館、天文台、武館、文館と
厩や調練場なども配置され、中心には本館とも言える正庁
が置かれた。
残念ながら正庁や孔子館を除き、幕末の藩内抗争である
弘道館戦争で多くが失われた。太平洋戦争の水戸空襲では
市民の必死の消火活動で、弘道館のシンボルである正庁が
残ったのは奇跡である。
その弘道館正庁へも玄関ではなく脇の廊下から入る。
斉昭書の「弘道館」の扁額は掠れてほとんど読めず。
見学者入口の右脇は「国老詰所」で今は資料室である。
まずは玄関奥の「諸役会所」。これも斉昭書の「尊攘」
がデンと掛かる。尊王攘夷はこの水戸発祥の思想である。
長い廊下を曲がって正庁正室の間となる。藩主が臨席する
試験や諸儀式が行われたところ。床の間の「弘道館記」の
碑面が圧巻である。
これも斉昭の書と言う「游於藝」の扁額、あれ?どこに
あった?実はこの部屋に入る鴨居の上にあったらしいが、
武術の試験を見たという庭に目を取られて見逃した。
その庭の向こう側は三の丸小学校。ここを眺めながら
勉強する生徒たちに日本の将来を託そう。
廊下では「青天を衝け」の大河ドラマに呼応したのか
渋沢栄一の企画展。大正の始め、水戸を訪問した栄一は
弘道館を訪れ、県立商業高校などで講演したと言う。
これは、斉昭のブレーンだった藤田東湖の書、見事で
あるが、なんと渋沢栄一が所蔵していたと言う。
十間(18m)廊下という長い廊下でも慶喜や栄一の
関連資料が大量に展示される。そのほとんどをカメラに
納めたが省略する。
この長い畳廊下の先が、離れと言う感じの「至善堂」で、
奥の「御座の間」は藩主の休憩室。明治元年に上野寛永寺
から水戸に下野した慶喜が恭順謹慎したところ。
昭和40年、茨城県の依頼で日本画家、羽石光志が描いた
慶喜の肖像画は、この謹慎中の様子と言う。水戸と言えば
の梅に実がついている。
展示物の中での一番はやはり「大日本史」であろう。
第三代藩主の水戸光圀が生涯をかけて編纂指揮を取った
日本通史である。
その中身、これではチンプンカンプンである。
最後に資料室で弘道館の建学精神や教授陣などを見て
感心し、入口脇にある四つの歴史的な「学校」を知り、
最後に同年輩の御婦人の係員と水戸談義をして有意義な
約一時間の見学を終わる。
次回の(その4)は、千波(センバ)湖畔から偕楽園への
ウォーキングである。